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これらを踏まえて、今回(二〇一五年版)の「教義会則変更」の内容を見ていきたいと思います。
まず、今回の新教義には
「・・・根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え」とあります。
この変更文の説明として
「宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、
末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇として具体的に顕された」と解説しました。
この解説によれば、南無妙法蓮華経は具現化(発迹顕本)する以前の“宇宙と生命の法”であるということですが、
これだけなら本迹相対はおろか種脱相対にすらなっていない。
これは単なる「理」にすぎません。理の一念三千をいくら“信仰の対象”にしても理の一念三千にかわりはない。
日寛は六巻抄で
「既に十界の形像を図顕す、まさに是れ事の一念三千なるべきや、答うこれを図顕すといえどもなお是れ理なり、
何となれば三千の体性・一心の体性を図顕するゆえなり。まさに知るべし、体性はすなわち是れ理なり、
ゆえに知りぬ理を事に顕すことを、このゆえに法体なお是れ理なり。ゆえに理の一念三千と名づくるなり。
・・・若し当流の意は事を事に顕す、このゆえに法体本これ事なり、ゆえに事の一念三千の本尊と名づくるなり」(文底秘沈抄)
と述べています。
大聖人の仏法は“事”を「事に顕す」のですから、法体そのものが「事」であることを忘れて日蓮仏法はないのです。
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