|
そうすると、グリグリ様の「大誓堂」の御本尊の位置づけはどうなるのでしょう。また、弘安の二年の本尊のは位置づけは。教学部も、そのあたりの結論を将来的に整理していかなければならない問題、と留保していますが。
こと御本尊のことですから、このあたりのことは「学術的には」と断らなければなりませんが、師・日蓮の真筆御本尊とされるものでも、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」の「日蓮」の文字並びに花押が、戒壇本尊のように「南無妙法蓮華経」のすぐ下にあるのは稀です。右ないし左に位置しているものが多いようです。
御書を拝していると、「南無妙法蓮華経の五字」という箇所が観心の本尊抄、下山御消息など五大部・十大部に入るものにも頻繁にみられます。ざっとしらべえ見ますと、少なくとも14編にありました。
「大聖人様、愚鈍の凡夫ですが、数は数えられます」(笑い)との思いでした。
この疑問にひとつの方向性を開いて頂いたのが池田先生の「一生成仏抄講義」でした。2006年1~6月の大百蓮華掲載、2007年の発行ですからご本人講義と見ていいですよね。その中に、
「妙法蓮華経とは究極の妙理の名です。そして南無妙法蓮華経とは、この妙理を顕現した仏の生命の名です。ゆえに、南無妙法蓮華経と唱える信心の一念に妙法蓮華経の無限の功徳が開花するのです。これが仏界の生命の湧現です」(講義P47)。
つまり、「南無妙法蓮華経の五字」とは「法」(=究極の妙理)の側面で、「南無妙法蓮華経」の「七字」は「仏の生命の名」ということになり、「南無妙法蓮華経」の中に「人法」が含まれるということになります。早合点でしょうか。
グリグリ様の【相対論の応用展開】29/30の講義に従えば、
>そう信じて御本尊を拝する信仰者の信心姿勢があっての観心の本尊であり、本門の本尊です。
このことを教えてくださったのが創価の三代会長、なかんずく池田先生なのです。<
この箇所が大事なのではないでしょうか。
つまり、生死一大事血脈抄の生死一大事血脈と同じことです。「御本尊を拝する信仰者の信心姿勢」こそが決定的要素であり、そう拝する信仰者側の「信心の姿勢」にこそ「信心」があるということです。「人間の側」です。
だからと言って、どんな御本尊でもいいとは思いません。「信」が立つかどうかが決定的です。
|
|