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見込みない人々さんへ2/2

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)14時15分7秒
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  さて、見込みない人々さんの質問です。まず本文を通解で記します。

本文(通解)-------------
この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったことである。
それゆえ、章安大師は止観を釈して「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門はいまだに聞いたことがない」
また「インドの大論もなおその比較の対象にならない」等といっている。
そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。
だからこの一念三千の法門を説くならば、必ず魔が顕れるのである。魔が競い起こらないならば、正法とはいえない。
--------------------

(見込みない人々さんの解釈と認識)

章安大師の釈等を引用し、摩訶止観第五で天台が説いた一念三千の法門は、天竺の論師も説かなかった
「一重立ち入った」法門である、との大聖人の認識を示されている部分である――。


(グリグリの解釈と認識)

「そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である」

まず、この一文は、たいへん意味深長な言葉だと思います。

本文を素直に読むと

「摩訶止観第五で天台が説いた一念三千の法門は、天竺の論師も説かなかった『一重立ち入った』法門である」とは書いていません。

その意味するところは、すでに前段で「天台の法門は漢土に始まるばかりでなくインドの論師さえ明かさなかったことである」と結論しています。

この結論をあえてもう一度、重複して語るとは考えにくい。これは前段を重複したのではなく、むしろ後段の

「この一念三千の法門を説くならば、必ず魔が顕れるのである」ということを、大聖人の立場で説明(立証)するために、

「そのうえ(で)、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である」と読み替えて言ったのではないかと考えます。

(どこからどこへ立ち入ったのか)

というのは、
摩訶止観で解かれる「三障四魔」は、その論理を追うと、それはあくまでも内観修行の中で現れる無意識層の嵐を指しています。
決して外部から修行を邪魔しに来るものを指しているのではありません。

これに対して、大聖人のとらえる三障四魔は「法」を弘めることによって、外部から受ける
反対や抑圧、弾圧のことであり、三類の強敵として現れる存在を指しています。

そうすると、

「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」の

「此の釈」を天台流に解釈してはおかしなことになります。

やっぱりここは「一重立ち入った」大聖人の立場から読まないと意味が通じません。

事実「兄弟抄」の次下には、大聖人の立場から三障四魔は、妻子の反対や父母の制止というような外在的なものに読み替えています。

その御文が

「此の釈に三障と申すは煩悩障業障報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし。
業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし。

又、四魔の中に天子魔と申すも是くの如し。今日本国に我も止観を得たり、
我も止観を得たりと云う人人、誰か三障四魔競へる人あるや」(一〇八八頁)にあたります。

(天台の瞑想修行の領域から、大聖人の忍難弘通《身読》の領域へ立ち入った一念三千の法門)

これが忍難の渦中にいた池上兄弟に対する指導激励だと思う。

大聖人は池上兄弟に、なぜ難に遭うのかを教えるために、

「それは天台の一念三千から、大聖人の一念三千に一重立ち入った法門を実践しているからだ」

だから「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と言ったのではないかと考えます。

以上です。
 
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