星空文庫
ほころびをつくろうとき
叶こうえ 作
もはや妻、嫁、奥さん、家内、かみさん、愚妻、どんな呼び方もしっくりこない。外で「愚妻」といったらあの女はどんな反応をするだろう。「賢妻といいなさい!」なんて返しはまずないだろうが。
もっと冷静で、形式的で、なんの感情も入り交じらない……そんな言葉はないものか。
人を感知したセンサーライトが俺の手元を明るく照らしだす。カーポートの柱に凭れた格好で携帯電話のディスプレイを見つめ、しばし考える。すると、先日会社に提出した扶養控除の申告書が頭に浮かんだ。毎年年末調整の時分に見る白地に緑色の枠線の紙。そうだ、「配偶者」がいい、ぴったりだ。ユニセックスな呼称に、好感さえ覚える。美加へのメールには「配偶者」を採用することにした。
「何度もいっているけど、配偶者に対して俺はなんの未練もない。だけど娘の大学受験が終わるまで、もう少し待ってほしい。今度の土曜日はドライブでもしよう」
文末にハートマークを入れて終了。宛先を確認し、送信ボタンを押した。これで少しは彼女の気持ちも収まるだろう。
送信したばかりのメールを即行で削除していると、もう美加から返事がくる。
「わかった。土曜日楽しみにしてるね」
彼女のメールはいつも短くて、読むのが楽だ。文末には必ずといっていいほど、絵文字が挿入されている。機嫌のいいときはハートやお日様のマーク、怒っているときは雷や噴火している火山のマーク。今回は黄色いハートだ。美加と付き合うまでは、自分が絵文字を使うようになるとは思いもしなかった。受信したばかりのメールを消し、自宅のドアに向かう。
玄関のドアをあけた途端、鼻の奥を針で刺されたようなむずがゆさを覚えた。おかえり、と遠くで声がした。そのあと、ぱたぱたとスリッパが床を叩く音が響く。耳障りだ。くしゃみが一発出た。
「ごめんね。さっき掃除機をかけたばっかりなのよ。今換気しているから、すぐにくしゃみ、治まるわよ」
エプロンを身につけた配偶者が現れる。エプロン姿なんて新婚時代に見たきりだった。室内から風が吹き抜けた。
「ちょっとね、押入の整理をしていたらいろいろ懐かしいものが出てきて。このエプロンも。そういえばこのエプロン、お義母さんがくれたんだよね。いかにも新妻って感じで恥ずかしくて使ってなかったけど。ちょっとかび臭いから後で洗うよ」
エプロンのフリルをつまみ上げ鼻をくんくんさせる。その仕草がわざとっぽくて鼻についた。たしかに、真っ白のフリフリレースで、年増には似合わない。美加に着せたらエロ可愛くなるかもしれない。
「今日の夕ご飯、たっくんの好きなサバの味噌煮にしたからね」
たっくん? 俺のことか? たしかに俺は拓也だが。久しくそんな風に呼ばれていないから、ピンと来ない。沙希が小学校に上がる前まではそう呼ばれていた。いつの間にか、おとうさん、おかあさんと呼び合うようになり、夫婦仲が悪くなってからは、俺の呼び名は消滅した。ねえ、か、ちょっと。声のトーンが低いときは俺に話しかけたとき、と判断することもある。
「ビールも冷やしておいてるから。あ、もう寒いもんね。日本酒、温めようか?」
少し引き攣ってはいるものの、口角を上げて話す配偶者の顔はいつもより若々しく見えた。
今日はやけに機嫌が良い。配偶者の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。
こいつが専業主婦になってそろそろ一週間が経つ。俺に媚びでも売るつもりなんだろうか。自由に使える金が手に入らないと気が付いたとたん、自分の身の程を知ったとか? そうだよな。小さい子供がいるわけでもなく、妊娠中でもない専業主婦に、存在意義なんてない。せいぜい家事に精を出すしかないのだろう。
配偶者は突然、二十年以上続けた会社を辞めた。俺には相談してこなかった。「明日辞表を出すから」と、辞める前日に言ってきた。勝手にすれば? 俺が反対しても出すんでしょ? 頭に来て、思ったままを口にすると、配偶者は一瞬だけ、傷ついたように顔を強張らせた。
何度も機嫌よく話しかけてくる配偶者を無視して、俺は洗面所で手洗いとうがいを済ませる。痰が絡んでいる。排水溝目掛けて吐き出したい衝動に駆られたが、我慢する。洗面台の上に備え付けの棚がある。そこに置かれたティッシュペーパーに手を伸ばし、一枚摘まむ。それを広げて、やっと痰を吐き出した。
食卓に着くと、味噌と生姜の混じった、食欲を掻き立てる匂いが漂ってきた。配偶者がガスコンロの前で、鍋に火をかけている。わざわざ温めなおしてくれているようだ。
「おかえり」
沙希が二階から降りてきて、その流れでカウンターキッチンに入った。台所の引き出しからしゃもじを取り出し、炊飯器の蓋を開けた。茶碗にご飯をよそって、とことこ歩いてきて、テーブルに置いた。俺の肘から少し離れた場所に。
「これぐらい食べるよね?」
俺のためにご飯をよそってくれたらしい。今まで一度も、こんなことをしてくれたことはない。
「ありがとう」
家の中で、ありがとうと言うのは何年振りなんだろう。最後に言ったのはいつだ? 思い出せない。
茶碗を持ち上げて、米粒を箸で挟む。無意識でいつもしていることを、なぜか意識して行ってしまう。ぎこちない動きになる。テーブルの脇に立っていた沙希が、ぷっと笑った。
「おとうさん、お仕事、お疲れさまです。――じゃあ、勉強があるから」
笑いかけられ、俺はどう反応していいのか分からなくなった。もこもこした半纏が、やけに可愛く映る。沙希は、綿菓子みたいなスリッパをつっかけて、音をたてずに二階に上がっていく。
本当にここはいつもの我が家か? パラレルワールドにでも迷い込んだみたいだ。優しい妻? 懐いてくる娘? 昨日までのふたりと真逆じゃないか。
「はい、サバの味噌煮と、揚げ出し豆腐と、ほうれん草の胡麻和え」
配偶者がわざと一品ずつ持ってくる。どれも俺の好物だった。嬉しいというより、怖い。なにか企んでいるんじゃないのか。ふたりで結託して。
「食べ終わったら、流しに置いておいてね。明日の朝、私が洗うから」
また笑いかけられる。さっきよりは自然な笑みだ。ああ、そうか。今は目を細めているからだ。目じりの皺が目立つ。
「お湯張ってあるから、追い炊きしてね。じゃあお休み」
お休み、ぐらいは返すべきなんだろうか。さっきから俺は、配偶者に対して一言も発していない。口を開けたものの、声が出ない。この数年、挨拶さえしてこなかった。していなかったことを、いきなりするのは、難しい。体がついてこない。配偶者は俺の無言を気にした様子もなく、階段のある方向に歩いていく。ずいぶん前に、寝室を別々にした。俺の寝室は一階の隅の部屋。配偶者の寝室は二階で、娘の部屋の隣だ。配偶者とはもう何年も夫婦生活がない。離婚の話は出たことがないが、お互い離婚したいと思っている。俺も配偶者もそれを態度に表していた。――昨日までは。
ひとりになって、食卓が静かになる。いつもの我が家が戻ってきて、俺はほっとした。
翌朝になっても、我が家の異変は続いていた。俺が起きて居間に向かうと、ふたりはキッチンで仲良くおしゃべりをしていた。卵焼きの甘い匂いと、ケチャップの焦げた臭いがする。
「おはよう」
俺に気が付いた二人が、同時に挨拶してくる。反射的に口を開くが、やっぱり声が出てこない。痰が絡んでいるのに気が付き、俺は洗面所に向かった。ティッシュをとって適当に畳み、それに向かって吐き出す。排水溝に痰を吐くのは、ずいぶん前にやめた。寝室を配偶者と別にする少し前だ。洗面所を横切った二人に現場を見られた。勢いよく痰を飛ばしたら、思い切り罵倒された。配偶者は道ばたの嘔吐物を踏んでしまったような顔をした。人間以下のものをみる目だった。
――あなたのねえ、そういう品のない仕草が吐き気を催すほど嫌いなの。何度注意しても直らないし。沙希が真似をしたらどうするのよ。
――安心して、お母さん。絶対こんな汚いことしないから。
たしかに下品な行動だったかもしれない。でも、注意するにも言い方ってものがあるだろう?
髪の毛や食べかすが溜まった排水溝の網に、黄色い濃厚な痰が絡みついていた。水を流してもなかなか取れない。仕方なく指で網を摘み、掃除用の歯ブラシでごしごしと擦った。その一部始終を、呆れたように、気持ち悪そうに二人は見ていた。
あのときのことを思い出すと、胸糞悪くなる。どんなに今優しくされても、根に持つ過去がある限り、仲良くなんてできない。沙希のことは可愛いと思っている。だけど、離婚したあと引き取りたいとは思わない。あいつだって母親とふたりで暮らした方が楽しいだろう。
洗顔とうがいと髭剃りを終えて俺が食卓に向かうと、テーブルには朝食が並べられていた。バターが溶けてしみ込んだトーストと、ベーコンエッグと生野菜のサラダ、そしてブラックコーヒー。ベーコンの焦げた匂いに食欲を刺激された。いつもは、こんなに美味しそうな朝食は出てこない。袋に入った食パン、ジャムかバターが箱ごと放置され、飲み物の用意はされていないのが常だった。昨日の朝食と今日の朝食には、雲泥の差があった。なにかのフラグが立っているんだろうか。たとえば、離婚を切り出す前に良い妻を演じて自分の立場を有利にしたいとか? もしかして、俺の浮気(肉体関係はないけど)に気が付いて、水面下で証拠を握ろうとして、俺を油断させようとか? 優しくされても素直に喜べない。疑心暗鬼になるだけだ。
「突っ立ってないで座ったら? お弁当作ったからね。持って行って。がんばったのよ!」
配偶者は汗を拭うような仕草をしてみせる。芝居じみていて、なんか苛ついた。自分では可愛いと思っているんだろうか。
俺が席に着くと、二人もそれに倣って俺の向かい側に座った。沙希はピーナッツバターをトーストにべったりと塗り付けている。高校生らしいなと思う。配偶者の手元には皿もコップも置かれていない。なにかつまみながら、弁当を作ったのかもしれない。配偶者は結婚する前からお菓子が好きだった。だからよく太った。彼女が設定した臨界点までいくと、いきなりダイエットに目覚めて、炭水化物を抜いたり、ダイエットドリンクを一食分置き換えたりと、長続きしないようなことばかり行っていた。
配偶者の顔を見たくない。視線は自然と、相手の手元に下がっていく。組んだ手の甲が筋張っている。記憶にある配偶者の手と少し違って見える。前はもう少し肉付きが良かった気がする。手をパーにするとえくぼができるほど、ふっくらしていた。
「ちょっと痩せた?」
顔を上げて、配偶者の顔を見た。いつもちらっと見るだけだから気が付かなかった。よく見ると、前に比べ頬がほっそりしている。皺が目だったのは痩せたせいかもしれない。比べた「前」が、いつなのかさえわからないが。
「やっとしゃべったと思ったら、タモリみたいなこと言って」
配偶者がぷっと笑った。沙希の笑い方と同じだ。
「コーヒーお代わりする?」
そう言われて気が付いた。コップが空になっていることに。食べ物には手を付けず、コーヒーばかり飲んでいた。少し濃いめに淹れられたブラックは、俺好みの味だったから。
「ああ、お願い」
すんなりと声が出る。
トーストもベーコンエッグもサラダも美味しかった。朝からこれだけ食べられると、体が気持ちよく目覚めてくれそうだ。二杯目のコーヒーもあっという間に飲み干してしまう。
向かい側の席で、配偶者と沙希はとりとめのない話をしている。沙希は受験生だから基本は勉強ばかりしているが、たまに息抜きと称してテレビを見ているらしい。その番組が面白いらしく、配偶者も一緒になって見ているとか。この前駅前の店で見たコートが可愛くて欲しくなっただとか。そういう話が俺の耳を掠めていく。
つい食卓に長居してしまった。俺が身支度を整え、カバンを持って玄関に向かうと、配偶者がパタパタとスリッパの音を立てて追いかけてきた。
「ほら、持って行きなさいよ。おいしいから」
バンダナで包んだ弁当を、両手で差し出される。
「ああ、じゃあ――」
受け取る理由と、受け取らない理由。どちらを考える方が簡単か。――前者のほうがなにかと楽だ。受け取るだけで良いのだから。
「ありがとう」
滑らかに言葉が出てくる。配偶者のペースにはまっているのかもしれない。気を引き締めなくては。記憶の引き出しから、二人にされた胸糞悪い仕打ちを取りだそうとした。が、こういうときに限って思い出せない。代わりに違うことを思い出した。
「失業証明書、早く会社からもらって。扶養の手続きしないといけないから」
「ああ、そうだね。会社に早くしろってせっついておく。じゃあ、いってらっしゃい」
玄関のドアを開けると、眩しい朝の光が入り込んでくる。眩しい。目を閉じる。――いってらっしゃい。普通の声掛けなのに、すごく懐かしく感じた。
正午になった。デスクの引き出しに押し込んでいた弁当を取り出した。周りの同僚は、ほとんど外食だ。弁当派、コンビニで買ってくる派はぽつぽついる。いつも昼食を共にしている田村に断りの内線を入れて、俺は弁当の蓋を開けた。へえ、と少し感心してしまう。昨日の夕飯の残りは一切入っていない。母親が子供の遠足の日に持たせるような、弁当らしい弁当。ケチャップを絡めたタコさんウィンナーに、形は良いが少し焦げ目があるだし巻き卵。水気をちゃんと切ってあるほうれん草の和え物。白飯の上には美味しそうな焼き鮭が載っている。味は新婚時に作ってくれていた愛妻弁当と同じものだ。ケチャップや卵焼きの焦げなど、ちょっとぎこちない所があるものの、素直においしいと思えた。最後に残ったウィンナーに手をつけたとき、デスクの上の携帯が振動した。メールだ。確認すると、美加からのものだった。
「愛妻弁当ですか? 仲が悪いのに、奥さん作ってくれるんですね。偉いですね。私も今度作ってきましょうか⦅嘘でーす⦆」
顔を上げて、周りをキョロキョロするようなヘマはしない。どこか近くで彼女は俺を見ている。
「押し付けてきたから、仕方なく持ってきた」
返信すると、すぐにメールがくる。
「捨ててほしかった」
嫉妬してくれたのだろうか。悪い気はしない。だけど、弁当を捨てる気にはなれない。食べ物を粗末にするのはいやだったし、弁当自体に罪はない。美味しそうに見えたし、食べてみたら期待を裏切らない味だった。十数年ぶりに復活した弁当は、懐かしい味がした。外食で味わうものとは違っている。たぶん、毎日似たような弁当でも飽きることはないような気がする。
「勿体ないよ」
「じゃあこれからも愛妻弁当を食べるんですか? この場所で?」
それが美加にとって不快であることはたしかだ。メールには一切絵文字がない。
「晴れてる日は公園で食べるから」
「そういう問題じゃないです」
「節約したぶん、君とのデートにお金が使えるよ」
「やっぱり奥さんの手作りって良いですか? 嬉しい?」
「なんの感情もないよ。給食のおばさんが作ってくれる給食と同じ」
メールのやり取りが面倒になってきた。顔を合わせれば、すぐに終わる会話なのに。
俺は弁当箱と箸を持って、社内にある給湯室に向かった。アットホームな会社だからか、社員全員のコップが棚に入っている。「ご自由にどうぞ」のメモとともに、饅頭の箱が置かれていたりもする。流しで弁当箱を洗っていると、名前を呼ばれた。
「お疲れ様です。お弁当って珍しいですね。山崎部長って外食派ですよね」
美加の声は不機嫌そうだ。いつもはもっと明るいトーンで話すのに。振り返ると、彼女は口をへの字に曲げていた。そういう顔も可愛いなと思う。
「たまには弁当も良いよ。お金もかからないし」
俺がそう言うと、美加の表情が変わった。不満そうな顔から、不安そうなそれに。どんな表情でもこの子は可愛い。二十二才、独身、細身なのに胸の膨らみは制服のベストを持ち上げる勢いがあり、声は若々しく張りがあり遠くまで響く。
声も老ける。聞き取りづらい声になる。四十代の配偶者は、歯茎がやせてサ行を発音すると空気が漏れる。
「心配するなよ。娘の受験が終わるまでだから。あと三か月もない」
沙希の第一志望は、地方の国立大学だ。そこに受かれば、家を出て一人暮らしを始める。離婚する良いタイミングだ。離婚が成立すれば、晴れて楽しい独身生活が幕を開ける。ふたり暮らしになるのも時間の問題かもしれないが。
美加がぎこちなく笑った。半分信じて、半分疑う。そんな笑顔だった。
二人の、気持ちが悪いほどの優しい態度は、一過性のものではなかった。翌日もまた次の日も――朝食を三人で食べる。配偶者から手作り弁当を手渡され、それを会社で食べる。夕飯は遅く帰る俺のために、配偶者と娘が食事の準備をしてくれる。家の雰囲気が明るくなった。おいしいご飯、居心地の良い綺麗に片づいた部屋。家具にざらつきがない。音が心地よく響く。キッチンのシンクが朝日を反射する様は、見ている者をすがすがしい気分にさせる。配偶者が退職し、専業主婦になったことで得た唯一のメリット。自分でも気がつかなかったが、物理的な部屋の居心地の良さは、思っていた以上に心に影響を与えるものなのだ。
「じゃあ明日は、休日出勤でいないんだね? 残念。チョコレートケーキでも作ろうと思ってたんだけど」
「私が食べてあげるよ。お父さんの分まで」
沙希がはしゃぎ声をあげた。配偶者は朝食で使った皿を洗っている。使い終わった皿をさっさと洗う――これも共働きでは儘ならなかったことだ。流しに皿が積まれた光景を何度も見てきて、感覚が鈍っていた。それらを見て心が殺伐としていたことに、今更ながら気が付いた。専業主婦が家にいるのも悪くない――そう思い至ってしまって、慌てて否定した。いや、ちょっと待て。専業主婦になったこの女が、離婚を簡単に認めるか? だから俺は、彼女が仕事を辞めたいと言い出したとき、困ったなと思ったのだ。
「冗談だからね、お父さん。ちゃんと冷蔵庫で冷やしておくから」
顔を覗き込まれ、俺は苦笑した。距離が近い。こんなに近づいてくることは、今までなかった。沙希はいつも、俺から距離を置いて話しかけてくる娘だった。俺と配偶者が喧嘩をすれば、百パーセント母親の味方をする。配偶者が俺を見下せば、一緒に見下してくる。臭い、汚い、気持ち悪い。つい最近までは配偶者と一緒にこそこそ言っていた。どんなに可愛い、血のつながった子供でも、本気で苛立つことは多々ある。
「冷えてるほうがおいしいんだよな、チョコケーキは」
俺が話すと、二人は笑った。
「お父さん、わかってるじゃん」
沙希が俺の腕を両手で揺すってくる。こんな接触は、本当に久しぶりだ。小学校の低学年頃までは、俺に懐いていた。
「私もたまには息抜きしたいんだ。どこか連れてってよ」
俺の娘は両目とも一重瞼だと思っていたが、違う。片方だけ二重なのだ。顔を近づけられ、今日初めて気が付いた。遅すぎる発見だと思う。
土曜日は美加とドライブデートをした。彼女と部屋で二人きりになるのは避けていた。ちゃんと離婚するまではプラトニックの関係で。美加との交際がスタートしたとき、そう約束していた。だから友達だと言い逃れができる程度のデートしかしない。デート中の彼女は、相変わらず可愛かった。二十代前半だから、肌はみずみずしいし、恰好も年齢にあった、若々しいものを着ていてそれがとても似合っている。でも、いつものようにテンションが上がらない。なんでだろう。家の冷蔵庫で冷えている、チョコレートケーキが気になるんだろうか。配偶者の作った洋菓子はどれも美味しい。結婚前はよく作って、俺の一人暮らしのアパートに持ってきてくれた。スイカシャーベット、フィナンシェ、スコーン、チーズケーキ、焼きドーナツ――エトセトラエトセトラ。その中でもチョコレートケーキが絶品だった。板チョコと卵だけを使った、チョコレートの純度が高いケーキ。わざわざ卵白を泡立ててメレンゲにして作る、手間のかかったケーキ。
もう帰るの? 美加の不満そうな顔を見ても、ドライブを続ける気にならなかった。宥めるように彼女にキスをして、デートを終了させる。
夕方の四時。俺が自宅に戻ると、沙希が嬉しそうに玄関に駆けてくる。
「やったー帰ってきた! 待ってたんだよ!」
なんだよその、派手な喜び方は。そんなに俺がいなくて寂しかったのか。思わず笑ってしまうと、沙希は一段と嬉しそうに顔を崩して笑った。
「やっと笑ってくれた」
――そうかもしれない。家の中で笑うことなんて、最近はぜんぜんなかった。でもおまえだって、そんな風に笑いかけてくれたこと、なかったじゃないか。小学校の高学年ごろから、おまえはいつも母親にばっかりくっついて、俺を馬鹿にしていたじゃないか。
恨み言が浮かんだが、口にするのは憚られた。せっかく良い雰囲気なのに、それを崩したくない。
リビングに足を踏み入れると、配偶者がキッチンでコーヒーを淹れているところだった。いつものコーヒーの匂いがする。酸味と苦みが良い具合に混ざった、値段は安いのに、なかなか美味なコーヒー。ちょうど飲みたいと思っていたのだ。コーヒーサーバーから薄茶色の液体がマグに注がれる。配偶者が冷蔵庫からチョコレートケーキを取り出す。チョコレートケーキと、ブラックコーヒー。最高の組み合わせだ。
テーブルの席に着くと、配偶者がふたつをさっと持ってくる。
「おかえり。私服で会社に行ったんだ」
ぎくりとした。今朝は、二人が起きる前に家を出ていた。私服であることへの突っ込みなんて、想定外だった。
「ああ。休日出勤っていっても、やり残した事務処理ぐらいでさ。会社に客も来ないし」
適当に言い繕う。こんな風に、後ろめたい嘘をつくのも滅多にないことだった。毎週土曜日は美加とデートで家を空けていたが、配偶者も沙希も、どこに行くのか、目的はなにか、なんて一度も聞いてきたことがない。俺を信用していたというより、関心がなかっただけだ。いないほうが良かったはずだ。俺の分のご飯を用意しなくていいから、手抜きし放題だっただろうに。
チョコレートケーキを一口食べる。苦みと甘さがバランスよく混ざっている。舌が喜びで震えた。首のあたりに一瞬快感が走った。すごく、美味しい。コーヒーを一口飲むと、舌が落ち着いた。
「うまいな」
「久しぶりに作ったから、失敗しそうになっちゃった。メレンゲを潰しちゃって」
配偶者が照れ笑いを浮かべて、頭を掻いた。白髪がきらっと光る。もう四十代半ば。お互い年を取ったものだと感慨に耽りそうになる。
「おまえも座ったら」
近くで立たれていると、こちらの居心地が悪くなる。
配偶者が嬉しそうに笑って、向かい側の席に座った。沙希がノートパソコンを持って、リビングに入ってくる。
「お父さんがいなかったから、ネットできなかったんだよね」
「そうそう、最近家のネットが不安定なのよね。さっきもネットが繋がらなくて困ってたんだ」
ああ、だから帰ってきたときに喜んでいたのか。俺が個人で使っているWi‐Fiを待っていただけだったんだ。少しがっかりした。そうだよな。冷静に考えれば、俺が帰ってきたぐらいであんなに喜ぶわけがない。
「ね、お父さん、今度ここに行こうよ。三人でさ」
沙希が椅子に座り、テーブルにパソコンを置く。ディスプレイを見てみる。そこには最近オープンしたばかりの地方のアウトレットモールが映し出されている。
「ここのアウトレット、好きなブランドばっかり入ってるんだ」
「おまえ、受験生だろ」
「たまには息抜きも必要じゃん? いつもは頑張ってるんだから」
「そうよ。いつもはね、ほとんど自分の部屋で勉強してるのよ。本当にやってるかは見てないからわからないけど」
「やってるってば」
自然と会話が続く。どうってことない、とりとめのない会話が、楽しいと感じてしまう。一週間前までは、針の筵だった場所なのに。仲間はずれにされないって、こんなに居心地が良いのか。
俺がコーヒーとケーキを食べ終えると、配偶者が席を立って、皿とマグカップを片付け始める。沙希も「そろそろ勉強に戻るー」と言って、二階の子供部屋に戻っていく。急に椅子の座り心地が悪くなった気がした。俺は席を立って、歯磨きをしに洗面所に向かった。洗面台のコップから歯ブラシをとり、軽く水ですすぐ。自分がなにか、やり忘れている気がしてもやもやする。なにか、言い忘れたような――
「あ」
つい声が出てしまう。
――ただいまって言うの、忘れていた。
「へえ――そんなことがあったんだ。ちょっと怖いな」
「だろ? 急に態度が変わったんだ。気持ち悪くて」
今日は久しぶりに、外で田村と昼食をとっていた。寝坊して弁当を作る時間がなかった、と申し訳なさそうな顔をして、配偶者が謝ってきた。別に、弁当を作る義務なんてないのにな。あんなふうに謝る必要なんてないんだ。俺は「別にいいよ」と答えて家を出た。
「やっぱり専業主婦になったってのが大きいんじゃないのか。おまえの収入で全て賄わなくちゃいけなくなって、改心したとかさ」
「そうだとしたら――なんで娘までそうなるんだ?」
「大学の費用とか。国立に行ったら、仕送りするんだろ? 金銭的に世話になるから、媚びを売ってるとか」
たしかに、それはありそうだ。俺の機嫌を損ねて、仕送りをしてもらえなくなったら困るだろう。
「あの二人にはずっと苛々しっぱなしだったけど、この一週間でずいぶん居心地が良くなったよ。今更って感じもするんだけど」
だって美加と約束している。沙希が高校を卒業したら、離婚すると。
「ふーん。いちいちイラッとしてたんだ。それって――」
田村が考え込むみたいにして、言葉を切った。
「なんだよ」
「いや、うん……そこまで冷めきってないかな、と思ってさ。俺が元嫁さんと離婚したときはもっとこう――無感情だったな。素通りするんだよ。あいつのやることなすことに、なんの感情も芽生えないっていうか。どうでも良くってさ」
「――そう」
「根本的にはおまえ、家とか奥さんとか娘さんとか――好きなんじゃないの。後悔するなよ、離婚したら後戻りができないんだから」
真面目な顔になって、田村が諭してくる。離婚経験者の言葉は、なんだか重く響く。相手の行動に、何も感じない――離婚寸前の夫婦関係はそういうものなのだろうか。俺は配偶者の作った弁当を、平気で食べている。本当は今日、弁当が食べられなくてがっかりしていた。居酒屋のランチメニューは、一口目は美味しいけれど、すぐに飽きる。味が濃い。匂いがしつこい。どの惣菜も同じ風味。
「食って大切だよな」
「そうだよ、そうなんだよ。離婚して困ったのは食事だった。自分で作るしかないんだからな。今度遊びに来るか? 結構俺、料理が上手になったぞ」
田村が胸を張って、料理のレパートリーを挙げていく。俺もそのうち、田村みたいになるのだろうか。離婚して、独り身になって、自炊するようになって、美加とセックスするようになって、いつかは彼女と再婚する。もしかしたら、この年で、子供を授かるかもしれない。美加はまだ若いから、それも可能だろう。いや、俺はもう無理なんじゃないか。もう四十五歳だ。今子供を儲けても、子供が成人するころにはおじいちゃんだ。美加は俺の介護をしてくれるんだろうか。急に二十以上の年の差が重くのしかかってくる。付き合う分には問題がないのに。彼女は将来のことをどう考えているんだろうか。
「それにしても――おまえと理恵子さん、お似合いだと思ったんだけどな。結婚式ですごく仲良さそうにしていたし。誓いのキスが長すぎて笑ったよ、そういえば」
田村が遠い目をして話し続ける。そういえば、そんなこともあった。あの頃は、あいつのことが大好きだった。結婚して俺だけのものにしたいって思った。理恵子が家で待っていてくれるって思うと、早く仕事を終わらせる努力をした。最初から自宅が針の筵だったわけじゃない。
新婚当時は、お互いの欠点なんて可愛いものに見えた。寛容だった。短所だって個性だと認めていた。それなのにどうしてだろう。一度それが目につき始めるともう止まらない。他のことまで気にかかり、どんどんスキンシップが億劫になっていく。子供が寝付いたあとに軽くキスしたり、彼女が立ち上がった隙にふざけてお尻を触るといった軽い接触さえ、面倒になるのだ。そして、気が付いた時には、お互いがただの同居人に成り下がる。
「はやく食べろよ。昼休みが終わっちゃうぞ」
田村に促されて、目の前の皿に目をやる。定食のおかずが半分以上残っている。だが、あまり食べたいと思えない。
「いいよ、残す」
「勿体ないな。――舌が肥えたのかもしれないな。手作りの弁当のほうが旨いもんな」
昼食をあまり食べなかったせいで、早い時間にお腹が空いた。取引先のトラブルにも遭遇せず、顧客からのクレームもない平穏な一日だったため、俺は久しぶりに定時で帰ることにした。早く退社できるときは、美加にメールで夕食を誘うのが常だったが、今日はそういう気分になれなかった。
家に着いたのは六時半だった。玄関のドアを開けようとして、鍵が掛かっていることに気が付く。珍しい。いつもは鍵が掛かっていないのだ。インターホンを鳴らそうとして、やめる。家に誰もいないのかもしれない。俺は久しぶりに、カバンのポケットから鍵を取り出し、開錠してドアを開けた。
「ただいま」
なぜか控えめな声になってしまう。三和土には、理恵子の靴とサンダルが置いてある。家にはいるようだ。洗面所で手洗いとうがいをして、居間に足を踏み入れる。だが、そこには誰もいなかった。ガランとしたキッチン、静まり返ったソファセットの空間――なにか物足りないと思った。ああ、匂いがないんだ。家に帰ってくると、いつも料理の匂いがした。夕餉の、美味しそうな匂いが。
俺の寝室にいるわけがないし、風呂場から水の音はしない。トイレの電気も消えている。二階に上り、理恵子の寝室の前に立つ。激しい咳が聞こえてきた。そういえば、寝室を別にした直接の原因は、俺のアレルギーによるクシャミが原因だったと思い出す。共働きのときは、理恵子のほうが寝る時間が遅かった。会社から帰ってくるのは彼女のほうが早かったが、家事やらなにやらで、いつも俺の方が早く布団の中に入っていた。アレルギーの発作が起こると、クシャミが止まらなくなる俺は、その日もクシャミを連発していた。キッチンで皿洗いをしていた理恵子が、怒ったように大きな足音をたてて、寝室の前で立ち止まった。「うるさい」とばかりに襖をぴしゃりと閉めた。それを寂しいと思った俺は、子供っぽかったのかもしれない。鼾もうるさくて眠れないと言われて、じゃあ寝室を別々にしようと提案した。すでに夫婦関係はなくなっていたから、それでも構わないと思った。
咳はいつまでたっても止まらない。少し心配になって、俺は部屋のドアをノックした。が、応えはない。
「大丈夫か」
俺はドアを開けた。変な胸騒ぎがしたからだ。
ベッドの上で理恵子は寝ていた。うつ伏せになって、口に手を当てて咳をしていた。
「おい、大丈夫か」
理恵子の顔色が悪かった。長い髪の毛は、輪ゴムで一本に縛ってある。化粧をしていない顔は青ざめていて、いつもより老けて見える。
「あ、たっくん」
彼女の顔がぱっと明るくなった気がして、俺は目を逸らした。知らない女と対面している気がして、落ち着かない。
「咳が酷いみたいだけど、大丈夫なのか。病院には?」
「――行ってるよ。でも簡単には治らないかも。ね、今日は沙希が夕飯を作ってくれるんだって。楽しみだね」
理恵子がベッドから体を起こした。気怠そうに、前髪を掻き上げた。
「手を貸してもらえる?」
手を貸せ? 自分では立ち上がれないのだろうか。おかしい頼み事だと思った。
「大丈夫なのか?」
手を差し伸べると、理恵子はふっと笑って、右手を重ねてきた。一週間前よりほっそりした気がして、さっきから続いている胸騒ぎが大きくなった。
「こういう風に手を重ねるのって何年ぶりだろうね」
見上げてくる顔が、やけに無邪気に見えた。出会った頃の彼女のようで、違う意味で胸が騒いだ。
「夫婦なんだから、手を重ねるとか――普通のことなのにね」
よいしょ、と掛け声をつけて、理恵子が立ち上がる。手にかかる負荷があまりにも小さい気がした。
「おまえ、痩せたよな。何キロやせた?」
「ちょっとしんどいだけ。大丈夫よ」
俺を素通りして、理恵子は洋服ダンスを開け、着る服を選び始めた。彼女はパジャマ姿だった。この夕方に。
「――理恵子。答えろよ」
久しぶりだ。本当に久しぶりに、俺は彼女の名前を呼んだ。俺に背を向けていた理恵子が、ぱっと振り返った。彼女は笑っていた。
「やっと名前を呼んでくれたね」
瞬きをした瞬間、彼女の目から涙がぼろっと流れ落ちた。
「心配してくれるのも、嬉しい」
ほっそりした両手で、彼女は顔を覆った。
「――意味がわからない。隠していることがあるなら言えよ」
尋常じゃないペースで痩せるとか、名前を呼んだだけで涙を流すとか、こうやって泣き崩れるとか。ふつうの状態とは思えなかった。理恵子に近づこうとすると、スラックスのポケットに入っていた携帯が振動した。静かな部屋では、その振動音がうるさいほど響く。メールかと思ってやり過ごそうとしたが、いつまでたっても震えは止まらない。この長さは、メールではなく電話の着信だ。
「出たら? いつもの人でしょう? 家の駐車場で、いつもニヤニヤしてメールしてるの、知ってるんだから」
理恵子の表情と声が、急に険しくなった。知っているって? 美加とのことをか?
「私は大丈夫よ。早く電話に出てあげて」
そう言って彼女はまた、洋服ダンスと向き合った。理恵子の背中は、俺を拒絶しているように見えた。
俺は部屋から出て、まだ振動している携帯の通話ボタンを押した。着信はやっぱり美加からだった。
「もしもし」
「なんで? なんで今日、夕飯に誘ってくれなかったんですか。いつもは――」
「ちょっと用事があったから」
「メールもあまりくれなくなったし。なんでですか」
自分の送ったメールの本数なんていちいち覚えていない。着信、送信ともに、すぐにメールは削除しているのだから。
「今、部長の家の近くまで来てるんです。会ってください。近所にロータスっていうコーヒーショップがありますよね? そこで待ってますから。来てくれなかったら、家に行きます」
やけに冷静な声だった。行かなかったら、本当に家まで来てしまいそうな、覚悟を決めたような声だった。行かないとまずい、と直感した。
「ちょっと外に出てくる」
返事はなかった。
コーヒーショップで美加と三十分ほど話し合い、なんとか彼女を宥めた。メールの本数が、前は一日十通を超えていたのに、今では一日二三通だとか、奥さんの作ったお弁当を毎日美味しそうに食べてましたよね? と怒り露にして捲し立ててきた。度を越えた嫉妬は、可愛いを通り越して鬱陶しい。うんざりする。もしかしたら、彼女とは長く続かないかもしれない――俺は冷静に分析していた。
家に帰り着く。玄関の三和土には、まだ沙希のローファーがない。まだ高校から帰ってきていない。理恵子と二人きりなのが、少し気まずい。でも、あのままじゃお互い気持ちが悪い。話の続きをしなければ、とまた二階に上る。部屋のドアを開ける。
「理恵子」
もう名前を呼ぶのに抵抗はなかった。一度呼んだら、何回呼んでも同じだ。
「――なにやってるんだ?」
理恵子はパジャマのままだった。洋服ダンスから、海外旅行用の大きいトランクに、洋服を移している。
「ああ、たっくん。早かったね。――実はまだ、仕事はやめてなかったんだ、ごめん」
「え」
「休職中なのよ。傷病手当を受けながら」
傷病手当って。
「癌なのよ。肺がん。ステージⅣだから。余命宣告も受けてる」
――は? 肺がん? ステージ? 余命宣告? 単語の意味はわかるのに、それらをつなげて理解することができない。
「たっくんがいるときは、無理して動いてたけど、もう無理なの。限界」
なにを馬鹿なことを。元気でピンピンしていたじゃないか。部屋の掃除やら、夕飯作り、弁当作りに――
「明日の朝、家を出るから」
「どこに行くんだよ」
「ホスピス。抗がん剤の治療は受けない。あとは、できるだけ苦しまない死に方をするだけ」
「ホスピスって――どこの」
信じられなかった。ホスピスに行くだって? だって元気じゃないか。咳はしてるけど、咳は激しくしているけどでも――
「教えないよ。――あのね、関係を修復したくてたっくんに優しくしたわけじゃないから。私が死んあと、ぜんぜん悲しんでくれないのが悔しかっただけだから」
「なんだよ、それ」
「だから――もう一度たっくんに好かれて、私が死んだときに泣いてほしかったの! ほんとのことを言うとね、沙希が高校を卒業したら離婚もありだなって思ってた。あなたもそうでしょう? 私たちが一緒にいたってぜんぜん楽しくないし、喜びもないし、意味がないじゃない。でも、自分がいざ死ぬってなったら、あなたに悲しんでもらえないのが悔しくなった。――二十年よ。二十年も一緒にいるのに、つきあい始めた女の子の方が大切になるなんてね。恋なんてそういうものよね、私だって長生きできるんだったら、新しい人探そうなんて思っていたけど。もう時間がないから無理なのよ。出会いを探そうなんて気力もないしね。自分の体のことと沙希の今後のことで頭がいっぱい。沙希には料理とか家事全般できるように今更だけど教えてて――」
声音がいつもとは違っていた。いや、戻ったというべきなのか。関係が冷え切っていたときと同じ声。
「一応、生命保険とがん保険には入ってるから、お金の心配はないからね。私が死んだらあなたにお金が入るけど、沙希のことに使ってほしい。あなたは不倫もしていたし、私に冷たかったんだから」
「――不倫はしてない。好きな子がいるのは認めるけど……肉体関係はいっさいないから」
「でもいつか一緒になろうと思っていたんでしょう? 精神的な裏切りと肉体的な裏切りってどっちが罪深いのかしらね」
理恵子が疲れたようにため息をついた。また咳込み始める。咳の合間に、彼女が声を出す。
「今日は沙希と一緒に寝る。最後だから。あと、ホスピスの場所は教えない。来てほしくない。最期ぐらい、私を不愉快にさせないで」
理恵子はホスピスに行って二週間で死んだ。その二週間の間、俺は一度も見舞いには行かなかった。場所を教えてもらってないのに、来るなと言われたのに、行けるわけがなかった。沙希は毎日、下校したあとに寄っていたようだ。だから、ホスピスは遠くはなかったと思う。死に際の顔も見なかったし、最期の言葉も聞いていないから、理恵子が本当に死んだのか分からない。でも、棺に化粧済みの死体が入っていたし、葬式をしたし、火葬されたから、死んだんだと思う。俺が喪主をした。涙は出なかった。
一週間、弔事で会社を休んだ。その間、沙希とはいろいろ話した。これから家事は分担する等、生活の細々としたこがメインだった。お父さんは四月から一人になるから、ちゃんと家事ができるように、私が教える、と沙希が言った。受験だろ、と俺が言うと、息抜きは大事だから、と返してきた。
「ね、押し入れの整理しようよ。お母さん、途中でやめちゃったから」
その言葉で、理恵子がフリフリの白いエプロンを身に着けていたことを思い出す。二人の態度が一変した一日目だった。玄関で、俺に向かって笑って話しかける理恵子の顔が浮かんだ。
押し入れの中には、たくさん段ボールが詰め込まれていた。沙希がその中の一つを取り出し、中身を出した。
「ほら、これ。私が小さいときに使っていたレッスンバッグ」
沙希が、正座した俺の膝に、置いてくる。ピアノの鍵盤の柄の、キルト生地の、よくあるレッスンバッグだった。だが、取っ手がなかった。
「壊れてるじゃないか。なんで捨てないんだ?」
「これ、お母さんが見てね、泣いたんだよ」
「――なんで」
「こうなるまで放っておいたお母さんが悪かったって。こんなの、最初は大したことないホツレだったんだって。面倒で、ずっと見て見ぬふりして、私にバッグを持たせてたって。私、このバッグすごく気に入ってたんだよね。ピアノのレッスン以外でも、学校に持って行って、重い本なんかも入れてたんだ。だから、ある日突然、取っ手がちぎれて、本の入ったバッグがどさっと床に落ちてショックだった。けっこうそのときのことは覚えてたんだ」
「なんで泣くんだ、そんなことで」
「――最初は大したことなかったって言ってた。お父さんと仲が悪くなるのも最初は些細な事だったって。このバッグみたいに、最初は小さいホツレだったんだよって。すぐに糸切り挟でホツレをやっつければ、それでメデタシだったって。そうしないで、ずっと放置してたから、壊れちゃったって」
そうなのかもしれない。最初はなんだったんだろう。理恵子に指摘されて俺がムっとしたのが始まりかもしれない。俺は食事の作法が悪かったし、下品なところがあったもんな。そのたびに、理恵子は控えめに注意をしてきた。俺が意に介さずにいると、どんどん遠慮がなくなっていった。育ちが悪い、と言われたこともあった。他にもいろいろあった。沙希の育て方で対立した。沙希は小学校までよく風邪をひいて熱を出した。そのたびに、どちらが会社を休むかで喧嘩になった。ほとんどは、理恵子に休ませた。家事だってそうだ。年収は俺のほうが上だからと、理恵子にばっかり押し付けていた。なんだよ、俺のほうが悪かったんじゃないか。理恵子はよくやってくれていた。
「今からでも修繕すればいいよって、私、言ったんだ。取っ手を自分で作って縫い付けて――お父さんとの関係だって、そうやれば良いじゃんって。そうしたら、お母さん、また泣いて。お父さんには好きな人がいるようだからもう無理だって。悔しい悔しいって泣いてた。だから、私が提案したんだ。じゃあ、もう一度お母さんに惚れさせたらいいじゃんって。二人でタッグを組もうって」
それで、あの白いエプロンを着て、理恵子――おまえは走ってきたんだな。そうだな、すごいインパクトだった。今でも思い浮かべられるぐらい、インパクトが強かった。
「あ、あのね、毎日のお弁当、あれ、私が作ってたんだ。隣でお母さんが指導してくれてたんだ。美味しかったでしょ? これからも私が作ってあげるから」
沙希の目から涙がこぼれた。一緒に作っていた場面を思い出したのかもしれない。楽しそうにキッチンで立っていた二人が頭に浮かんだ。弁当の卵焼きが焦げていたことを思い出す。沙希が作っていたのか、と納得した。
沙希に、慰めの言葉をかけたいのに、何といえばいいのか分からない。まだ理恵子が死んだという実感がないのかもしれない。
それでも残された俺たちは生活していかないといけない。泣きじゃくっている沙希に声をかけて、俺は一人でスーパーに向かった。スーパーで買い物をするのにも、慣れなくちゃいけないのだ。ズボンのポケットから携帯を取り出す。着信はなかった。理恵子が死んでから、美加から一度メールが着た。奥さんと死別したあなたとは、やっていけないと思う。その一文で、俺たちの関係は終わった。関係といえるほどのものはなかったのかもしれない。あんなに可愛いと思っていたのに、彼女に振られてもなにも感じなかった。
「あ、山崎さん」
スーパーの生鮮売り場で魚を物色していると、見覚えのある中年の女が会釈して、こちらに歩み寄ってきた。
「あ――お葬式に」
「ええ。弔問しました。田丸です。あの、このたびは――」
思いつめたような顔で、お悔やみの言葉を言われた。
「理恵子ちゃんとも、ここで会ったなあ。なんか、理恵子ちゃんが死んだってまだ信じられないのよね。この場所でつい最近立ち話をしたんです。理恵子ちゃん、楽しそうに魚を選んでた。本人は肉の方が好きだけど、家族が魚好きだからって言ってたな。サバの味噌煮って最近作ってないからちょっと緊張する、失敗しないコツありますかって聞いてきたり。あれから一か月も経ってないのにね。もうここで会うこともないんだなって思うと――」
沙希の保育園時代のママ友が、涙ぐみながら言葉を押し出している。泣きたいのはこちらのほうだ。そう思った瞬間、熱いものが腹から喉に向かって吹きあがってきた。喉が苦しくて、手で押さえる。目頭が熱くなって、もう止まらなかった。人前で泣き崩れるなんて、今まで一度も経験したことがない。葬式のときだって、涙は出なかった。隣に立っている田丸さんの声が、聞こえる。でも、なにを言っているのかわからない。その声はどんどん遠のいていく。
今になってなんで、堰き止めていたものが流れてくるんだろうな。公衆の面前で大の男が泣いている。わき目もふらずに、しゃがみ込んで、顔を両手で覆って、泣いているんだ。
――理恵子、満足か?
了
『ほころびをつくろうとき』 叶こうえ 作
※第15回湯河原文学賞一次通過作品※ 山崎拓也は、妻の理恵子と離婚寸前の不仲に陥っていた。職場には二十歳以上年下の可愛い彼女がいて、娘の高校受験が終わったら、離婚したいと考えていた。だが、ある日突然、妻と娘の態度が一変する。拓也のことを二人で見下してきたのに、急に優しくなり、労わってくれるようになった。なぜふたりの態度が変わったのか、拓也は疑問に思うが、そのうち三人の和やかな雰囲気に馴染みはじめ……
更新日 | |
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登録日 | 2016-01-28 |
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※第15回湯河原文学賞一次通過作品※
「冒頭の掴み」と「後味が悪いようで悪くない結末」を意識して書きました。