先人たちの底力 知恵泉 新ビジネスでトップをつかめ▽明治の大富豪 岩崎彌太郎 2016.01.26


温かい雰囲気の文字がまた伝わるという事ですね。
そうですね随分印象が変わりました。
今宵は明治時代豪快に資産を増やしていった大富豪のお話です。
幕末日本の夜明けを導いた維新の英雄あの坂本龍馬らと共に大活躍。
最下層の身分から大出世を果たした人物がいます。
それが岩崎彌太郎。
その勢いは明治以後もとどまる事を知りません。
彌太郎が目をつけたのはニュービジネスだった海運業。
スリーダイヤを掲げたベンチャー企業は多くのライバルを蹴散らし飛躍的に成長。
僅か10年で日本最大の企業となり大成功を収めます。
その結果手に入れたのが…。
更に1つ500万円もの高額な石を次々と購入。
そして…。
彌太郎の会社はその後さまざまな分野に進出する巨大財閥に発展。
現在の重工業や銀行など世界的に知られる企業グループの礎となりました。
一代で明治最大の経営者となった彌太郎。
時代の転換期いかにして巨万の富を築いていったのか。
その知恵を読み解くのは現代の物流をリードする宅配便グループ前会長瀬戸薫さん。
宅配便サービスが始まったのは今から40年ほど前。
荷物を送るのは郵便小包がメインだった時代。
法の規制や集荷方法の確立などまさにゼロからのスタートでした。
当時30代だった瀬戸さんは社運を懸けて臨んだ宅配便事業の主力メンバーとして活躍。
宅配専用車両の開発や生鮮食品の保冷輸送などを次々成功させその実績により2006年社長に抜擢されました。
当時はインターネットによる通販が急激に拡大し始めた頃。
宅配ビジネスは巨大市場となりさまざまな業者が参入ししのぎを削るようになります。
そんな中瀬戸さんは他社に先駆けて海外に進出。
上海シンガポールなどをはじめ日本のきめ細かい宅配サービスをアジアに広げます。
そして1兆円を超える巨大企業へと成長させました。
前例のないニュービジネスを見事成功させた瀬戸さん。
一代で巨大財閥の礎を築いた岩崎彌太郎の知恵をどう読み解くのか?今夜も岩崎彌太郎ですけれどもどうですかあの豪邸有野さん。
すごいですね。
120億円で何LDKなの?あの家は。
どれぐらいあるんですかね。
相当部屋ありましたよ。
何LDKって言い方じゃないのもう。
数えきれないぐらいあるという。
あれに日本間も全部日本家屋もついてるわけですからね。
あれ洋館だけで。
すごいですよ。
庭もありますよね。
相当な広さがあります。
彌太郎なんですけれども今宵のテーマはですねこんなテーマ掲げてみます。
「資産を豪快に増やすには」という。
地下浪人という最下級の武士の中では一番下の武士だった彌太郎が巨大財閥をつくるまでになったんですけれどもこれ当時としてもやっぱり珍しい事だったんでしょうか?すごく珍しいですね。
時代の激動期ですけどもそれでも…成り上がったと。
時代背景も影響していたんですかね?そうですね。
要するにそういう時代の激動期でねしかも物流というそういう面では一番中心的なところで彼が働いたわけですよね。
だからあれだけの資産を増やす事ができたという事でしょうかね。
物流激動の時代。
今まさにそうじゃないですか?瀬戸さん。
そうですね。
ネット通販がここまでどんどん伸びるとは思わなかったんですよね。
ネット通販を頼む人っていうのもさまざまな人が頼むようになってきたわけですね。
最初のうちはですね忙しい人共稼ぎであったり単身の人たちが頼んでたわけですけどだんだんそれが主婦層にいったり老人層にも普及してるわけですよね。
彌太郎はですね最下級の武士からスタートしたんですね。
激動の時代をいかに乗り切ってベンチャー企業を立ち上げるのか?まずそこからひもといていこうと思います。
天保5年高知・土佐で地下浪人という低い身分の家に生まれた岩崎彌太郎。
幼い頃から学問に秀いでていた彌太郎は藩が経営していた貿易会社の主任として活躍するようになります。
外国商人と通じた豊富な人脈と資金力をバックに坂本竜馬や後藤象二郎らの政治活動をサポート。
明治維新を実現した土佐藩の一員として大きな役割を果たしました。
そして始まった明治の世。
土佐のリーダー後藤象二郎など倒幕に尽力した各藩の功労者たちは次々と新政府の要職に迎えられました。
後藤の右腕として尽くしてきた彌太郎も当然新政府に登用されると期待します。
しかし後藤に相談すると返ってきた言葉は…。
藩の会社は維新後も民間会社として存続していました。
従来どおりその経営にあたってくれというのです。
後藤にしてみれば金銭面に強い彌太郎は政界に入れるより貿易の仕事をやらせておいた方が好都合だと考えたのかもしれません。
「結局自分は資金繰り担当でしかなかったのか」。
彌太郎は政治の道を閉ざされた事に激しく失望します。
最初は土佐藩のためですね。
これがだんだん土佐藩じゃなくて日本というのが単位になりましたからそのためにお国のためになりたい中央官庁に入っていきたいと。
後藤の提案をすぐには受け入れられず悩み続けた彌太郎。
1か月後彌太郎はついに会社の経営を引き受けると返答します。
明治6年彌太郎自身が社長となって立ち上げたのが…あのスリーダイヤを掲げたベンチャー企業です。
「政治で立身出世ができないなら自分は個人として実業の道を究める」。
彌太郎40歳の決断でした。
ほんとは政治の道に行きたかったんですけれども実業の道に行ったという事なんですね。
当時は天下国家の時代ですからね。
明治維新の原動力になった…なれると思ってるわけだけど彼は地下浪人の出身で今までずっと経済の会計の事をやってきたわけですね。
お前はそっちの方をやれよと言われて自分のこの身分ではやっぱり政治には入れないのかってかなり落胆したと思うんですね。
自分の中で結構信用もされて上がってたと思ったんですね。
でもやっぱりほんとのところで信用はされてなかったっていうその思いがあるんでこれからは商売にまい進して自分の家産を増やそうというふうにここで思い切ったんでしょうね。
有野さんはそういう経験ってありますか?挫折ですか?ず〜っと引きずるんじゃない。
いまだに二十歳ぐらいの時の番組でこれ言われへんかったというのをパッと思い出したりとか。
でも20年…。
うんあるある。
結構引きずるタイプですね。
引きずり過ぎじゃないですか。
引きずる。
彌太郎もそうやって成功していったわけなんですね。
そうかな?強引でしたすいません。
そしてですね民間企業の一社長としてスタートしていった。
今も残ってる会社ですもんね。
そうなんですよ。
そのスタートからどうやって企業を自分の会社を大きくしていったのか。
まず今夜最初の知恵を味わって頂きます。
明治7年彌太郎は会社を東京・日本橋に移転。
社名を「三菱蒸気船会社」に改め本格的に事業を開始します。
会社には藩が払い下げた蒸気船など7隻があったため貨物や人の輸送を行う海運業にシフトさせたのです。
当時海運業はまさに成長が著しいニュービジネス。
それまで使っていた和船から洋式の蒸気船に変わった事で輸送力も早さも格段に上がり商取引が活発化。
彌太郎はそこにビッグチャンスを見いだしました。
しかしそこには巨大なライバルがいました。
政府が肝煎りでつくった半官半民の海運会社です。
船は政府の払い下げで充実しており貨物や客の輸送のほか年貢米や郵便物の輸送も一手に任されていました。
そのシェアは圧倒的で新規に参入した彌太郎の会社が入り込む余地はなかなかありませんでした。
一体どうやったら客を増やせるのか。
ある時彌太郎はライバルの日本国郵便についてこんな話を耳にします。
社員の横柄な態度が客の間で不評を買っていたのです。
これには理由がありました。
日本国郵便の社員はその多くが士族の出身者でした。
江戸時代の身分制度の意識が抜けない彼らは会社組織になっても客として来る庶民を下に見ていたのです。
彌太郎にある考えがひらめきます。
手っとり早いのは客あしらいに慣れた番頭や丁稚など商売の経験者を雇う事。
しかし彌太郎はそうしませんでした。
目をつけたのは士族の子弟や大学卒業者。
一見接客業には不向きな人材です。
その理由は…。
ですから丁稚の人を雇ってこれを学者並みの教養なり視野なりを養成するよりはそうじゃないその逆の方が発展があるというふうに考えたんじゃないでしょうかね。
彌太郎は社員を集めてこう教育しました。
掲げたのはおかめの面。
更に彼らが着ていた洋装を禁止。
前垂れをつけた…これに対し社員から激しい反発が起こります。
その時彌太郎が渡したのは…なんと小判の絵が描かれた扇子。
サービスを充実させれば客も増え結果的には給料も増える。
彌太郎は近代的な会社の価値観を教え込んでいきました。
更に強化したのが外国人の雇用。
多い時は外国人が全体の3/3を占める当時としては珍しいグローバル企業でした。
その理由は安全性のアピール。
当時日本人よりも…三拍子そろった彌太郎の会社の評判は次第に上がり客が増え始めました。
彌太郎のこうしたやり方を大絶賛した人物がいます。
日本の近代化を啓蒙していた思想家福澤諭吉です。
福澤は実業立国の手本であると彌太郎を高く評価。
自らが主宰する慶應義塾の優秀な学生を次々と送り込んでいったのです。
有野さんいかがでしょうか?すごいですね。
おかめのお面見せてこれにしろって。
この笑顔で接しなさいっていう。
大学を卒業してる賢い人にこれでいけんねやって。
福笑いとかで使うあの顔でしょ。
まさにそうですね。
大学がそれほどあるわけじゃないんで…しかし彼らにしても全部が全部官界に就職できるわけじゃないので……というのが岩崎の戦略だったわけですね。
福澤も自分の学生にこれから官ばっかりに目を向けないで実業にも目を向けなさいというような事を言ってるのでそれが両者相まってそういう人を採用して。
ただやってる仕事は…瀬戸さんどうですか?お客様を小判だと思いなさいというのは。
我々はそこまでは教えませんけどそれでもですねやっぱり我々が宅急便を始めた頃はですねドライバーを雇う時には…なぜかって言うと今までのやり方で今までの精神状態でお客さんにサービスをするから運んでやってんだぐらいの事をやられたら困るわけですね。
ですからそうするとどういう人雇うかというと…こういった人をですねずっと雇ったんですよね。
その人たちに対して今度はどういう方向で仕事をしていったらいいかという事を教えるんですけど。
例えば…「サービス第一」っていうのはドライバーですから自分が外へ出ていくと1人なわけですよね。
誰からも指令を受けない…。
その時にお客さんにどういうふうに対応したらいいかというのを「サービス第一」っていう言い方でやるわけですよね。
要はあなたの目の前にいるお客さんが一番喜ぶ事をあなたは提供しなさいと。
結構社内教育というのは厳しいんですか?うちはね非常に緩やかです。
緩やか?大体普通はマニュアルっていうのはみんなありますよね会社にはね。
うちは…ないんですか?ないです。
そんな時マニュアルがないからできませんだとかマニュアルにこう書いてあるからできませんだとかそういう事はできないわけですね。
そうすると…それの方がですねウワッと…。
彌太郎は社内教育どんな事を徹底してたんですか?しょっちゅうね社員集めて訓示をしたりねあるいは規則を作ったりしてるんですよね。
訓示や規則を。
例えば海運の仕事はですね国家のための仕事なんだと。
そういう意識をきちんと持ってやれっていうそういう意識ですね。
意識改革をやれと言ってますね。
訓示やその言う事っていうのは大事なんですかね?それは大事ですね。
特に現場の人たちというのは本社のトップの人から直接言われるという事はないわけです。
そういう場面がね。
接する事はないですよね。
それを現場に行って直接顔を見ながら話してあげると分かりがすごく早いんですよね。
そういうのは反応見ながらだからちゃんとできるわけですよね。
社内教育一つ取ってもいろいろなケースがありますね。
面白いなと思って伺いました。
彌太郎の会社もようやく軌道に乗り始めるんですね。
このあといよいよ日本のトップにのし上がっていくわけなんですけれども更なる知恵があります。
味わって頂きましょう。
サービスの向上で徐々に顧客を増やし日本国郵便を追い上げていった彌太郎。
そんな時国を揺るがす事件が起きます。
明治4年台湾に漂着した琉球の乗組員が現地で殺害されたのです。
政府は調査のため台湾への派兵を計画。
初めて海外に大量の兵や武器を運ぶ事になりました。
当初当てにしたのは巨大な輸送能力を持った米英の汽船会社。
しかし両国とも中立の維持を理由に依頼を拒絶します。
やむなく政府が頼ったのは日本最大手の日本国郵便。
政府の保護を受けている半官半民の会社です。
しかし…。
「またこれを引き受けると国内輸送が手薄になり三菱に客を奪われてしまう」と拒絶。
困った政府が頼ったのが彌太郎の会社でした。
彌太郎側にとっても危険な状況は同じ。
しかも新興企業であるためようやく広げた国内シェアを一気に失いかねません。
しかし彌太郎は…。
なんと即決でこの申し出を引き受けたのです。
大変な勢いでみんなを叱咤激励して全力を尽くすと。
彌太郎は国内の定期航路を休止してまでこの軍事輸送に力を注ぎます。
彌太郎の尽力もあって国際紛争は収束を迎えます。
三菱を高く評価した政府は台湾派兵のために購入していた13隻の船の委託を決定。
この事で脆弱だった海運力は一気に上昇する事に。
一方日本国郵便はそれまで政府から依頼されていた年貢米の輸送が廃止。
大打撃を受けたところに三菱が一気にシェアを拡大した事でついに明治8年解散に追い込まれたのです。
西南戦争の際も彌太郎は軍事輸送で政府に全面協力。
明治政府は彌太郎の会社をバックアップする事が国防の強化にもつながると考えるようになります。
国内にはイギリスの海運会社が進出していましたが政府は外国企業に特別な税制をかけ撤退に追い込みました。
顧客が窮地に陥った時はリスクをいとわず全力で支える。
客の絶対的信頼を勝ち得た事で彌太郎の会社は日本最大の企業へと飛躍する事になったのです。
という事なんです。
すごいですね。
みんなが断ってる事も「やります」って言えるというのがすごいですね。
国の窮地を救う事によってという危険を顧みず。
そもそも国策会社の日本国郵便が断ってるわけですからね。
自分だって断ってもいいんだけどしかしこれは国のためであるという事で即決するわけですね。
それが結果的には飛躍を生む事になったわけですね。
国全体としても結果的にはよかったという事なんですかね?当時はアメリカの会社とかイギリスの会社というのが入ってきてるわけですね海運のためにね。
戦争するにしても何するにしてもどうしても必要なものですから……というのは政府にもあったわけですね。
その中で最初は軽視してた岩崎の会社が結局役に立つという事でそれを育成するようになってくるわけですね。
ええ方に全部転がってくって事ですね。
「最も顧客がつらい時の友になれ」という知恵ですけれども瀬戸さんどうご覧になりました?例えばいろんな災害が起こった時とかというのは社員全員が世のため人のために向かっていくんですよね。
そういったところっていうのは当社についてはすごく強いと思いますよね。
災害といえば東日本大震災の時は?あの時はですねまず現場がすぐに動いたんですよね。
現場とは言ったってみんな沿海側にずっと営業所がありましたから。
それで被災者ではありながらこれじゃあ周りの人がねみんな大変な事になっちゃうというんでそれで自分たちで動きだしてその集積場所があるんですね。
そこに掛け合ってこの集積場所の運営のしかたが悪いから出てこないんだと荷物が。
「我々が全部やってあげるから我々にやらせろ」って言って全部設計し直して品目ごとに全部作り直してそこから配送を始めるんです。
でも彼らはみんなボランティアでそういう事をやったわけですか?そうです。
すごいですね。
このあと彌太郎はどうなっていくんでしょうか?このあとですね海運業も続けるんですけどそれはまあ日本郵船かなんかに任せてですね。
それから長崎造船だとかあるいは高島炭鉱なんかの鉱山業ですねそういういろんな分野に進出していくんですね。
ただちょうどそのころもう彌太郎52歳。
結構今で言えば若いんですけどそれで亡くなってしまうんですね。
岩崎家の3代4代でずっと財閥解体まで日本の経済を支えたという事になりますね。
しかもそれぞれ優秀だったんですよね。
みんな優秀で。
しかも文化事業なんかにもね随分お金を出してますね彼らは。
岩崎の時代はまだまだこれから勃興していくという時代ですが2代目3代目になるともうほんとにステータスが確立してますからね。
だから彼が学術に果たした役割というのも結構大きいですね。
彼の子孫がですね。
すごいな。
すごいんですよ。
結果として一代で日本トップクラスの企業を築き上げて大変な資産を築いたわけなんですね。
その栄華を物語る場所に私お待たせしました行ってまいりました。
500万円の石のところに。
そうです。
ご覧頂きましょう。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタをお届けする…
東京・文京区の無縁坂にやって来ました。
かつて森外や夏目漱石といった文豪たちもこの辺り暮らしていたそうです。
で私の横のこの壁の向こうが岩崎家のお屋敷なんですがこの壁見て下さい。
石垣の上にレンガ塀ですよ。
とにかく立派で高い!中の岩崎家のお屋敷もさぞかし立派なんでしょうね。
行ってみましょう。
こちらは旧岩崎邸庭園。
彌太郎が45歳の時舞鶴藩主の屋敷を買い取り自宅を建設した場所です
今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
いや…にしても立派ですね。
120年前に建った建物なんですね。
120年前!
この邸宅は鹿鳴館なども手がけた名建築家ジョサイア・コンドルに依頼したもの。
明治29年長男久彌の時代に完成しました
近代日本住宅を代表する西洋木造建築
現在の価値でなんと120億円!
どうぞ。
いやぁ重厚な造りですね中。
そうですね。
このアーチをくぐると天井高は4.2m。
高いですよねすごい広い空間。
声も響きますね。
あっこれは?ここが一番の見せ場なんですよね。
当時日本ではまだ珍しかったという階段。
階段まわりの広い空間は客人をもてなす応接間の役割も果たしたといいます
ここが大きな応接間だったとすればお客さんをここにお通しして当主が上から下りてくる。
おお。
絵になりますよね。
舞台ですね。
だからそういう意味で…さぞかし何ていうんでしょう盛り上がったでしょうね。
せっかくなので私も当主の気持ちを味わってみる事に
いやいやいや皆のもの今日はよく集まって下さいました。
どうもどうも。
いやぁほんとにね今日寒い中ありがとう!ありがとう!すっごい私失礼じゃないですか?大丈夫ですか?
気を取り直して2階へ
こうするとお庭が見えるんですね。
そうですね。
これがベランダですよね。
うわ〜これは気持ちいいですね。
これで広さどれぐらいあるんですか?今でこそ1/3になりましたが…その時は池があったみたいなんですが…。
この庭には彌太郎ゆかりのものも残されています
例えばあの灯籠ですね。
あの庭の隅にある結構大きな灯籠ですね。
あれがそうなんですか。
(松井)そうですね。
彌太郎がこだわりを持っていたという石灯籠。
なんと高さ3m。
石灯籠にしては巨大なものです
同時期に購入した庭が文京区にある六義園。
大名柳沢吉保が造った江戸期を代表する名園です
明治11年彌太郎が購入後次々と土地を買い足し一時は12万坪東京ドーム8個分もの広さがありました
春には桜秋には紅葉と絶景の名園へと改造していったのです
彌太郎が購入したもう一つの庭がこちらです。
行ってみましょう!今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
河野です。
案内してくれるのは…
この清澄庭園も元は幕府老中を務めた大名の下屋敷でした。
見渡す限りに広がる大庭園。
彌太郎が2年かけて造り上げたものです
あちこちに大きな石が置かれている飾られているじゃないですか。
これはどうしてなんですか?彌太郎さんが趣味で集められた石ですね。
彌太郎がこだわったのが石
中には大変お高い石もあるとか
あれですか?赤い赤玉石といいます。
赤いですね確かに。
今日なんか特に雨にぬれて色が鮮やかに出てます。
現在では採掘不可能となった…
彌太郎は全国の珍しい石どういうふうに情報を集めてたんですか?
更に大きすぎて運ぶのに苦労したという石も
石で出来た橋!また大きいですねこれ!大きいですよ。
長い!長いですし。
宮城県石巻から運ばれたという仙台石。
1艘では運びきれず2艘の船の中間につるすようにして運んできました
削ったわけじゃないんですよねきっとこれ。
自然な石なんですね。
(河野)自然な石ですね。
まるで庭の橋になるために生まれてきたような石ですね。
そうですよね。
おっしゃるとおり。
庭の中央の築山にはある仕掛けも
料亭があって…富士山というのはどういう事ですか?
(河野)あれが富士山をかたどってる山ですね。
築山のモチーフにしたのは日本一の山富士山
頂上にある溶岩は実際富士山から運ばせたもの。
山裾に植えられたツツジはたなびく雲を表現しています
これ季節によって彩りが変わったりするそうですね。
はいおっしゃったようにツツジが要は色が変わりますよね花が咲くと。
それが雲のたなびきをね表してます。
じゃあ四季を通じて表情を変える富士山を楽しめるわけなんですね。
彌太郎はこの庭を顧客の接待に使うだけでなく年に二度社員に開放し大規模なパーティーでねぎらったといいます
彌太郎が富をつぎ込んだ名庭園の数々。
皆さんも是非訪れて大富豪の気分を味わってみて下さい
スケールが大きいですよね。
彌太郎さんが生きてはったらもうネットとかで通販で石バカバカ買ってはるんじゃないですか。
きっと瀬戸さんのところの宅配業者を使って。
あんな大きいのはね。
皆さんに実はですねお土産を今日は用意しました。
ちょっと…。
ありがとうございます。
どうぞ。
どうぞ。
開けていいですか?どうぞ開けてみて下さい。
あっ手拭い。
そうなんですよ。
清澄庭園の手拭いです。
広げてみて下さい。
分かりますか?庭園に置いてある石をあしらった手拭いなんですよ。
これあった!そうありましたありました。
これ赤石。
赤石ですね。
瀬戸さんはちょっと柄が違いましてちょっと墨絵のようなデザインで料亭がありましてその手前に池。
そして石もちゃんとこうやって描かれているわけですね。
なかなかすごいな。
瀬戸さんの方が高そうな感じがするけど。
さすがこっちの方が高いです。
さすが!庭園や石を買うというのは当時の言ってみればお金持ちは皆さんやってた?庭園造ったりするのはよくやってるんですね。
例えば原三渓なんていうのは生糸貿易で財を成して今本牧の三渓園っていう大きな庭園造ってますよね。
彼が最下層の武士の出身だったというのが大きいんじゃないですかね。
大名庭園が自分のものだというのが言えるってのがね。
それだけの財産を築いたという事ですね。
すごいですね。
2回にわたって皆さんに来て頂きまして彌太郎の知恵を味わってまいりましたけれども有野さんいかがでしたでしょうか?面白かったですね。
こういう人がおったんやというのが。
その人がつくった会社がまだ残っててというのもね。
そうですよね。
でもやっぱ店長は彌太郎さんにはなれないんじゃないかな。
どこが駄目ですかね?全員同じ手拭いにそろえないところ。
ちょっと見え見えです…。
先生現代の我々が彌太郎から学べるところというのはどんなところですかね?彌太郎はね時代の激動期なんでなかなか学べないんですけどあまりに特異なんでね。
ただ例えば台湾出兵なんかで自分の船を出すというのはこれはリスクを取ってもうけというよりは国のためにここで頑張ろうというねそれが結果的によかったという事ですね。
それをやり遂げた者が結果的に成功する事があるっていうのは一つの教訓なんじゃないかと思いますね。
シンプルですね考え方がね。
瀬戸さん今日の締めといたしましてテーマはこちらでした。
「資産を豪快に増やすには」。
その極意是非瀬戸さんのお言葉でお願いします。
これ多分極意ってないと思うんですよね。
すごく難しい事ですよね。
まず一朝一夕では無理ですよね。
なかなかね。
会社全体の資産を伸ばすにはですねまあ我々で言うと絶対目標というのがあって絶対目標というのはサービスなんですよね。
サービスをとにかく良くする。
これが絶対目標なんですよね。
それを実現するために…その人たちで運営ができるような全員経営という仕組みを裏で入れると。
多分現代ではそういった……という事が必要じゃないかなというふうに思ってます。
絶対目標と全員経営でギリギリまで頑張ると。
ありがとうございます。
あのうちの店はいつもギリギリ経営ですけれども。
うん。
満席にならないね。
常にこの状態ですけれども絶対売れるという目標を持って皆さんのお財布にも頼りながら頑張っていきたいと思います。
ほんとに今夜はありがとうございました。
2016/01/26(火) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 新ビジネスでトップをつかめ▽明治の大富豪 岩崎彌太郎[解][字]

明治維新後、一代で財閥三菱の礎を築いた経営者、岩崎彌太郎。その急成長の極意は「社員教育」!徹底した顧客第一主義で福沢諭吉からも絶賛される巨大企業になっていく。

詳細情報
番組内容
明治維新後、一代で財閥三菱の礎を築いた経営者、岩崎彌太郎。幕末を経て民間の海運業者を立ち上げるが、当時、政府が支援する海運会社やグローバル企業がライバル。赤字を強いられた彌太郎の起死回生の極意が「社員教育」。社員教育で「エリートが丁寧に接客」という手法で改革していく。さらに海外紛争の際、リスクを覚悟で政府に全面協力。顧客第一主義は福沢諭吉から「実業立国の手本」と絶賛され会社は大躍進していく。
出演者
【ゲスト】東京大学史料編纂所教授…山本博文,ヤマトホールディングス株式会社代表…瀬戸薫,有野晋哉,【司会】近田雄一

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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日本語
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