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文芸メイン、その他もろもろ

犬が しんだ ただ それだけ のこと⑤

2016年1月22日 午後3時過ぎ

 

病院からの連絡を受けて、バスに飛び乗る。

病院にはいつも車か、自転車で行っていた。

初めて家と逆方向からのバスに乗り、病院近くのバス停で降車した時、どこにいるのか解らなくなった。

私は酷い方向音痴だった。見慣れない四つ角に立ち、360度ぐるりと見回した。

見えない何かの力に導かれるように走ると、見覚えのある通りに出た。

 

Lちゃん。母ちゃんが来たよ。

 

 

受付の女性が私を見ておろおろと「直ぐ中に」と言った。

ドアを開けると診察台の上に犬がいた。でも、その犬はLではなかった。

 

あれ、Lは?Lはどこ?

 

診察室の奥にあるICUに、院長とLがいた。

院長は目で私に(早く入るように)と促した。

 

Lちゃん!

 

 

 

そこには、戦慄の光景があった。

Lの四肢はぴんと伸びきって、宙に浮いていた。

背骨が、こんなになるかしらと思うほど弓なりに反り返り

眼球が飛び出しそうに両目を見開いていた。

けれどもその目は、何も見えてはいないようだった。

口を大きく開いて歯を剥き出しにしていた。

その口元に透明の酸素マスクが、院長の手によって嵌められていた。

Lは、ハッハッ、ハッハッと苦しみ悶え、とても正視できるものではなかったが

私が目を背けるわけにはいかない。

 

「先程容体が急変して、心臓が止まったのです。

でも、お母さんが今来るぞ頑張れと言って処置をして、L君は蘇生しました。

それから直ぐにご連絡をしたのです」

 

 

 

サッキ シンゾウガ トマッタ

 

 

私の心臓こそ止まりそうになった。

Lちゃん、お前ったら、一度死んじゃったのかい?

バカだね。それでまた戻ってきたの?

母ちゃんに、お別れを言うために…?

 

スゲーなお前…

 

でもLの姿は、生き返りたくて生きているとは到底思えないものであった。

医学の力で無理矢理に生かされている、そんな気がした。

そんなの生きていると言える?

こんなLは、Lじゃない。

可哀想。

Lが、可哀想だ。

 

あん…らく………し

 

心の中をそんな言葉がよぎった。

その心の中が聞こえたかのように、院長が言った。

 

「ここから治る子も、いるのですよ。この、辛い治療を乗り越えてくれさえすれば…

L君は、頑張って生きようと しています」

 

そうだよね。

安楽死を選択、なんて出来ない。

頼めばこの院長はきっと、言う通りにしてくれる。

けれども、夫はともかく娘が知ったら許してはくれない。

Lだってこのまま死にたくはないだろう。

せっかく戻ってきてくれたのだ。

Lちゃん。頑張れ。頑張れ。

 

「この苦しそうなのは、高濃度酸素を目一杯送り込んでいるからなのです」

院長は、ゆっくりとゆっくりと様子を見ながら酸素マスクをLの口から離した。

Lはハアハアしていたが、険しい表情がほんの少しだけ穏やかになった。

 

「よし、これから一般病室に移します。お母さんは側にいてあげて下さい」

 

Lは二人のナースに運ばれて、午前中にいた檻とは別のところに寝かされた。

周りには猫がいたようだったが、Lに目が離せなかったから解らない。

檻の蓋は開けたままで、私はLを触る事が出来た。

Lはごろりと横たわり、目の焦点が合っていない。きっと見えてはいないのだろう。

声をかけても反応しなかった。

呼吸はしているものの、ハァッ…ヒッヒッ…ハァッ…と不規則であった。

 

Lちゃん。

苦しいね。

これじゃ、今夜も病院だね。

母ちゃん今日は帰らないで、ずっとLちゃんとここにいようかな。

ダメって言われちゃうかな?

Lちゃん。

 

頑張れと励ますのは辛かった。

これ以上、これ以上どう頑張ればいいと言うのだろう?

頑張らなければならないのは、自分の方だった。

涙でLの姿が見えなくならないように。

声が、震えてしまわないように。

 

 

 

静かな時間は、長くは続かなかった。

突然、Lの表情がハッと正気に戻ったようになった。

体勢をお座りにしたいかのように身体を捻らせたが、起き上がるには力が足りない。

2、3度起き上がろうとして上手くいかず、Lは足をバタつかせた。

 

あっ、Lどうしたの?起きたいのかい?

 

Lが前足をバタバタバタと、走り出すような動き方をしたので

私は、Lが元気になってきたのだと勘違いをした。

でもそうではなかった。

Lの身体の中で何かが起きて、Lはまた苦しみだしたのだ。

 

どうしたの?Lが…Lが…

 

誰かを呼ばなくてはと思う間もなく、ナースと院長が飛んできた。

Lは全身を痙攣させ、踊るようにゆっくりと変な動き方をした。

まるで、Lに悪霊が乗り移ったように。

 

ああ、Lが

Lが死んでしまう。

こんなに苦しみ悶えて、Lが死んでしまうの?

全く、神も仏もありゃしない。

Lが一体何をしたというのだ?

 

あまりの惨たらしいさまに、私は怯んだ。

目を背けてはダメ。

Lの最期を、見届けてあげなければ。

 

何度も大きく痙攣し、もうダメだと私は諦めてしまった。

Lちゃん。

死んじゃうんだね。

もう、お別れなんだね。

母ちゃんを置いて、行っちゃうんだね。

そんな怖い顔やめてよ…

 

 

安らかに、眠るように逝くものだと思っていたのに

Lは両目をカッと大きく見開いて、大きな口を開けていた。

呼吸が止まり、口から長く伸びた舌が、ダラリと力なく垂れ下がった。

 

Lちゃん!

 

 

院長はLに聴診器を当てて、苦しそうな声を絞り出すようにして

「心臓が、止まりました」

と言った。

そして

「蘇生を、させますか?」

と聞いた。

私は首を横に振った。

「もういいです。Lを早く連れて帰りたい」

 

心臓が止まり、臨終を告げられた後もLの身体は時々大きく動いて

私はそれが心底恐ろしかった。

Lの体内に残っている薬品の成分によって、亡くなった後も少し身体が動くのだと

院長が言った。

 

「L君を助けてあげられず、申し訳ありません」

院長は、私に深々と頭を下げた。

私はもう何もかもが信じられない。

院長の辛そうな言い方も、嘘臭く聞こえた。

マニュアル通り、通り一遍だと思った。それでも

「最期に立ち合わせていただき、ありがとうございました」

と言って頭を下げた。

 

それは、本心からの感謝の言葉であった。

もしもLの今際の際を見ていなかったら、私は取り乱し何をしでかしたか解らないから。