講談社学術文庫やちくま学芸文庫などを始めとして学術書の再刊レーベルは多い。吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズも評価が定まっていながら入手が困難になった歴史書の名著の再刊を行っている。本書は1977年に刊行された、当時としては新しい翻訳史料にもとづいて「キリシタン大名」の全体像を描いた名著で、2015年に「読みなおす日本史」シリーズの一冊として再刊された。
著者の岡田章雄(1908~82)氏は戦後の中近世日欧交渉史、キリスト教宣教史研究をリードした研究者で、以前紹介したルイス・フロイス著「ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)」の翻訳者でもある。同書は丁寧な翻訳と詳細な注釈が実に素晴らしい仕事だった。
キリスト教の平等と戦国大名の統治
さて、本書は著者の元に送られた中学二年生の女の子からの手紙への回答から始まる。
「私は『キリシタン大名の領地内のキリスト教信者(農民)の統制はどのように行っていたか』についてよく知りたいのです。キリスト教の教えはいわば“平等”だったはずです。だから上から圧力をかけたりして武力・権力で農民をおさえつけられないのではないのですか。またそうしようとするならば、キリストの教えに逆らうことになってしまうのではないのですか(以下略)」(P14)
著者も賞賛する中学生としては非常にしっかりした内容の質問で、まぁ、ご健在なら今50代半ば、もしかすると名の知れた研究者になっているのかもしれない。著者はこの質問に対して以下のような主旨の回答をしたという。
「キリシタンの教えが人間はみんな平等であるという考えをわが国にもたらしたというけれども、それは天地の創造主である神が絶対的な存在であり、その神によって生命を与えられた人間は神の前ではすべて平等であるという宗教的な観念であって、明治の時代にはいって来た自由平等という民主主義の思想とは本質的にちがうものである。キリシタンの教えが伝わった一六世紀のころにはヨーロッパでもまだそのような思想は生まれていなかった。唯一絶対の神の前では生命をもった、すなわち“死すべき”存在である人間はすべて平等であって、国王も封建領主もまた農民も、人間として神を敬い、その神の定めたきびしい掟に従わなければならない。それがキリスト教の説くところで、それは国家・社会の機構とは全く次元の異なるものだったのである。
キリシタンの信仰が、農民の社会的意識を高めて封建社会の機構を変革したり弱体化したりするようなことは全くなかった。すすんで信仰にはいった大名はむしろその信仰による統制の強化を理想としていたのである。すなわち大名から家臣・武士・領民にいたるまですべて同じ神を信仰し、その教えに従い、掟を守ることによって封建的支配を完全なものとすることができる、と信じていたのである。キリシタンの教えを伝えたイエズス会の宣教師たちの厳格な規律と統制、そして俗世間の利益に動かされずひたすら神に奉仕する態度が、主君のためにすべてを犠牲にする封建社会の武士道徳と似通っていた。その点が戦国社会にその信仰が受けいれられたひとつの理由であったとも考えられる。」(P16-17)
各章の概要
このように、序章ではまずキリシタンの信仰は変革ではなく領主層への服従体制の強化として機能したこと、大名たちの入信に至る過程は打算よりも純粋な信仰心からのものであったことなどが女子中学生の質問への回答として説明される。第一章ではフランシスコ・ザビエルが当初、天皇の改宗を目指したが当時の天皇の無力さを知り、地域権力を握る大名たちへの接近を図り山口の大内氏の庇護を受けたこと、第二章では豊後の王大友義鎮(宗麟)、第三章では最初のキリシタン大名大村純忠、第三章では畿内のキリシタン大名として高山友照・右近親子を始めとする諸大名、第五章、六章で織田信長と宣教師との関係、第七章で天正遣欧少年使節について、第八章で豊臣秀吉による九州平定におけるキリシタン大名の影響とその後の余波、第九章で秀吉による伴天連追放令、第十章で関が原の戦い前後から禁教令が出されて高山右近が国外追放となる1615年までの動向が描かれている。
巻末の解説によると取り上げられたキリシタン大名は、大友義鎮・義統父子、大村純忠、有馬義直・晴信父子、五島純堯、天草種元(鎮種)、志岐鎮経、籠手田安昌(安経)、結城忠正・左衛門尉父子と甥の結城弥平次、池田教正、白井頼照(三箇)、高山飛騨守友照・右近友祥、内藤如安忠俊、黒田孝高・長政父子、牧村政治、蒲生氏郷、小西隆佐・行長父子、宗義智、毛利秀包、織田秀信の26名で、その他宣教師たちや曲直瀬道三など改宗した日本人有力者なども多数登場する。
キリスト教の浸透とキリシタン大名の入信
戦国時代、キリスト教がなぜ日本で急速に広がったのか、その大きな要因として著者は日本が分裂状態にあったことを挙げている。もし、当時の日本が絶対権力をもつ支配者の下にある統一国家であったら、「たとえ支配者個人としては心情的に、その信仰に、またはその布教に伴う経済的な利益や文化的な寄与に魅力を感じたとしても、支配機構の安定を脅かす危険を冒してまでそれを受けいれることはできなかったであろう」(P28)。しかし、戦国の分立抗争状態は戦国大名をして「勢力の強化に役立つものであれば、新しい思想や信仰でもみずからの判断によってよろこんで受けいれる用意があった。」(P29)
九州の大名と畿内の大名とでは入信の動機に大きな違いがあったという。どちらもキリスト教に対する純粋な信仰心が中心にありつつも、九州の大名は布教の保護によるポルトガル貿易の利益や宣教師を通じた武器や軍需品の調達など実利への期待があったのに対し、畿内の大名の場合、キリスト教への接近にはそのような利益への期待は薄いため、信仰心が主要な理由であった。
当時、古い権威は形骸化し秩序は揺らぎ、戦国時代という新しい時代の中で仏教勢力も軍事集団と化して現世的な欲望と政治的権力を目的として世俗化著しい。かつての仏教にかわり、七福神信仰など現世利益的な新しい信仰が生まれていたように、キリスト教も古い仏教信仰に変わる新しい信仰として武士たちには捉えられた。合理性と人間性の尊重は戦国時代という不安定な時代に「その心の不安を克服することのできる信仰の道」(P91)として映った。八幡信仰や摩利支天といった旧来の武士の信仰からキリスト教信仰を選んでいる。その上でキリスト教に改宗した大名たちは、統治イデオロギーとして領内にキリスト教を布教することで、支配の強化に努めようとした。特に十戒の第四戒、父母への孝行は主君に対する忠誠、服従として捉えられ、また第五戒の人を殺すべからずは、その例外として上に立つものは正当な理由があれば下のものを殺すことが認められていた。
キリシタン大名の自殺
本書では色々興味深い話が多いが、やはりキリシタン大名にとっての自害の位置づけであろうか。例えば関が原の戦いに敗れた小西行長が信仰から自害しなかったが、自害の問題を浮き彫りにしているのが、高山友照・右近親子のエピソードだろうか。
1578年、荒木村重が信長に反旗を翻したとき、村重の家臣だった高山右近と父友照に対して信長はオルガンチノら宣教師を呼んで高山父子の寝返り説得を命じた。その際、寝返れば摂津半国を、寝返らなければ領内のキリシタンを集めて全員磔にすると伝えさせる。右近の妹と息子が村重の人質になっていたから、家族を見殺しにするか、信者仲間を犠牲にするかの究極の選択である。このとき右近は降伏を、父友照は自害を主張して対立した。
「キリシタンの教えではどのような事情があろうとも、創造主から与えられた生命をみずから断つ自殺行為は許されない。右近はそのことを憂慮して父を諌めたが、飛騨守は(中略)自害をしても天国に入ることはできると主張して譲らなかった。(中略)いま武士の名誉を全うするために自害することは結果として危機に臨んでいる京都の教会と信者とを救うことになる。たとえそのことが戒律に背く行為であったとしても、デウスはその功績に免じて彼を宥し、天国に導き給うにちがいない。」(P117-118)
遠藤周作の「沈黙」を彷彿とさせる論争でとても興味深い。結局、右近は降伏してキリスト教徒の虐殺は防がれ高槻城主に復帰、友照は自害せず村重の下に逃れ、村重滅亡後は柴田勝家に預けられて一人のキリシタンとして布教活動に余生を捧げた。
信長と元琵琶法師の宣教師ロレンソ
こんなこと言っちゃう信長だけど、このケースでは単に戦国武将の論理を優先させただけで、基本的に宣教師たちとは仲良しだし、キリスト教の布教も大きく後押ししていた。セミナリオの建設もその一つで、安土城下には子どもたちに聖職者教育を行う神学校セミナリオが信長の後押しで築かれ、また、宣教師たちを招いてはその会話をとても楽しんだという。神父バリニアニの従者の一人に黒人がいて、その色の黒さに驚いて身体を洗わせた上、彼を召し抱えたエピソードなどもよく知られている。
信長関連で、本書の以下の記述、元の史料知りたい。オルガンチノと日本人の宣教師ロレンソが信長を尋ねたときのエピソード。
「信長にとっては神父の説くデウスや霊魂の存在は疑わしいものと思われた。信長は仏僧たちの説く仏の世界や来世のことなど一切信じなかった。死んで肉体が滅びてしまえばすべては無に帰してしまうと信じていた。そこで神父に対しても、その説くところと深く胸の中に隠しているところとは違っているのではないか。一般の説教では、天国があってそこに救われると説いているものの、その教えの道に深く入ったものに対しては、実は民衆を、罪を犯さないように正しく導く手段としてそのように説いているだけで、本当はこの世の中には来世も天国もないといい聞かせているのだろう、といった。」(P123)
二人がなんと回答したかは明らかではないらしいが、会談を終えた後、信長は「ぜひまた来て欲しい」と言ったとのことだから、たぶん満足いく回答がされたのだろう。
このとき信長と会談したロレンソという人物、非常に興味深い。元琵琶法師で弁説の才に長け、仏僧との論争に次々勝利したという。名高いのは松永久秀が主催した宗論で、延暦寺にキリスト教布教の禁止を依頼された久秀は家臣の結城山城守忠正と京都を代表する知識人の清原大外記枝賢を選んでロレンソと論争させたが、結果、ロレンソの弁説の前に二人共入信することになったという。また、この論争を久秀に進言したのが高山友照で、彼もロレンソに説得されて家族ぐるみでキリスト教に入信することになった。
信長との対談でも、オルガンチノが地球儀を指して日本までの行程を説明すると、信長が「これほど多くの危険を冒してまで日本にやってきたのは、泥棒のように何かを手に入れたいためなのか、それともキリシタンの教えを説いてひろくひろめることが大事だという理由なのか」と笑って問い、これに対してロレンソが「神父たちは実は泥棒なのです。悪魔に囚えられている日本人の魂と心を奪いとって天地の創造主の手に渡すためにはるばる来ているのです」と答えて信長を満足させている。
秀吉の伴天連追放令
信長が宣教師たちとの会話を好み、キリスト教の布教の後ろ盾となっていたように、秀吉も当初はキリスト教の布教に寛容だった。オルガンチノの薦めで大坂城の城下に教会堂を建設し、コエリョの願いを聞き入れて日本全土での布教の許可状を発行し、政権中枢にも小西、黒田、高山らキリシタン大名が揃っていたし、北政所の侍女にもキリシタンの女性が多く、秀吉はキリシタン風の名前を気に入り、非信者の女性たちに対しても一人ひとりにマリアとかジュリアといった洗礼名風の名前を付けて呼んでいたという。また、1585年、高山右近を明石に移封した際には、破壊を恐れた明石の神社や仏寺が領内の仏像を集めて大坂に運び出し、嘆願書を提出すると、これに対して「明石は右近に与えた領地である。領主がどのようなことをしようと自由である」(P156)として、その仏像の破棄と僧侶の帰国を命じた。87年の伴天連追放令で神社仏閣の破壊を問題視していることと比較すると綺麗に180度手のひらを返しているので面白い。
このような寛容政策から一変、1587年に伴天連追放令が出されることになるが、この秀吉の変心について、「秀吉がわずか一夜の間に掌をかえすようにキリシタンに対する態度を変えた理由は明らかでない」(P177)としつつ、まずはフロイスが記録に残している秀吉政権下の反キリスト教の最右翼・施薬院全宗の扇動の説を紹介し、続いて高山右近の政権内での位置について整理している。「教会と秀吉とのパイプ役として重要な役割を果たして」(P178)いたことを政権下の強硬派が憂慮しており、この時期に秀吉を動かすことに成功したという見方である。
キリシタンの信仰が秀吉の権力の埒外にあること、信仰が主従関係に優先するものであること、ポルトガル船の高い戦闘力と、独立し軍事力を備えた要塞化していた教会領長崎の存在、各地に点在するキリシタン大名の連携まで踏まえると、石山本願寺以上の脅威になる可能性など秀吉が抱いていたかもしれない不安が、このときに「施薬院をはじめ側近の重臣らの、右近打倒のための中傷や非難によって誘発され、一挙に爆発するにいたったのであろう」(P178)。ちなみに、近年では藤木らによって惣無事令の流れの中に伴天連追放令を位置づける見解が有力になっていたと思っていたが、惣無事令そのものに対する疑問も最近提示されるようになってきており、まだまだ諸説あるようだ。
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結果として、1587年の伴天連追放令は高山右近の改易だけで、あとは不徹底に終わった。有名なイエズス会への五項目の詰問に対してイエズス会が回答を送り、二〇日以内の国外追放の命令も、即時実行不可能だったため六ヶ月に延期され、その後なし崩し的に立ち消えになった。1590年、インド福王の使節が天正遣欧少年使節の帰国者を連れて来日し、あらためて関係改善が図られ、秀吉はポルトガル貿易の重要性から、使節を礼を尽くして迎えた。高山右近も復帰は認められなかったが前田利家の元で客将として迎えられ小田原征伐に出陣、朝鮮出兵時には秀吉は名護屋の陣に右近を呼び寄せて茶会を開くなど、彼を労っている。
これが弾圧へと急激に変わるのは、1596年、イエズス会と競争関係にあったフランシスコ会の日本進出によってで、スペインが領土進出の野心を持っているのではという秀吉の猜疑が、フランシスコ会(イエズス会士も含む)の宣教師・信者殺害(「日本二十六聖人の殉教」)となり、翌97年、イエズス会に対しても弾圧が開始され、98年の秀吉の死から、徳川政権までしばらく混沌とした状態になる。徳川政権成立後も、家康は朱印船貿易など対外融和の姿勢からキリシタンにも寛容な態度をとっていたが、1610年の岡本大八事件による有馬晴信の失脚直後、1612年に禁教令が出され、幕府は段階的にキリスト教弾圧へと舵を切り、キリシタン大名は皆改宗するかその地位を失うかして、歴史の舞台から退場していった。
ちなみに岡本大八事件については以下の記事で簡単に紹介した。
というわけで、40年ほど前の本だが「キリシタン大名」入門として定番となりうる本であり、近年、キリシタンについては多くの研究書が出ているのでそれらを読む前に研究史を抑えておきたい人のためにも、読んでおきたい一冊といえそう。
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