「炎上が起こった時、実際に犯罪を犯したわけでもないのに、道徳的な価値観から集団でのネット私刑、ネットリンチが行われている
個人に対しての行き過ぎた暴力であり、問題視されるべきだ」というものがある。
考えてみて欲しい。
「皆の食事会で唾を飛ばしまくり、げっぷをしても悪びれず、異常にキツい香水をつけ、そして会計の時だけそそくさといなくなり周囲に払わせる」
このような人が貴方のそばにいたとしよう。
当たり前だが、よほどおおらかな人でない限り「この人と今後仲良くするのは無理だ、食事などもっての他だ」と思うのが当然だろう。
さて、それが食事会に参加した全員がそう思ったのならどうなる?
10人の参加者のうち当人を除いた9人がこの人とは無理だと思い、関りを避けたらどうなるだろうか。
さらに彼らが当人の所業、悪口を知り合いらに話していったとしたらどうなるだろうか?
話された人も「そのような人とは私も関りたくない」と考えるだろうし、
当人は自分が行った行為の裏返しとして、関わった人からもこれから関わるはずだった人からもNGを突きつけられることになるだろう。
ネット上で起きている集団的正義感による私刑、なんていうものは
その大多数は「私はこの人は嫌いだ、関りたくない」という意思表示を、とても大勢の人間が個人的に行っているだけなのである。
さて、ここで「ネット私刑はやめよう、一度叩かれた人をそれ以上叩くのはやめよう」と言ったところで、
その不快度の高い人間に手を差し伸べてやるべきだとでも言うのだろうか?
その不快度の高い人間のことはもう放っておけとでも言うのだろうか?
先ほどの例で言えば、食事の場でマナーの悪い個人がいたとして、
その食事会に参加した人が周囲に話すことなく、個人的にNGとしただけで終わった場合、
そのマナーの悪い個人はその会の面々を切り捨て、また新しい面々の食事会に入っていくだけである。
そうして少しずつ少しずつ悪評は広まることになるが、当人は一切反省せずに場を転々とするだけだ。
その当人を拒否することなく受け入れろということと同義である。
当人は3割を捨てても7割側が許してくれたと考え、反省もせず改めもせず、7割側の人間を不快にさせに行きだす。
7割側の人間にとってみれば、もう向こう側から関わって欲しくないからこそ、当人の行動を非難しているのだ。
それをやりすぎだと咎められたとしても、次被害に会うのは自分かもしれない以上は個人的に叩くだろう。
まず当人が行ったことがどれだけの人間に受け入れられ、どれだけの人間に批判されるかという所から始まる。
見た人のうちの6割程度が賛同するだけでも炎上はしないだろう。
見た人のうち8割近くが批判する立場になるような、そういう不快な行動をとったからこそ炎上するのである。
「煙のない所から火が立つような炎上」こういう表現も時折されるが、これは間違いである。
そもそも本当に何も問題を起こしていないのであれば、火は広がらないからだ。
「このようなことは批判されるべきだ」という人が火を広げるし、「別にこのくらいなら許容範囲」という人が鎮火させるのである。
本当に煙のない所に炊きつけたような炎上であれば、それに騙される人は確かにいるだろうが、
大多数の人間は「これ何も問題ないじゃん」と考え、火は広がらない。
個人的な怨恨を持った極々少数の人間が、小さなコミュニティに留まって焚き火をしてる程度の、
炎上と言えるほどに多くの人間が非難するということは、実際にそれだけ人を不快にさせる行動をとったということである。
多くの人間が関わる為、それを「一致団結して蹴落としてやろうとする特定の集団がいる」ように見えてしまうのかもしれないが、
実際に集団が存在する場合もあるが、そのような「集団的に」批判する人間の数は少ないもので、
小さな集団と、集団には含まれないその他大勢がいるだけで、「個人的に」嫌だと各々が呟いているだけに過ぎない、ということだ。
小さな集団だけが立ち、その他大勢の同意を得られないような火は、先ほど述べたようにその集団内だけで焚き火をしている格好になる。
結論として、「行き過ぎている」とは言えない。
行き過ぎているのだとしたら、それはそれだけ大勢の人間を不快にさせた当人の行動が行き過ぎていただけである。
行き過ぎたことをしたら行き過ぎたことをされる、まだ許容できる範囲なら周囲にも許容してもらえる、当然の話だ。