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知っていましたか?
胃液って酸性なんですよ。
……あ、間違えた。胃酸が酸性なんだっけ。
何が言いたいかと言うとですね……喉がとても痛いのです。
記憶が戻る直前、私は、高熱を出してぶっ倒れていたらしく、その間、まともな食事ができていなかったために、胃の中が空っぽな状態に近かったのもよろしくなかったんだと思います。
摂食障害――私が聞いたのは、過食症の方のお話なのですが、過食の方って、大量に食べた後、大量の水を飲んだ後に、嘔吐するんだそうです。余談ですが、そのため、拒食症の方だけでなく、過食症の方もやせ細ってしまうそう。
えー……それはさておき、水を飲んでおくのには、ちゃんと意味があるんですよ。胃酸を薄めるためなんです。
胃液には胃酸という強い酸性の消化液が含まれているため、それが喉を通過した時に、喉が焼ける――炎症を起こすようです。だから、胃酸を薄めるために、大量の水を飲んでおくべきなんですね。嘔吐が止まらないという状況に遭遇した時には、水を用意しておかないと痛い目をみます。ちょっと嘔吐するぐらいじゃそこまで被害はないんですけどね。短期間に繰り返し嘔吐すると、ほんと、つらたん。
……まあ、水を飲む余裕があればいいんですけどね。
無理でしょう? 嘔吐の合間、合間に水分補給とか。けっ。
で、喉が酷い炎症を起こすとどんな目をみるのか、お教えいたしましょう。
まず、固形物が飲み込めません。いくら噛み砕いても、喉を通過する時の痛みに堪えねばなりません。そして、水を飲む時。水が喉を通過する、その瞬間だけは……だ・け・は、楽になりますが、その直後、ヒリヒリっと痛みが舞い戻ってきます。そして、何より、空気を吸うのがつらいです。空気が喉に当たるたびにヒリヒリするんです。空気を吸うのがつらたんとか、生きるのを諦めろと言われているようで心が折れます。ええ。
……まあ、何をしていても、火傷特有のヒリヒリに堪えねばならないという苦行なわけです。多少やらかしたくらいなら、2、3日で収まったりしますが、胃痙攣に見舞われてしまった時なんか、ほんと、最悪。1週間程、喉の炎症に悩まされるハメになりました。
粉薬なんて、ほんと、飲めたもんじゃありません。
しかし、少し前まで高熱を出していたがために、むせながらでも飲まなければなりませんでした。半分以上を咳き込んでこぼしながらも、なんとか嚥下するという地獄の苦行です。せめて、液体のお薬にしていただきたかった……。
なんかねぇ、前世の記憶が戻ってきてからというもの、ストレスがとんでもないことになっているらしく、吐き気が標準装備、食欲なんてこれっぽっちも湧かないという状況が続いております。
しかしながら、わざわざ、お母様が出張ってきて(使用人はともかく、お母様には、さすがに、逆らえないのです)、無理やりに3食きっちり食べさせようとするため、必然的にかなりの頻度で嘔吐するハメになっており、いつまで経っても、喉が治りません。
実は、前世の記憶まで戻ってきてしまった日、迷いました。これからの私の身の振り方を。……まあ、今もしっかりと方向性が定まっていないのですが。
悩んで悩んで出した結論は、まだ、体調が優れないというフリをして部屋に閉じこもり、なるべく人と接しないようにすること。そして、使用人たちに対してはキツイ口調はそのままに、“私のことは放っておきなさい”とふさぎ込んでしまうという手段をとることにした。
時間稼ぎの方法でしかないけど、私には、考える時間がほしかったのだ。
物語の王道展開でいくなら、性格を改めて、今までの所業をみんなに詫び、まっとうな人間としての道を歩むという選択をするところでしょう。
しかし、よく考えて?
いきなり、がらっと人が変わってしまったら、どう?
そりゃ、以前の私は、タチの悪い人間に他ならなかったわけで、変われるなら変わってくれた方が、まわりの人間も楽になることは間違いないと思う。だから、実際、がらっと変わってしまったとしても、誰も文句は言わないだろう。
しかし、それでも、いきなり変わってしまえば、誰だって妙に思うだろうし、何か変な勘ぐりをされるかもしれない。私は、超小心者なので、妙なものを見る目で見られるなんて堪えられるかわからない。いや、堪えられないと断言しておこう。
そ、それに、もし、本当に、私が当て馬役だとしたら? で、ヒロインも転生者で、悪役令嬢を踏み台に幸せになろうとか考えていて、私を陥れようとしていて……そんな王道展開が待っていたら。そんなヒロインが、私がある日、突然、がらっと善人に変わってしまったことを人伝にでも知ってしまったら? ……私が前世の記憶を持っていることに気付くかもしれない。そしたら、さらなる策略を巡らせてくるかもしれない。……あ、考えただけで胃が。
人間、簡単に変われたら苦労しません。
かくいう私も、自分大嫌い人間ですが、変わりたくて仕方なかったものです。変われなかったけど。
でも、もし、変わるとしたら、何かきっかけというものが必要だし、変わるための努力と時間も必要なものです。
でも、これまでの性悪な自分なままというのは、いつか、私がまわりから向けられる視線のせいでストレス死しかねないので、どこかで変わっておきたいものです。
しかし、変わるきっかけというものが思いつかない……。
「お嬢様、医師の方がいらっしゃいました」
使用人がドアの外から声をかけ、私からの返事がこないことは、最近では当たり前になりつつあったため、少ししてからドアが開いた。
使用人の後ろからやってきたのは、好々爺然としたご老人である。
お医者様であるお爺さんは、私の目や喉の奥を見てから、頷いた。
「うむ。まだ、喉が腫れておるかな。風邪薬を処方して差し上げよう」
「あ……たぶん、私、風邪じゃなくて、胃が荒れてるんだと……」
「ほう。胃が。吐き気でもありますかな」
「はい」
「そうですか。しかし、お嬢様は酒もやらないでしょうし、胃が荒れる理由というと……食中毒もあり得んでしょうから、やはり、風邪ですかな。もしかしたら、熱がぶり返してしまうかもしれませんので、お気を付けください」
「…………」
……ダメだ。通じない。
もしかして、この世界では、ストレスによる病気の認知が進んでいないのかもしれない。……妙に時代を感じるな。そんなところ、作りこまなくていいのに。
ってことは、きっと、私の症状に効果なんてないであろう粉薬を無理して飲まなければならないのだろう。拷問だよ、ほんと……。
完全に諦めの境地な私に、お医者様をお見送りした後、お昼ご飯と一緒に、あの……私にとっては、魔の粉薬を持って来られた。
「……ちゃんと、食べたら飲むわ。飲むからわざわざ、お母様を呼ぶのはおやめなさい」
あえて、キツイ口調を心掛けているものの、最近、心がささくれ立っているため、あまり意識せずとも、キツイ口調が出る。あまり、よろしくない兆候だと思う。
……そして、ごっほごっほとむせながら――そして、こぼしながら飲む粉薬……。口元も胸元も汚いったらない。無駄に、体力を消費したよ。勘弁してください……。
すぐに、ぐるぐるとしだした胃に、お腹を押さえ、ベッドの上で堪える。寝転がると、そのまま嘔吐しそうだったからである。
使用人に、嘔吐しているところを見られてしまうなんて、以前の私であれば、プライドが許さないであろうことは想像にやすい。堪えろ、私。……例え、それが、使用人にはバレバレだったとしても。
「あら、殿下!?」
「おい、通せ。見舞いだ」
……使用人が部屋を出ていった直後、開いたままのドアから聞こえてきた会話に、一瞬、気が遠のいた。
確かに、会いたくはない人物だ。しかし、会うのであれば、万全の状態で会わなければならない人物に違いないのである。
今までの私は、彼に自分のいいところをこれでもかとアピールしまくり、間違ってもマイナス面や弱みなんて見せたりはしなかった。
……しかし、今の私といったら、どうだ。
以前のふっくらとした……ちょっと太り気味なんじゃないかなって体型なんて面影もない、痩せすぎとも言えるかもしれない体は、もう、この際、仕方がないとしても、汚れた口元に服、真っ青であろう吐き気を堪えている顔……これらは、マズいだろう。っていうか、いつ吐くかもわからない状態だし。たぶん、まともに喋ることすらできないし。
幸い、トイレは部屋の中にある。吐くだけ吐いてしまおうか。ドアの方に視線を向ける余裕はないので、耳だけを研ぎ澄ませてトイレへとゆっくり直行。
……今回も、水ないんだけど。水分補給できないんだけど……。
あああああああ、また、喉が焼けるよぉおお。
まあ、どっちにしろ、嘔吐の合間に水分補給する余裕も器用さも、あたしゃ、持ち合わせちゃいないけどな!
生理的な涙なのか、違うのか、もう、わからんですよ。
便器に顔を寄せて、思いっきり吐く。
うえ。薬の臭いが上がってきて眩暈がするんすけど。やっぱり、お薬、無駄だよぉ。もう、お薬、やめちゃおうよぉお……。
なんか、もう、自棄になっちゃって、さっさと、胃の中のものを全部ぶちまけちゃおうと、左の人差し指と中指を揃えて喉の奥に突き刺した。痛いよぉ……。喉、やっぱり、やられちゃってるってばぁぁぁ……。
はあはあと自分の乱れた息だけが耳につく。
軽くなったお腹を右手で抱えて、重い頭を垂れたまま、息を繰り返す。……下手をしたら、便器の中に頭いっちゃいそうで嫌だ。
この時間が、とてもツライ。
この場に漂う独特の臭いとか、火傷したての喉の痛みとか、脱力した体を無理やり気力で支えるのとか、貧血と栄養失調のせいで引き起こされた眩暈に堪えることとか。
私は、脆弱な自分が、情けなくて、何よりも嫌いなのだ。
また、死んでやろうか。
でもね、前世と違って、私という存在は、政治にも関わってくる。そんな、個人の勝手な我儘で捨てていい命なんかではないのだ。
ああ……生きるのが、つらたんです……。
「…………無様だな」
幼いアルトボイスが頭上から降ってきた。
どうやら、間に合わなかったみたいだ。
それでも、私は、表面上取り繕うということが得意なのである。
「……申し訳ありません。とんでもないところをお見せいたしましたわ。非礼を、お詫びいたします。すぐに、侍女にお茶でも淹れさせますので、あちらでお待ちになっていただけるかしら」
「……お前、しんどくないのか」
私は、一瞬、言葉につまった。なんて答えればいいのか迷ったからだ。
……きっと、前の私であったなら、こう答えるだろう。
「せっかく、殿下がわざわざ、足を運んでくださったんですもの」
健気に振る舞ってみせる。つい、癖でふらりと顔をあげて、へらりと笑ってみせたけど、彼――王太子殿下は、顔を顰めた。
……そういえば、今、私は、嘔吐したばかりな上に、粉薬を上手く飲めずにこぼしたままなんだっけ。失敗したなぁ……。
すぐに、俯いてはみたけど、殿下はその場から動かない。
私は、また、胃が重たくなるのを感じた。
私は、憐れまれるのが嫌いだ。
いや、憐れんでほしいと思っている、という勘違いをされるのが嫌いなのだ。悲劇のヒロイン気取りかよ、と思われるのが怖いのだ。
つくづく、私は、まわりの目が怖いのだ。
「……きったねぇなぁ」
「すみません。すぐに、着替えてまいります」
ここは、さっと立ち上がって、着替えに行くところなのだろうけど、眩暈がなかなかおさまってくれず、動けないのだ。今、立ち上がろうとなんてしようものなら、よろける……いや、最悪、転ぶかもしれない。顔から便器に突っ込むのだけは避けたいところだ。
……しかし、殿下も動かない。
気まずさのせいで体が回復しきるのを待てず、便器に手をついて、無理やりゆっくり立ち上がる。なんとか眩暈に堪えきって水を流した。……そう。なぜか、電球とかはないのに、トイレは水洗なのだ。いや、便利だからいいんだけど。
微笑みを貼り付けたまま、クローゼットを漁り、適当に夜着を選ぶと、使用人にお茶の用意をお願いし、殿下に椅子に座るように促してから、トイレで着替えた。
……いくら幼児とはいえ、殿下の前で着替えるのはアウトな気がしたのだ。
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