最も許されない第一人称とは、主格とは、何だろう。私たちの主格氾濫は、文語調と同じく訳出不可能な様態であり、訳出不可能な様態とは詰まり個性の事である。「私」「あたし」「ボク」「俺」「我輩」はそれぞれ社会に対する強度が違う。最も許されない主格とは、左記五個の内どの主格だろう。
【私】
・「私」は、存在不能である。存在してもしなくてもよいのだが、事実として、存在しない方が望ましい。
・「私」は、しかしまた客観不可能な態度の表明である。「私」は主観的態度でしか成り得ない。
・「私」は、社会的ではあるのだが、同時に反社会的な性格を獲得している。
・「私」は、「私」の存在を否定する文脈で初めて暗黙裡に肯定される。
・「私」は、間違ってはいるのだが、だが正しいという糾弾的態度である。
・「私」は、存在するだけで奪格にならない。
・「私」は、或いは世界に対する表象であろう。
・「私」は、最も哀しい主格である。存在してもしなくてもよい。しかし否定される事で初めて許された個性である。
【ボク】
・「ボク」は、「私」を真向から否定する。「ボク」という反社会性を最初から獲得した事で、主義主張の述語は強烈に甘やかされる。
・「ボク」は、私的か公的かに関わらず、復讐的態度である。「ボク」は、だから強度が高い。
・「ボク」が、最たる復讐的性質を持つ場合、女性が第一人称に「ボク」を用いた時である。
・「ボク」を、詐称する代表的主体として浜崎あゆみを想定する。
・「ボク」は、ここで両性的態度として使用されている。
・「ボク」は、男性性を主張しない。その所有権を女性も主張できる主格である。
・「ボク」は、だから優しい。「ボク」は、ユニセックスである。「ボク」は、間違える筈がないのだ。
・「ボク」は、男性的態度も女性的態度も放棄した、放棄せざるを得なかった、恋愛の被害者である。
・「ボク」は、恋愛・社会の文脈に於いて被害者的態度を獲得する。「ボク」の文章は、恋愛に対する復讐しか意図できない。
【俺】
・「俺」は、口語である。「俺」は日常会話の範囲内でしか許容されず、よって一切の社会性を志向しない。
・「俺」は、「ボク」よりも反社会性が強いのか。弱いのか。
・「俺」は、社会性がない。だが反社会性すら獲得できない。
・「俺」は、同時点で社会に敗北する事を承知した主格である。
・「俺」は、「ボク」や「私」よりも遥か落伍者的である。
・「俺」は、だから先取せねばならない。最も先進的でなければならない。
・「俺」は、「ボク」や「私」に敗北する為、最も正しくなければならない。
・「俺」は、用いられた時点で、社会性はないが、或る意味最も社会的な先駆的存在である。「俺」は、真摯である。
【我輩】
・「我輩」は、絶対に使用される筈のない第一人称ではあるが、「私」「ボク」「俺」と比べて、特別態度を持つ。
・「我輩」は、そもそも尊大である。「我輩」の「輩」の語源は、「不平を言う者」「喧嘩口論者」である。
・「我輩」は、余りにも古風である。その存在からして現在の風潮に対する批判者的態度を獲得する。
・「我輩」は、批判的であるのだが、批判的である事に自嘲する自傷性を持ってしまう。
・「我輩は猫である」は、文明批判ではあるのだが、「我輩」は最後に自殺してしまう。
・「我輩」は、自殺を志向する。
・「我輩」は、散々に喚き立てる事の無意味を承知した主格である。
・「我輩」が、その主張の主語に持って来られた場合、その主張者は一度既に自殺している。
・「我輩」は、「私」「ボク」「俺」と比べて、最終的に最も謙虚な性格を獲得する。
・「我輩」は、「私」よりも悲劇的である。
以上、第一人称「私」「ボク」「俺」「我輩」の持つ性格と、その個人的印象を述べた。両性共、いずれの第一人称も使用可能であるのだが、その第一人称によって主張される主義・性格・演出・態度・結末は上記の様に規程されると私は考えている。最も許されない主格は「ボク」だろうと考える。