八王子市長選の分析と解読 - 市民は五十嵐仁のメッセージに共感せず
八王子市長選の結果を分析することは、とても重要なことだと思う。その民意の中身を探って説得的な仮説を立てることは、政治学者がやらなくてはいけない課題だ。五十嵐仁がこの選挙にどう臨み、どういうメッセージを発していたかは、ネット上に多くの情報資料が残っていて分かりやすい。特に12/18の本人のブログ記事の記述は参考になる。「今回の市長選挙の第1の意義は、安倍首相の暴走にストップをかけることです。ここ八王子で『安倍政治を許さない』という烽火を上げ、首相官邸に向け、全国に先駆けて進軍を開始する決意です」「安倍政治の暴走にストップをかけ、戦争法廃止を掲げて発展してきた共同の枠組みを広げ、八王子の持つ潜在力と可能性を汲み尽くしたいと思います」と言っている。反安倍・反安保を訴え、その民意を市長選で示そうというのが五十嵐仁の意図であり、そして五十嵐仁を候補に担いだ市民団体のウィニング・ストラテジーだった。選挙が終わって惨敗の結果が出た今は、あまりに国政にフォーカスしすぎだったという批判が上がっていて、市民の関心は日常の暮らしなのだから、もっと地道な足下の市政の課題を訴えるべきだったという声が上がっている。だが、それは結果論というものだ。
五十嵐仁と市民団体の想定では、市民は安保法制に反対の意思を強く持っていて、安倍政治の暴走を止める民意を示そうとしていると映ったのであり、八王子市民の民意をそのように定義していたのである。メッセージ(政見)はこの定義に従って発信されていて、これは市民の声の代弁なのだから、きっと多くの共感と賛同を呼び覚まし、投票行動に繋がるはずだと考えたのだ。この想定について、結果が出た現時点から、甘すぎたとか間違っていたとか言うのはたやすいが、彼らに内在すれば、決して的を外した対象認識と戦略設定ではなかったと言えよう。朝日、毎日、東京、テレ朝、TBS、AERA、週刊金曜日、日刊ゲンダイ。それらの報道と言説に日々接し、そこで語られる議論を鵜呑みにすれば、五十嵐仁と市民団体のような発想と戦略になるのは当然だ。八王子は人口58万人の大都市であり、中央線沿線に位置する東京郊外のベッドタウンで、比較的リベラルな気風を見込める町である。また、そのときの国政の争点を首長選に持ち込むことは、大都市の選挙ではめずらしくない。2014年の都知事選で細川護煕は脱原発を訴えたし、同年7月の滋賀県知事選では、集団的自衛権行使が争点として急浮上する展開となって思わぬ結果に転んだ。
昨年10月頃の空気感を前提にすれば、五十嵐仁の出馬と政見は間違いだったとは言えない。五十嵐仁の陣営は、どうしてこんなに差が開いたのか不思議だろう。市民は市長選では常に市の行政にのみ関心があるのだとか、国政選挙を市長選挙に持ち込んだ手法が誤りだったとか、そういった指摘や批判は正しくない。最初から勝てる見込みはなかったという断定も不当である。参院選が、安倍政治に対する国民のNoの審判を突きつける選挙になると計算したとき、昨年9月の強行採決と今年7月の参院選の中間地点の八王子市長選は、まさに絶好の里程標であり、橋頭堡として弾みをつけるべき戦略上の要衝の政治機会となる。問題は、勝てるかもしれなかった選挙が、どうしてこれほど、喜劇としか言いようがないほどお粗末な結果になったのかということだ。もう一度、昨年の夏を思い出そう。昨年5月から9月まで、この国は安保法案一色で、まさに政治の季節だった。誰もが、毎日毎日、安保法案をめぐる永田町の動向に注目し、テレビ報道を見守り、法案が阻止される結末を願って生活を送っていた。デモに出た者も、出なかった者も、心は同じで、国民の総意は廃案だった。放送法のコードの下にある民放が、あそこまで踏み込んで反政府の言論を通すことは稀だ。
世論調査では、圧倒的に法案反対が多数であり、廃案を求めるエネルギーが渦巻く中に国民の日常生活があった。もし、8月に、9月に、10月に、どこかの小さな町で市長選があり、二人の候補が立って争う図になったら、安保法案に賛成か反対かが真っ先に問われ、候補者は政治家として市民に答え、論戦しなくてはいけない事態になっただろう。とても大きな政治(政治戦)の激動があり、この国に生きる一人一人の人生の一部になるような、壮絶と言っていい国民的体験があった。政治に思いを詰めて凝視する刻一刻があり、政治の動きに感情を振幅させられる日々があった。その思いはどうなったのか。そこがまさに重要なのだ。60年安保のときの情景を思い出す必要がある。新安保が自然成立した6月19日、雨が降り、闘争に挫折した国民は打ち拉がれた。「アカシアの雨がやむとき」は、そのときの人々の心を歌ったものだと言われている。歌詞の「冷たくなった私」は、デモで犠牲となった樺美智子を連想させ、「青空さして鳩が飛ぶ」の鳩は、平和の象徴であり、憲法9条の暗喩を思わせる。ラジオで曲を聴きながら、人々はあの闘争の激動を思い出し、斃れた者に心の中で手を合わせ、挫折感と敗北感を噛みしめつつ、64年の東京五輪までの高度成長下の日々を前を向いて生きていたのだ。
それから、永六輔が作詞して坂本九が歌った「上を向いて歩こう」も、60年安保に挫折した青年の歌だ。「上を向いて歩う、涙がこぼれないように」。60年安保直後の日本社会がどうだったかは、流行した歌謡曲を手がかりに察することができる。私はこう思うのだ。私たちの2015年の夏は、一人一人の小さな市民にとっては、やはり激動の日々であり、何とか安保法案を阻止しようともがき、普段はそんな話をしない者たちの前で政治の話をし、政治に熱中し、憤って焦って呻き、政治に傷つけられ、政治の渦中に生きている自分を感じた日々だったはずだと。それは、熱とエネルギーにおいて、60年安保の日本人とは較べるべくもないほど、微かで僅かな質量の抵抗だったに違いないけれど、個々の人生に傷痕を残したはずだと。だから、悔しさや悲しさや惨めさがあったはずだと。だけども、2015年の秋や冬には、「アカシアの雨がやむとき」も「上を向いて歩こう」もなく、敗北感や挫折感は言葉にされることがなく、代弁されなかった。その代わりに、SMAPのような国民的アイドルが登場し、華やかに脚光を浴びて称賛され、私たちはテレビで眺めていた。SEALDsが日本の民主主義を再出発させたとか、SEALDsがデモの民主主義を確立したとか、キラキラした「SEALDsの民主主義」の言説が溢れ、私たちの夏の経験が総括された。
あの夏の安保法の政治過程は、同時にSEALDsの政治過程でもあった。SEALDsが出現して活躍し、SEALDsが日本人にデモを教え、SEALDsが日本の民主主義を変えて高めたと、そう論評され意味づけられた経験となった。碩学の政治学者たちが口を揃えてそう論じ、権威である大御所の内田樹までがそう断言するものだから、誰もその総括を否定することなどできない。あの夏の政治経験は、私たち小さな国民一人一人にとっては、SEALDsに民主主義を教えてもらった日々ということになった。そういう意味にされた。私たちの抵抗は、SEALDsというシンボルに回収された。私たちがあの夏に政治によって受けた傷痕は、SEALDsの栄光の一部として吸収され、SEALDsの成功を支える土台の石ころとなった。私たちの鬱屈と絶望の思いは、SEALDsのキラキラした言説に逆転されて「代弁」された。だから、私はこう分析するのだ。11月の大阪の有権者と1月の八王子の有権者は、その総括を受け入れず、その物語を拒否したのだと。あの夏の政治は、私たちが安倍晋三に傷つけられ、蹂躙され、抵抗しようとしながら潰されて敗北した政治経験である。同時に、SEALDsがテレビでデビューし、マスコミの寵児となり、国民的英雄になった政治過程である。その過程はオーバーラップしているけれど、後者を前者と結びつける意味づけは、私たちには不審で面妖なのだ。
何故というに、その二つを結びつけ、政治学者や内田樹の総括を自分の総括とすることは、二重に自分を傷つけることになるからである。彼らの言葉(SEALDs讃歌)は欺瞞であり、単なる左翼リベラル業界のビジネス商品であり、安保法に抵抗した国民の心を掬い取っておらず、代弁になってないのだ。私や辺見庸が、SEALDs学者には言葉がないと批判するのは、そういう意味である。SEALDsに出てきてくれと、私たちは頼んだ覚えはない。国会前で「なんだあ祭り」を踊ってくれと要望した覚えはない。八王子市の45万人の有権者のうち、7割の30万人は安保法に反対の人々だろう。反安倍の立場も15万人はいるだろう。だが、その人々は五十嵐仁に投票せず、この選挙を反安倍・反安保の意思を表明する機会にしなかった。私は、八王子市長選について、有権者がSEALDsとしばき隊の政治にソッポを向いた結果だと述べたが、その心理の中身は、以上の構造を持っていると考える。八王子市民はSEALDs信者にならなかった。辺見庸的に言えば、有権者から見て、五十嵐仁もまた「言葉がない」一人で、左翼リベラルの業界臭が漂う一人なのだ。もの言わぬ多くの人々は、二重に傷つけられているのである。本当なら、「アカシアの雨がやむとき」や「上を向いて歩こう」の言葉が、総括として論壇に出なくてはならず、マスコミやアカデミーが人々を代弁しなくてはいけなかった。
有権者はバカではない。見ないようで見ている。左翼リベラルの論者やしばき隊学者が言うほど、八王子市民は安保法を容認しているわけでもないし、意識が低いわけでもなく、この選挙に無関心だったわけでもない。市民は、五十嵐仁が誰であるかも知っているし、そのメッセージも聞いている。菱山南帆子のことも知っている。市民は、五十嵐仁のメッセージに共感しなかったのだ。SEALDsに共感しなかったように。逆に、国会前でのSEALDsのデモや、それを演出し宣伝しているマスコミと左翼リベラルにあざとさを嗅ぎつけ、何だ、自分たちは利用されていただけかと感じ、その真相に傷ついて不服に感じていたから、選挙の機会に拒絶(=棄権)という行動に出たのである。
五十嵐仁と市民団体の想定では、市民は安保法制に反対の意思を強く持っていて、安倍政治の暴走を止める民意を示そうとしていると映ったのであり、八王子市民の民意をそのように定義していたのである。メッセージ(政見)はこの定義に従って発信されていて、これは市民の声の代弁なのだから、きっと多くの共感と賛同を呼び覚まし、投票行動に繋がるはずだと考えたのだ。この想定について、結果が出た現時点から、甘すぎたとか間違っていたとか言うのはたやすいが、彼らに内在すれば、決して的を外した対象認識と戦略設定ではなかったと言えよう。朝日、毎日、東京、テレ朝、TBS、AERA、週刊金曜日、日刊ゲンダイ。それらの報道と言説に日々接し、そこで語られる議論を鵜呑みにすれば、五十嵐仁と市民団体のような発想と戦略になるのは当然だ。八王子は人口58万人の大都市であり、中央線沿線に位置する東京郊外のベッドタウンで、比較的リベラルな気風を見込める町である。また、そのときの国政の争点を首長選に持ち込むことは、大都市の選挙ではめずらしくない。2014年の都知事選で細川護煕は脱原発を訴えたし、同年7月の滋賀県知事選では、集団的自衛権行使が争点として急浮上する展開となって思わぬ結果に転んだ。
昨年10月頃の空気感を前提にすれば、五十嵐仁の出馬と政見は間違いだったとは言えない。五十嵐仁の陣営は、どうしてこんなに差が開いたのか不思議だろう。市民は市長選では常に市の行政にのみ関心があるのだとか、国政選挙を市長選挙に持ち込んだ手法が誤りだったとか、そういった指摘や批判は正しくない。最初から勝てる見込みはなかったという断定も不当である。参院選が、安倍政治に対する国民のNoの審判を突きつける選挙になると計算したとき、昨年9月の強行採決と今年7月の参院選の中間地点の八王子市長選は、まさに絶好の里程標であり、橋頭堡として弾みをつけるべき戦略上の要衝の政治機会となる。問題は、勝てるかもしれなかった選挙が、どうしてこれほど、喜劇としか言いようがないほどお粗末な結果になったのかということだ。もう一度、昨年の夏を思い出そう。昨年5月から9月まで、この国は安保法案一色で、まさに政治の季節だった。誰もが、毎日毎日、安保法案をめぐる永田町の動向に注目し、テレビ報道を見守り、法案が阻止される結末を願って生活を送っていた。デモに出た者も、出なかった者も、心は同じで、国民の総意は廃案だった。放送法のコードの下にある民放が、あそこまで踏み込んで反政府の言論を通すことは稀だ。
世論調査では、圧倒的に法案反対が多数であり、廃案を求めるエネルギーが渦巻く中に国民の日常生活があった。もし、8月に、9月に、10月に、どこかの小さな町で市長選があり、二人の候補が立って争う図になったら、安保法案に賛成か反対かが真っ先に問われ、候補者は政治家として市民に答え、論戦しなくてはいけない事態になっただろう。とても大きな政治(政治戦)の激動があり、この国に生きる一人一人の人生の一部になるような、壮絶と言っていい国民的体験があった。政治に思いを詰めて凝視する刻一刻があり、政治の動きに感情を振幅させられる日々があった。その思いはどうなったのか。そこがまさに重要なのだ。60年安保のときの情景を思い出す必要がある。新安保が自然成立した6月19日、雨が降り、闘争に挫折した国民は打ち拉がれた。「アカシアの雨がやむとき」は、そのときの人々の心を歌ったものだと言われている。歌詞の「冷たくなった私」は、デモで犠牲となった樺美智子を連想させ、「青空さして鳩が飛ぶ」の鳩は、平和の象徴であり、憲法9条の暗喩を思わせる。ラジオで曲を聴きながら、人々はあの闘争の激動を思い出し、斃れた者に心の中で手を合わせ、挫折感と敗北感を噛みしめつつ、64年の東京五輪までの高度成長下の日々を前を向いて生きていたのだ。
それから、永六輔が作詞して坂本九が歌った「上を向いて歩こう」も、60年安保に挫折した青年の歌だ。「上を向いて歩う、涙がこぼれないように」。60年安保直後の日本社会がどうだったかは、流行した歌謡曲を手がかりに察することができる。私はこう思うのだ。私たちの2015年の夏は、一人一人の小さな市民にとっては、やはり激動の日々であり、何とか安保法案を阻止しようともがき、普段はそんな話をしない者たちの前で政治の話をし、政治に熱中し、憤って焦って呻き、政治に傷つけられ、政治の渦中に生きている自分を感じた日々だったはずだと。それは、熱とエネルギーにおいて、60年安保の日本人とは較べるべくもないほど、微かで僅かな質量の抵抗だったに違いないけれど、個々の人生に傷痕を残したはずだと。だから、悔しさや悲しさや惨めさがあったはずだと。だけども、2015年の秋や冬には、「アカシアの雨がやむとき」も「上を向いて歩こう」もなく、敗北感や挫折感は言葉にされることがなく、代弁されなかった。その代わりに、SMAPのような国民的アイドルが登場し、華やかに脚光を浴びて称賛され、私たちはテレビで眺めていた。SEALDsが日本の民主主義を再出発させたとか、SEALDsがデモの民主主義を確立したとか、キラキラした「SEALDsの民主主義」の言説が溢れ、私たちの夏の経験が総括された。
あの夏の安保法の政治過程は、同時にSEALDsの政治過程でもあった。SEALDsが出現して活躍し、SEALDsが日本人にデモを教え、SEALDsが日本の民主主義を変えて高めたと、そう論評され意味づけられた経験となった。碩学の政治学者たちが口を揃えてそう論じ、権威である大御所の内田樹までがそう断言するものだから、誰もその総括を否定することなどできない。あの夏の政治経験は、私たち小さな国民一人一人にとっては、SEALDsに民主主義を教えてもらった日々ということになった。そういう意味にされた。私たちの抵抗は、SEALDsというシンボルに回収された。私たちがあの夏に政治によって受けた傷痕は、SEALDsの栄光の一部として吸収され、SEALDsの成功を支える土台の石ころとなった。私たちの鬱屈と絶望の思いは、SEALDsのキラキラした言説に逆転されて「代弁」された。だから、私はこう分析するのだ。11月の大阪の有権者と1月の八王子の有権者は、その総括を受け入れず、その物語を拒否したのだと。あの夏の政治は、私たちが安倍晋三に傷つけられ、蹂躙され、抵抗しようとしながら潰されて敗北した政治経験である。同時に、SEALDsがテレビでデビューし、マスコミの寵児となり、国民的英雄になった政治過程である。その過程はオーバーラップしているけれど、後者を前者と結びつける意味づけは、私たちには不審で面妖なのだ。
何故というに、その二つを結びつけ、政治学者や内田樹の総括を自分の総括とすることは、二重に自分を傷つけることになるからである。彼らの言葉(SEALDs讃歌)は欺瞞であり、単なる左翼リベラル業界のビジネス商品であり、安保法に抵抗した国民の心を掬い取っておらず、代弁になってないのだ。私や辺見庸が、SEALDs学者には言葉がないと批判するのは、そういう意味である。SEALDsに出てきてくれと、私たちは頼んだ覚えはない。国会前で「なんだあ祭り」を踊ってくれと要望した覚えはない。八王子市の45万人の有権者のうち、7割の30万人は安保法に反対の人々だろう。反安倍の立場も15万人はいるだろう。だが、その人々は五十嵐仁に投票せず、この選挙を反安倍・反安保の意思を表明する機会にしなかった。私は、八王子市長選について、有権者がSEALDsとしばき隊の政治にソッポを向いた結果だと述べたが、その心理の中身は、以上の構造を持っていると考える。八王子市民はSEALDs信者にならなかった。辺見庸的に言えば、有権者から見て、五十嵐仁もまた「言葉がない」一人で、左翼リベラルの業界臭が漂う一人なのだ。もの言わぬ多くの人々は、二重に傷つけられているのである。本当なら、「アカシアの雨がやむとき」や「上を向いて歩こう」の言葉が、総括として論壇に出なくてはならず、マスコミやアカデミーが人々を代弁しなくてはいけなかった。
有権者はバカではない。見ないようで見ている。左翼リベラルの論者やしばき隊学者が言うほど、八王子市民は安保法を容認しているわけでもないし、意識が低いわけでもなく、この選挙に無関心だったわけでもない。市民は、五十嵐仁が誰であるかも知っているし、そのメッセージも聞いている。菱山南帆子のことも知っている。市民は、五十嵐仁のメッセージに共感しなかったのだ。SEALDsに共感しなかったように。逆に、国会前でのSEALDsのデモや、それを演出し宣伝しているマスコミと左翼リベラルにあざとさを嗅ぎつけ、何だ、自分たちは利用されていただけかと感じ、その真相に傷ついて不服に感じていたから、選挙の機会に拒絶(=棄権)という行動に出たのである。
by yoniumuhibi | 2016-01-27 23:30 | Trackback | Comments(3)
Commented by 芝ちゃん at 2016-01-27 22:53 x
極めて、低次元の問題で申し訳ありません。
今日の国会で、安倍首相は『甘利大臣を続投させる』との答弁を行ったと、報じられています。
その意図を応援するかのように、政府与党は勿論のこと、一部有力紙からも「甘利大臣は、嵌められたのだから」と同情論が噴出しています。
政権幹部ほか、有力ジャーナリズムが「嵌められたのだから、免責されるべき」の声が高まれば、権力に弱い東京地検も、万が一の『指揮権発動』を恐れ、捜査に乗り出さないことを憂慮しています。
もし「嵌められた犯罪」なら、全ての犯罪が免責されるなら、私たちは何を信じて生きて行けば良いのでしょうか。
安倍政権を支援する一部マスメディアも信用できません。せめて御ブログ『世に受け日日』で、厳しい『マスコミ糾弾』をお願い申し上げる次第です。
今日の国会で、安倍首相は『甘利大臣を続投させる』との答弁を行ったと、報じられています。
その意図を応援するかのように、政府与党は勿論のこと、一部有力紙からも「甘利大臣は、嵌められたのだから」と同情論が噴出しています。
政権幹部ほか、有力ジャーナリズムが「嵌められたのだから、免責されるべき」の声が高まれば、権力に弱い東京地検も、万が一の『指揮権発動』を恐れ、捜査に乗り出さないことを憂慮しています。
もし「嵌められた犯罪」なら、全ての犯罪が免責されるなら、私たちは何を信じて生きて行けば良いのでしょうか。
安倍政権を支援する一部マスメディアも信用できません。せめて御ブログ『世に受け日日』で、厳しい『マスコミ糾弾』をお願い申し上げる次第です。
Commented by こじま at 2016-01-27 22:54 x
「市民は安保よりも生活だ」という「反省」は誰でも思いつくものですが、その一歩先をいく分析で、はっとさせられました。非常に妥当だと思います。山形市長選では、似たような構図で接戦だったわけですから。当時はシールズ運動の問題性が明らかになりつつあったとはいえ、地方で安保を問う必然性はありました。今回もあれからまだ4ヶ月なのですから、争点設定は決して間違ってはいなかったと思います。では、なぜ今回はこれほど惨敗したのか(現職2期目の優位性などを考慮しても、惨敗といってよい。何よりいま目指している「野党共闘」では、しばしば強力な現職を相手に戦うのですから、言い訳にはなりません)。そこが、問われなくてはいけないでしょう。
Commented at 2016-01-27 23:35 x
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