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見込みない人々さんの質問に答える前に、なぜ、観心本尊抄の講義のなかで兄弟抄の御文に触れたのかを説明します。
大聖人は、天台の説いた一念三千を「観心本尊抄」で強調して表現しています。
こうしたなかで、
天台と大聖人の「一念三千の相違(理・事)」
天台と大聖人の「法華経へのアプローチの仕方の相違(瞑想・身読)」
それを説明するにあたり、端的な例が「三障四魔」のとらえ方に現れているからです。
三障四魔に触れた御文はいろいろありますが、そのなかでもこの「兄弟抄」には
注目すべき記述があるので、あえてこの御文を引用して「五義と十如是」のテーマのもとに考察したものです。
むずかしく言おうと思えば、いくらでも言えますが、それでは読んでいる人に理解してもらえない。
だからといって、ところどころ端折って簡潔に言いすぎても誤解が残る。
しかし、理解してもらえなければ意味がない。
こうしたことを考慮して「どう表現すれば伝わるか」を常に念頭におき文を書いています。
グリグリは文書きのプロではありませんから、その辺が実に悩ましいところです。汗
もちろん、天台と大聖人の相違を説明するのに「五義と十如是」というテーマを通して
「五義の提示は御書」のココで
「五義の依文は法華経」のココで
かつそれが「法華経の行者の視点」であるとなれば、
「法華経のものの見方について」はこうで、視点ともいうべき
「十如是が五義と密接な関係にあることについて」はこうで
「十如是と五義の関係について」はこうである。
さらに
「本末究竟等と教法流布の先後に対応することについて」がこうで
「五義と教判について」はこうなのよん♪・・・等々、
ひとつひとつやれば納得いくと思いますが、これでは読む人がイヤになるし、
主旨(観心本尊抄について)と違うものになりかねない。
しかも、天台と大聖人の相違を上記記した方法で読み解いていくことは、
天台煩瑣哲学(はんさてつがく※こまごまとしてわずらわしいこと)との批判は免れないことは承知しています。
しかし、従来の固定されたドグマを打ち破るためには、最低限度こうした考察も価値のあることと思います。
したがいまして、
読む人がどの程度の教学力の持ち主なのかは想像できませんが、
読む人が「思索する材料」として提示できるように心がけて書いています。
本当は、ナマの声で言えば簡単に説明できるのですが、文章となると表現がむずかしい・・・。汗
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