「差別を防ぐために表現規制をするべきではないのでは?歯止めが効かなくなるかもしれないし、守られる弱者と守られない弱者の線引きも不明だ。そしてどうせ好き嫌いからの差別は起きるし、貴方は結局、皆から好かれる人間が強くなる制度を提唱しているのでは?」
と聞いたら、「それ以外に何ができるんだ」と返してきた。
それ以外なにが出来るのかを探るだけ、医者とか金持ちの方がマシな気がしたのだった。
表現規制はとにかくするべきではない。
制度が出来たところで、結局のところ一番有利になるのは強者だと思っている。
規制されない者がどんどん強くなる。
皆が「心地が悪い」と感じるものに対してから規制されるのだろうから、結局綺麗なものが何処までも守られるのだろう。
そして、自分のようなグロメンは「心地が悪い」から痛めつけるのだ。
社会の雰囲気や、最終政策決定者の認識で色々と決められたら、真っ先に酷い目に遭うのは容姿の醜いやつだ。
ただでさえ、自分が好むものは不快だから、殴って、奪って、綺麗な者に分け与えてもいいような風潮があるのだ。
世の中は自分をボコることへの規制はあまり乗り気ではないだろう。
どうせ表現規制されたところで、扱いは良くならないだろう。
婚姻制度は皆に平等にあるのに、結局のところ容姿が醜くて出来ない人間がいる。
表現規制とかで平等を目指そうとするのではなくて、自分の容姿を良くしてほしい。
深い凹凸や膿や赤みで顔の肌は酷いのだ。パーツだって形が悪いのだ。
持病で出来るか分からなくて、効果があるのすら分からないレーザー治療やらのために金を貯めるしかないのか。
京都のアホ大学から神戸大学に編入とかいう褒められない目標のためにTOEICの勉強をしたら、大学受験のときを思い出した。
容姿が悪くて、高校では肌汚いななどと言われ、明るいキャンパスライフなんて描けなくて、ただでさえできない勉強のやる気がなくなっていったのだった。
今日の編入のための殆ど期待なんて持てない、全くできないTOEICのための勉強もそんな気持ちになった。