数日前くらいだったか、コピペアカウントとして悪名高いCopy__writingが女子高生にインタビューを受け、潜在的なアンチに火が付き遂に大炎上という愉快な展開を迎えていた。
きっかけとなったインタビュー記事は『@Copy_writing中の人インタビュー!「インターネットは、すべての話を良い方向に持って行こうとする傾向があるけど、暗いことは暗いことでいいじゃない、と言いたい」』で読める。コピペアカウントにむやみにインタビューした女子高生のリテラシーを責める向きもあるが、どちらかというとこれはアップロードまでにストップをかけられなかった大人の責任であるような気がしている。
実はこの「大人」というのが案外厄介で、この事件に関して重大な意味を持つのだが、それは追々説明する。
Copy__writingがウケたわけ
そもそもの前提として、青春というのは基本的に痛々しいものであるということを主張しておきたい。
というのも、元々私にはCopy__writingが人気を博す理由が、コピペ云々を除いてもわからなかった。あのアカウントで語られている言葉はえてして、耐え難いほど甘ったるく痛々しい。彼のコピペしたツイートは大量にあるし、有名なコピーの引用もどきもあるから、中には良いなと思う言葉もあるが、基本的には趣味じゃない。暇つぶしに見るというのならまだしも日常的にTLに流れていたら私は気が狂うだろう。
だがここで、上掲のインタビュー記事を読んでなんとなくわかったことがある。Copy__writingの感性は多くの女子高生の感性に合致しており、概ね既存の概念、「青春」と表現しても差し支えないだろうということだ。
女子高生の感性を青春と表現することには異論もあるだろうが、しかしこれには2つの理由をもって再反論したい。まず1つは、おそらくこれらの感性は一過性のものであり、過ぎ去るものだろうと考えられるからだ。女子大生くらいならまだCopy__writingをフォローしていそうだが、就職と共に数は減っていくのではないだろうか。30にもなってCopy__writingの感性と合致するとは考えにくい。
もう1つの理由は、周囲の大人たちがまさに彼女たちの感性を青春として扱っていると想像できるからだ。なにせ記事を配信するサイトの名前からして「青春基地」だ。記事分類には「青春!」とピンポイントなものもあるが、それ以外が青春ではないという意味ではあるまい。
青春は「イタイ」もの
で、青春が痛々しいという主張に戻るが、なぜ青春が痛々しいのかといえば、それは青春が未成年にしか許されていない未熟さと地に足のついていない感性によって構成されているからに他ならない。コピペアカウントに会ってみちゃうのはまさに未熟さがなせる技だし、「何かに依存して生きている感覚が嫌い」というのも地に足のついていない感性そのものだろう。
念を押しておきたいのは、だからと言ってこの記事を書いた女子高生を否定したいわけではないということだ。私が主張したいのはあくまで「青春がおしなべて痛々しい」ということである。
中二病が痛々しいのはそれが青春の発露の一形態だからだし、運動部の青春だって痛々しい。甲子園レベルに痛々しさをあまり感じないのは、そこまで到達するためにすっかり未熟さを捨て去ってしまったからであり、地区大会に負けるレベルの運動部の痛々しさは中二病の比ではなかったりする。
無論私の青春だって傍から見れば痛々しさの塊だっただろうし、今だって自分で気がついていないだけでイタイままかもしれない。おおこわ。
ただ、青春の真っただ中にあるときは気がつかないのだ。青春からはじき出された時、初めてそれに気が付く。
青春を礼賛する大人に気をつけろ
だから、青年期に痛々しいのは何ら問題ではない。TPOの問題はあるだろうが、基本的にそれは青年の特権でもあるのだから、十分楽しんだ方がいい。
問題は、大人になっても、痛々しいはずの青春を礼賛するような者が一定数いるということである。これにはおおよそ3つのタイプがある。これらは重複する場合もある、というか恐らくそういう場合の方が多いと思う。
1つ目は、自分が十分に青春を楽しめなかったタイプだ。これはもう可哀そうなだけで、あまり害がないから同情と共に無視してやってほしい。
2つ目は、金儲けに青春を利用せんと企むものである。丁度「青春基地」なるサイトを作成した大人たちのような人種だろう。これには少し気をつけた方がいい。青少年相手に商売しているうちはいいが、いずれ青春を崇めるような軽薄な文化を一般化し、青春を礼賛するどうしようもない大人を大量に生み出しかねない。
3つ目は、青春真っただ中の青少年に近づくために青春の皮をかぶるものである。これは特に気をつけなければならないと、女性方に強く言っておきたい。というのも、こういう人間は同年代にはまず相手にされない者たちであり、大体そのことがわかっているために、自分より未熟な子供相手に威信を示し尊敬を買い、あわよくば喰ってやろうと考えているのである。本人たちに問えばさらさらそんな気はないというだろうが、自覚がないから当然である。まともな大人は、女子高生相手に偉そうにタメ口で語らない。
まともな大人というのは青春が痛々しいことを知っているのであり、表だってそうは言わないかもしれないが、やんわりとそのことを青少年に伝えるものである。それが「早く大人になれ」みたいな物言いに表れているのだ。
どうやって見分けるか
とはいえ、いきなり気をつけろと言われても無理な話だろうから、不幸にも実態をそれなりに知っている者から出来る限りのアドバイスをしようと思う。
1.女子高生に気安く話しかける男に気をつけろ
まともな大人なら女子高生とは距離を取る。若い女性に下心を一切抱くなというのは無理だが、それを押し隠そうとはするだろう。万が一本当にそういう関係になったら社会的にやばいことを重々わかっているからだ。というか、まともな大人なら女子高生と付き合おうとは一切考えないものだ。せめて女子大生になるまで待つというものだ。
ここで、偉そうにタメ口を聞いてくるとか、友達感覚で距離を急に近づけてくる男はまずダメだ。女子高生という存在に対する警戒心がまるでない証拠だろう。つまり、女子高生となんかあったらやばいなという感覚がないのだ。むしろそれを望んですらいる。
2.お勧め本を即答できる男に気をつけろ
お勧めの本や作家を聞かれて即答できる男はまず本をさほど読んでいないと思っていい。本を多く読んでいれば、一口小説といってもいろいろあり、適当に挙げたところで好みに合うことはまずないことを知っている。
普段読んでいる本が小説と自己啓発だけというのも十分怪しむべきである。
また、特定の作家で警戒するという手もある。これはもう直感になるが、太宰治の『人間失格』と三島由紀夫の『金閣寺』は見えている地雷である。特に『人間失格』を好む男子大学生に碌なのはいない。好きな作家に対してこんなことは言いたくないが、西尾維新の戯言シリーズもこの辺の枠組みに入ってしまった感じもある。『ドクラ・マグラ』や『罪と罰』も微妙か。要するに、異端者や自堕落なイメージの強い作家は危ないと思う。
また又吉直樹の『火花』のような話題の文芸書も怪しむ方がいい。普段から本を読んでいれば流行りものをわざわざ推してくるとは思えない。
逆に夏目漱石は安全そうだ。『坊ちゃん』好きの人間が女子高生に下心丸だしで近づくというのは考えにくい(もしそのようなことがあれば主人公にぶん殴られるべきである)。宮沢賢治もいいかもしれない。好きな本だといって、あまり恰好のつかないものがいいのかもしれない。
2016年01月29日
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