水野真紀の魔法のレストランR【濃い味濃い街人情の味】 2016.01.25


ジューーーー!
(八方)ああ〜これはうまいわ。
いただきます。
(八方)実に
(八方)大阪には濃い味と同じ数だけ濃い〜人情がございます。
今夜は涙なくしては語れない濃い〜お話をご覧いただきましょう。

(ナレーション)新大阪駅の北側。
1980年創業の「登美子」の名物は濃い味のお好み焼き。
そして濃い〜キャラのおかん!「結構です!」言うて。
登美子さんはいつもパワフル。
鉄板の前に36年間立ち続けてきました。
今では長男・耕次さんが苦労をかけたおかんを支えています。
大阪のど真ん中でお店をやってて…。
その中の1枚の写真。
登美子さんや耕次さん横浜ベイスターズの選手の他にも子どもたちの姿が。
(八方)見てるとなんか家族というのか前が孫かいな。
(登美子)孫。
(八方)ということは息子はんの子。
(登美子)ちゃうちゃう。
孫の祭ちゃんは時々店に遊びに来て皿洗いなどを手伝っています。
登美子さんも濃いですがこの豚玉もイリコのだしでうま味が濃い!
(八方)まあお好み焼きというと昔は家庭の味というかね。
うんどっちかというたらそういう…おかずに困ったらお好み焼きみたいな。
そういうローテンションで僕らの家にも母親がよく作ったんやけども。
(八方)大阪のお母さんは
(八方)大概。
まあオーバーに言えば。
ねっ。
いや〜見事なもんでございますけど。
登美子さんは豚玉を焼き続けながら2人の息子を育て上げました。
(登美子)だしが違う。
(八方)だしが違う。
だって家でねする場合子どもに食べさす場合あるでしょ。
うちインスタントは一切使わないねん。
家でも。
そやけどやっぱり自分の子ども大事や思たらやっぱりだし出して体のため思て作るやろ。
それを同じようにしてるだけ。
(八方)そうや。
ほんで子どもが大きなったし現に。
これ見たらわかるように元気でおれますよとうちのお好み焼きはと。
それがいちばん正しいな。
この濃い〜うま味のお好み焼きに秘められた濃い〜親子の物語をお届けします。
登美子が離婚をしたのは33歳のとき。
借金を抱えることになった。
それまで働いた経験のなかった登美子は2人の子どもを育てるために必死で職を探し飲食店で働くことに。
子育てと仕事に追われる日々。
しかし登美子は不安だった。
子どもたちのためには年を取っても長く続けられる仕事が必要だ。
何か手に職を付けなければ。
自分には何ができるのか…。
その答えを出してくれたのは他でもない長男だった。
当時病気がちで食の細かった長男。
なんとか栄養のあるものを食べさせてやりたい。
登美子が考えたのはイリコでだしをとり生地は山芋を入れて数日かけて仕上げ細かく刻んだキャベツや具をたっぷり入れた栄養満点のお好み焼きだったのだ。
お母ちゃんこれおいしい。
そう。
あっこれ商売にしたらどないやろ。
お好み焼き屋や。
なっ。
うんお母ちゃん頑張れ!タイミングよく新大阪の物件を借りることができる話が持ち上がる。
保証金は500万円。
そんなお金は用意することができなかった。
お好み焼き店はこのまま夢に終わるのか…。
途方に暮れていたとき新大阪お好み焼き「登美子」激動の人生。
離婚し借金を抱えた登美子はお好み焼き店を開く保証金500万円がなかった。
途方に暮れていたとき知人の紹介である男性と知り合った。
誠実な人柄に登美子はひかれ2人はすぐに恋に落ちた。
私いう人間をね信用してやったわ。
なんにもないねんで私。
担保もなんにもないねんで。
それを1,000万貸してくれたんやで。
担保・利子なしで借りた1,000万円。
1980年新大阪駅の北側にお好み焼き「登美子」開店。
登美子の第2の人生が始まった。
(登美子)ただ借金してるやん。
それがもう返すまで胸に残ってた。
グッと。
当然店はすぐに繁盛するわけもなく登美子は昼間はミシンを踏んで内職をし夜は母に子どもたちを預けて店に立った。
(登美子)そのとき必死やったから。
子どもはいうたら命やん私の。
そやからどないしても子ども大きせなあかん思てたから。
母を助けたい。
長男は小学校に上がるころには台所に立ち簡単な料理を自分で作るようになった。
また開店資金を貸してくれた当時つきあっていた彼が毎日のように店に来て支え続けた。
今にお客さんでいっぱいになるから頑張るんやで。
実は登美子は若いころ調理師学校に通い調理師免許も持っていた。
調理の基本をしっかり学んでいたのでお好み焼き以外の鉄板メニューも考えることができた。
ホルモンはトッポギと玉ネギと共にアルミホイルで作った鍋で煮込もう。
でもアルミホイルの鍋は鉄板の上では安定が悪い。
4つの小鉢で支えてみたけれどうまくいかない。
他にいいものはないだろうか。
そんな登美子の目に留まったものはレンガだった。
1つのレンガを鉄板に並べると大きすぎる。
これをアルミホイルの鍋に合った程よいサイズにする方法を考えていたところ…。
そんなもんうち石材屋やしすぐ切れるで。
登美ちゃんのためやったらやるで!こうして客にも支えられ「登美子」名物ホルモン鍋が完成。
レンガでアルミホイルを囲むことで安定もよく熱々のまま出せるようになった。
またホルモンを食べ終わったあとのだしにはそばたっぷりの天かすネギを入れる。
他にないこのホルモン鍋は瞬く間に口コミで評判となる。
いつしかサラリーマンで店は連日大繁盛するようになった。
そんなある日今でも語り草となっているある事件が起こったのだ。
何にします。
ああ〜ビールや!ビールに決まっとるやろ!!はいよ。
柄の悪い客が店に入ってきていきなりもしもしわしやこら!お前いつ金持ってくるんじゃい!なんやとこら〜!お前わかってるんやろな持ってけぇへんかったら。
他の客は次々と席を立ち帰っていった。
お前何しとんねん!!ビールや!ビールに決まっとるやろ!!柄の悪い客が店に来ていきなり店の電話で取り立てを始めた。
お前いつ金持ってくるんじゃい!あのときはなもう必死やったわ。
店守らなあかん思たから。
・間違いなく持ってこいよこら!お前何しとんねん!!なんやとこら!なんやねん!お前みたいなやつはなさっさと金払て帰れやボケ!!必死のぱっち。
借金返さなあかんわ子ども大きせなあかんわ。
女手一つ。
店を切り盛りするのはそうたやすいことではない。
あの出来事以来店を守るために鉄板の横に置いているものがある。
2人の子どものために始めた店。
いろんな苦労があった。
必死で働き1,000万円の借金は10年足らずで完済した。
愛してるからな。
その1,000万円を貸してくれ登美子を支え励まし続けてくれた彼は開店して15年後病気でこの世を去った。
(登美子)ありがたい思てる。
ほんまに。
ほんまその人のおかげやわ。
今こないしておれんの。
その彼が亡くなった直後から長男・耕次さんがカウンターに立つようになった。
幼いころから食べていた母のお好み焼きの味を守りたい。
(耕次)感謝してますよすごく。
また次生まれ変わっても母親の子どもに生まれ変わってこれたらなとは思いますよ。
母から息子へ。
鉄板は常に熱い。
(登美子)ほんでうちの子優しいねん2人とも。
まあ息子産んで苦労したけど今はねよかった思う。
そやから今死んでも別に悔いない。
うん。
強さは優しさ。
登美子さんは息子と今日も鉄板の前に立つ。
(八方)鶴橋でひときわにぎわう
(八方)まさに焼き肉の聖地のような場所でございますな。
そんな焼き肉ストリートに立つあちらのビル。
あのビルの壁には以前1人の女性の絵が描かれておりましたん知ってました〜?彼女はここ鶴橋において焼き肉の常識を覆した人物。
通称吉田のおかん。
以前あった壁画はおかんのために従業員たちがプレゼントしたものだといいます。
しかし彼女は誰にも言わずになんとその不思議な行動に隠されたおかんの決心とは!?大阪・鶴橋焼き肉の名店焼き肉にささげた壮絶な人生とは。
黒毛和牛のタンの中でも希少とされる最高級の黒タン。
30年前から手に入るかぎり仕入れ続けている。
肉は主に九州産のA4A5ランクの黒毛和牛。
決して安いとは言えない価格設定だが週末には4階建て200席が満席となる不況知らずの人気店だ。
そんだけ必死できてるからこれしかないやんもう。
何できんの今。
そやろ?だからこれで全うしていかなあかんやろ?
(智恵・ナレーション)
私のお母ちゃんは「焼肉吉田」のおかんです
参観日も誕生日もいっつもお母ちゃんはいませんでした
私は私からお母ちゃんを奪うこの店がずっと嫌いでした
お母ちゃんは21歳のとき鶴橋に嫁いできた普通の主婦でした
おじいちゃんがやってるホルモンの卸の店を手伝い始めホルモンのおいしさを知り夢を持つようになったのです
貧乏やけど店を持ちたい
お母ちゃんはお父ちゃんに相談しました
わかった。
お前はお金のことは心配せんでもええ。
ほんま?ああ。
こういうときうちのお父ちゃんは頼りになります
そやねんけどふだんは…
こら〜っ!お前はこんなもんをお客さんに出すつもりか!!
(智恵)お父ちゃんやめて!
(周市)うるさい!甘いんじゃお前は!
とにかく激しいお父ちゃん
お店で出すタレの味ひとつでも妥協を許しませんでした
私は知りませんでしたがお父ちゃんは拝み倒して銀行に1,000万もの借金をしていたそうです
(順子)家と子どもと店と両立できるか悩んだし失敗許されへんし。
こうして1985年私が小学校6年生のとき「焼肉吉田」がオープンしました
お母ちゃん頑張って。
頑張る。
順子は鶴橋にはない女性をターゲットにした焼き肉店にするために無煙ロースターを導入した。
(順子)煙が出ないから内装が真っ白にできんねん。
白い焼き肉屋ってないもん。
ほな掃除も楽やきっと。
当時鶴橋の焼き肉は2種類以上の肉を頼むとひと皿にもみくちゃにして出されていた。
そのイメージを変えようと盛りつけにも気を配った。
しかし…。
煙が出ない焼き肉なんて食べた気せぇへんよな。
・なんかおいしくなさそうやなぁ。
(順子)アホかボケか言われたわ。
こんなん焼き肉で風情がないいうて。
客が来なくても順子が何より時間を割いたものそれが…。
(順子)ホルモンはごまかしできへんて。
食べてほしいと思ってひと手間ふた手間かけんねん。
当たり前やん。
ホルモン独特のにおいやヌメリを取るために順子は小麦粉を使う。
手の熱が移らないよう素早く丁寧にこすりつけ水洗いをする。
更に余分な脂を丁寧に包丁でそぐとホルモンは輝きを増す。
順子が祖父から受け継いだ独自の技術だ。
そして硬さが敬遠されるミノには細かい隠し包丁を施す。
このひと手間でかみきりやすくなりホルモンならではのうま味が味わえる。
オープンの3年後には韓国料理や焼き肉が注目を浴び鶴橋にも女性や家族連れの姿が。
時代の追い風を受けて店は徐々に忙しくなっていった。
店が繁盛しだすとお母ちゃんが帰ってくるのは真夜中の3時4時
一人っ子の私はいっつも1人でした
お母ちゃん早よ帰ってきて。
智恵…。
ごめん智恵。
お客さん待ってはるから。
早よ寝るんやで。

お母ちゃんは私より店の方が大切なんや
(順子)子どもには…。
もう泣かした泣かした。
もうずっといまだに…いまだに負い目あるよ。
ごめんないうのととにかく商売がうまくいくのを待ってもらわなあかん。
どこへ言うてええの。
娘の智恵は「寂しい」と口にすることにも疲れ中学に入ると夜遊びをするようになった。
そんな私を見てお母ちゃんは無理やり私を店に立たすようになったんです
そこで私は初めて働くお母ちゃんの本当の姿を見たのです
お母さんいつものでお願いします。
いつもので。
今日もお母さんおいしいわ。
そうやろ。
お母さんこっちこっち。
(順子)ちょっと待ってな。
お客さんがみんなお母ちゃんのこと「お母さん」って呼んでいました
私はお母ちゃんが築いてきたもの店を離れない理由が初めてわかったんです
そんなとき…最大の悲劇が私たちを襲いました
順風満帆に見えた「焼肉吉田」。
しかし…。
1999年1月。
不注意から出た火はあっという間に店を焼き尽くした。
そこには娘・智恵に支えられぼう然と立ち尽くす順子の姿があった。
(順子)天井抜けてるやん。
上見たらあんた星見えてんねんもん。
「もう私は終わった」って言うたもん。
そして…。
(周市)泣いてる暇なんかないぞ。
うちで働いてくれてる従業員がおるんや。
こんなことに負けたらあかん。
打ちひしがれたお母ちゃんの心を支えたのはやはりお父ちゃんでした
お母ちゃんに元気を出してもらおうとお父ちゃんは仮店舗をすぐに用意しました
とにかく前に進むしかない
再び借金をし半年後には本店が新しく生まれ変わったのです
そこには従業員の皆さんからお母ちゃんへのプレゼントが用意されていたんです
せ〜の!せ〜の!あれは…ええ〜!
そこにはエプロンをして笑っているお母ちゃんがいました
(順子)「見てみ電車通る人が見るやろう」って。
「毎日毎日見はんねんで泣いてる場合違うやろう」って言いはったな。
まあそれがすごく…。
今があるかな。
2003年には200人が入れる新館がオープン。
全面バリアフリー誰でも安心して来られる店。
順子の夢の集大成。
(順子)夢はこの道に行きたかったから今この道にのってるやろず〜っと。
だからこれが崩れんようにやっていくだけしかないやん。
(智恵)子どものころは太ってるしやっぱり顔もきれいじゃないしすごく嫌だったんです。
でも今はその全く逆でやっぱりいちばん尊敬する人でありやっぱりその私が娘でよかったっていう。
う〜んやっぱり絶対に火事のあと順子の心の支えとなった壁画。
4年前順子は誰にも言わず消した。
壁画を消した決意それはいつまでも自分が主人公ではない。
娘の智恵たちに店を任せたい。
現在娘の智恵さんは店の経営を手伝っている。
順子は知っている。
子どもに寂しい思いをさせても店に立たねばならない苦しみを。
そしてその覚悟の一歩を踏み出す勇気の尊さを。
(八方)ここは新世界はジャンジャン横丁でございますがね。
まあ新世界といえばやはり串カツですか。
その新世界の串カツで「ソース二度づけ禁止」という紙を貼ってまさしくルールですよと決めたのが実は昭和24年創業の「八重勝」さんです。
ジャンジャン横丁のど真ん中。
向かい合わせの2軒を仕切るのは従業員や常連客からは親しみを込め「兄者」と呼ばれる三代目です。
「八重勝」の串は何よりネタが大きいのが特徴。
こちらの肉厚の牛フィレは1本300円。
んっ!ちょっと厚みがあるから。
そしてこの新作串海鮮三種がメニューになった背景には。
(元林)ちょっと師匠に女性目線のものを食べてもらおうかな。
(八方)女性目線?うん。
新作串を考えているのはこちらの女性。
自分が食べたい串をと女性目線で開発しています。
このソースにからむ濃い〜串カツのようにここ「八重勝」もその長い歴史に負けないほどの濃密で濃厚なドラマが刻まれていました。
串カツ激戦区の新世界で1日1,000人の大行列。
その店を築き上げた…。
そして「八重勝」の朝のジャンジャン横丁。
まだシャッターが目立つ商店街に長蛇の列。
午前10時半のオープンと同時に店内は満席に。
(スタッフ)まだマシ!?全然マシ。
創業67年。
大行列店「八重勝」の串カツとは。
大ぶりの天然エビは注文が通るたびに殻をむく。
むきエビだと乾燥してしまうからだ。
全部で30種類以上ある串はネタごとに仕入れ先を変えてよりよいものを手に入れる。
8分の焼きで届くあなごは半身を衣付け。
これはふわっとした食感を残すため。
花形である揚げ場スタッフ10人のそんなまさに串カツのプロ集団を作り上げた三代目は…。
揚げ場を弟子たちに任せ2階の仕込み場に。
「八重勝」名物営業終了後の徹底掃除。
この掃除も自ら先頭に立つ熱い親分肌。
そんな三代目をスタッフは親しみを込めて「兄者」と呼ぶ。
今では兄者と呼ばれるこわもて元林正博。
しかし意外な過去を持つ。
小学生のころは…。
いじめられっ子だった。
(元林)小さいころおばあちゃん子だったんで。
甘やかしてくれたみたいでいじめられっ子なんですけどわがままなんです。
しかし中学でバレーボール部に入り体も鍛え次第に心も強くなっていった。
自分の将来については。
もう串カツ屋は絶対嫌だと思てました。
料理人を目指すことにはしたが父の串カツ店を継ぐ気はなく家を飛び出し全国を放浪。
しかし2年後人手不足を理由に呼び戻されしぶしぶ店を手伝うように。
エビとトマト。
エビトマト。
はい。
・じゃあ僕どて焼き。
僕はタコとゲソで。
は〜いおおきに。
そこで目にした揚げ場に立つ父の姿はイキイキとしてかっこよかった。
そのすごさに正博は圧倒された。
父は根っからの職人肌で串カツについて一切教えてくれなかったが正博は自分なりに考えて少しずつ店を改革していくことに。
元から軽めの生地だったものをより女性に受け入れられるために薄力粉の分量を減らし2種類の山イモを加えた。
さっくりと混ぜてグルテンが出ないようにした。
揚げ油はヘット7に対し植物油3をブレンドしより軽い口当たりに。
更に父の理解を得て従業員には白衣を着用させ意識を高めた。
そうして店を任されるようになると正博には1つの悩みが…。
うまいわぁ。
(元林)ああすんません。
他のお客さんも使いますよってに食べさしはつけんといてもらえますか。
まあそやからな…。
うんうまいな〜。
(元林)すんません。
他のお客さんも使いますよってに。
あかんのかいな。
それやったらそう書いといてくれたらええのに。
なあ。
ほんまやなぁ。
(元林)すんません。
1980年代の新世界では「ソース二度づけ禁止」は暗黙の了解だった。
しかし新規の客にはそれはわからない。
そこで貼り紙を貼ろうとしたものの…。
言葉が浮かばないんですよ。
「ソースには食べかけ食べさしを入れないでね」とか。
「食べさしはソースに入れないで」とか。
そのピチッとくる言葉が全く浮かばなくって。
貼り紙の文言について悩んでいた26歳当時通っていたのが今里の串カツ屋台。
そこで…。
(元林)これや!まあうちのおやじに大反対されましてね。
「お断り」とかいうのはなんかお客さんを拒否してるような感じがあるから「こんなもん貼れるか〜!」。
父の反対を押し切って貼った「二度づけお断り」。
この「二度づけお断り」という表現は短くシンプルながら強烈なインパクト。
やがて新世界串カツの代名詞となり新しい客を呼ぶ原動力となった。
客が増えれば人手が必要となる。
今日からよろしくお願いします。
お願いします。
人手不足解消のため正博を兄のように慕いそのまま「八重勝」に就職した学生も多い。
(矢倉)俺なドラマで見てんけどな。
「兄者」って呼ばへん?それええな。
やろう?
(富樫・矢倉)兄者。
(元林)俺?なんやそれ。
てれるやんけお前。
(矢倉)ええやないですか。
(矢倉)今も「八重勝」には3人の調理師学校生がいる。
うれしいですね。
店から徒歩3分。
ジャンジャン横丁の路地裏に串カツのソースでも生地でもない兄者の宝物があるという。
(元林)こういう簡単な倉庫なんですけど。
実はここは20年ほど前までアルバイトの学生の寮だった。
彼らが「八重勝」後輩に残した数えきれないメッセージが兄者の宝物なのだ。
「成せばなる成さねばならぬ何事も」。
「失敗をしろ。
失敗を恐れるな。
失敗を繰り返すな」。
もうほんと宝ですね。
「魔法のレストラン」が2004年に取材した当時の映像。
修業中の若者の密着取材をしていた。
先輩とかめっちゃきれいに簡単に揚げようけど。
たどたどしく串カツを揚げる二十歳の假屋くん。
彼が寮の壁に残したメッセージはひときわ大きく力強い。
「気持ちを強く持つ事。
気持ちがしっかりしていれば何事にも頑張れるから」。
将来は地元福岡に帰ってちゃんとしたお店で串カツ屋って出したいです。
「八重勝」で12年修業し去年6月大阪・天満に串カツ店をオープンした。
(假屋)串カツ屋で日本一の「八重勝」で修業させてもらい今の自分があるのも兄者のおかげと思います。
「八重勝」に負けんぐらいのお店にしたいと思いますんで今後ともよろしくお願いします。
兄者の片腕として20年以上「八重勝」厨房に立っていた助永さんは2014年に吹田の関大前に創作串カツの店をオープン。
関西だけではなく長野福岡三重と「八重勝」を巣立った兄者の弟子たちは全国各地に…。
(元林)改めてこうやってこういう卒業のこういうのを見てるとやっぱりこうやってOBがいてる以上まあこの子らに笑われんように一生懸命やるだけですねうん。
兄者は今揚げ場を引退。
裏方に徹し店を守りながら若者たちの夢を育てている。
(八方)そして舞台は同じく通天閣の膝元天下茶屋へ。
ここに世界チャンピオン日本人最年少記録を持つ男がおります。
キーワードは…。
1cm。
28年前その男は泣いていた。
ほんまにエディさん命懸けて僕のためにやってくれましたからね。
僕も…とにかくもう死んでもしょうがなかったです。
死んでも勝つつもりでやりました。
井岡が命を投げ捨ててでも勝ちたかったのは末期ガンで死の淵をさまよう73歳のアメリカ人トレーナーのためだった。
僕が勝つために命を引き換えにやってくれたから。
やっぱりそこまでできる人っていてませんから。
井岡弘樹47歳。
30年前17歳でプロデビュー。
そして18歳9か月国内最年少で世界チャンピオンに。
この記録はまだ破られていない。
ボクシングトレーナーエディ・タウンゼント。
享年73。
1962年力道山に招かれ来日。
以来日本で6人の世界チャンピオンを育て上げた。
愛弟子たちの心の中には今でもエディさんの愛が生き続けている。
すごくそれは俺のこと大事にしてくれて俺のこと愛してくれてるというのは何だからこれだからじゃなくてそれは伝わるもんやと思うんです。
自分の今あるねあの…。
恩人ですよね。
エディさんの最後の愛弟子となったのが井岡だった。
おじいちゃんと孫のような2人に生まれた固い絆。
(セコンド)よっしゃ井岡頑張ってよ。
ただエディさんのためだけに死ぬ気でリングに立った井岡。
これは2人の命の戦いその記録だ。
(実況)さあチャンス。
左右のパンチが当たっている!レフェリー今止めました。
井岡弘樹初防衛最終ラウンドノックアウト勝ち!今回エディさんの足跡をたどるのは。
こんにちは。
あっお世話になります。
どうもはじめまして。
井岡です。
お願いします。
80歳を過ぎても徹夜で議論をする…。
そこにエディさんの写真があるんだけどなんですか?これは。
(井岡)「普通の選手と世界チャンピオンどんだけの差があるんですか?」ってエディさんに聞いたんですよ。
ほんでエディさんはほんとのこれだけやと。
僅か1センチ。
紙一重の差を破れば世界チャンピオンになれるっていった意味なんです。
(田原)この1センチの差ってなんだろう?どこが違うのかな。
この差がなんかあるんでしょうね。
だってほとんどの人間はこの1センチの差破れないわけだ。
はい。
井岡は13歳のとき赤井英和に憧れ赤井の所属していた天下茶屋のジムに入門した。
赤井のトレーナーをしていたエディさんはそのころから井岡を「ボーイ」と呼び度々食事に出かけている。
そのころの井岡は身長140センチ体重は30キロ余り。
経済的にも恵まれていなかった井岡を気遣いエディさんは脂身の少ない豚肉や牛肉を毎回ごちそうしていた。
(ガッツ)ああこんにちは。
(田原)こんにちは。
どうもご無沙汰してます。
しばらくでございます。
たま〜にですねサムタイム時々です。
ガッツさんもエディさんの愛弟子。
5度の世界チャンピオン防衛に成功したガッツさん。
実は王者から陥落したとき…。
そのときはエディさんいなかったんです。
海外で試合やりましたから。
あれエディさんがいたら私負けてません。
いないとなんで負けちゃうんですか?泣く子がですねどうしても泣きやまないのがお母さん行くとピタッて泣きやむじゃないですか。
なぜ泣きやむのかなって。
それと似てんじゃないですかね。
なんだろう?それは。
ねえ。
なんでしょうかね。
2人にはいつしか固い絆が生まれた。
井岡が今回の取材を通して何度も何度も口にした言葉がある。
エディさんのために勝ちたい。
勝ちたい。
エディさんのために勝ちたい。
先生のために勝ちたかったから。
(田原)なんでエディさんのために勝ちたいというふうになるの?
(井岡)だからやっぱりそれはねいろんな僕のこと心配してくれて。
どういうこと?どういうふうに心配してくれた?
(井岡)体のこと心配してくれてね。
やっぱり練習のしかたふだんの生活のしかたそれみんな教えてくれましたから。
とにかく井岡は練習の鬼だった。
当時の体脂肪率は僅か1%。
まさに禁欲的にボクシングに打ち込んでいた。
1987年エディさんと共に井岡初の世界戦。
井岡は果敢に攻めるも相手のしぶとい攻撃に苦戦を強いられていた。
そんなときエディさんのある言葉で井岡は変わる。
エディさんの魔法の言葉とは?Let’sgo!それは気持ち変わりますよ。
テレビ見てる人に見せるんじゃなくエディさんに見せるんですよ。
その言葉どおり井岡は最終ラウンドで相手を打ちまくっていた。
そして…。
(リングアナウンサー)勝者赤コーナー井岡!こうして18歳9か月史上最年少の世界チャンピオンが誕生!それはエディさんが育てた6人目の世界チャンピオンであった。
実は末期ガンだった。
ああ〜どうしてこうなったね。
こうなったのか。
でも僕は…。
ええっ!ああ…。
頑張るの。
天下茶屋にエディさんが亡くなる直前まで通った焼き肉店がある。
当時ジムが近くにあったことから試合のあとの祝勝会にも度々使われていた店だ。
そしてエディさんが亡くなる10日前にも食べた黒毛和牛のテールスープ。
・エディさんも飲みましたよ。
体力ないときなんかはね頑張って飲んでもらいました。
ここのねほんまに。
初防衛戦を11日後に控えた1月20日。
・エディさん。
(エディ)井岡…。
(井岡)はい。
攻めるよりも守る意識が高くなってしまう初防衛戦は若いチャンピオンにとって重要な意味を持つと考えていたエディさん。
このときある決断をしていた。
初防衛戦をリングサイドで見届ける。
それまでは死なない。
1988年1月31日運命の日。
エディさんは一段と衰弱していた。
その命のともし火は小さく静かに揺らいでいた。
・わかってんだよ。
わかってんだ。
しかし試合開始30分前のことだった。
これから試合始まんの。
行く?聞こえるか?ねえ。
エディ!行くの?試合観に行くんだよ。
行けるの?エディ。
エディさんは意識を失い病院へ搬送された。
しかし井岡にはその事実は告げられなかった。
(セコンド)うん。
エディさんがそばにいない試合。
前半井岡は精彩に欠け多くのパンチをもらっていた。
そんなときセコンドが声をかけた。
井岡の脳裏に浮かんだのは命懸けで自分のために戦い続けた恩師の姿。
そしてあの言葉。
それが2人にとっての…。
最終ラウンド井岡は小さな子どものようにその拳をただ振り上げていた。
(実況)右当たった!当たった左!連打連打!ダウンダウンダウンダウン!レフェリー今止めました。
ノックアウト勝ちです!井岡弘樹初防衛最終ラウンドノックアウト勝ち!試合後病院に駆けつけた井岡。
勝利を報告すると恩師のまぶたは小さく動き握った手がかすかに動いた。
井岡との約束どおりその夜エディさんは旅立った。
最愛の妻絵美さんとはエディさんの命日2月1日午前1時に入籍。
長男・輝樹くんは生後間もないころ不思議なポーズをしてみせた。
井岡には今も度々訪れる思い出の場所がある。
試合前のキャンプ地だった和歌山県・白浜。
エディさんはこの海が好きで12年前井岡はこの浜辺に記念碑を建てた。
はいエディさんきれいになりました。
はいきれいになりましたよ〜。
人生のね生きていくうえでの先生ですよ。
ボクシングだけの先生じゃないです。
今井岡の夢は強い世界チャンピオンを育てることだ。
日本スーパーウェルター級チャンピオン野中選手を筆頭に練習に明け暮れるプロボクサーたち。
その1センチを超えるために。
(エディ)関西を代表する2人の料理人が定番メニューの王道レシピを伝授。
SUPERHERO’sレシピ。
今夜は寒いこの時期にぴったりのあんかけ料理。
まずは「菊乃井」村田さん。
今日はあんかけうどんを。
(高橋)あったまりそう。
(村田)今日はね白いあんかけ。
うどんだしの割合から。
(村田)万だしやったら1と水が4。
(杉浦)1対4で。
(村田)はい。
そこに具材を入れ煮込みます。
(水野)あっそのまま?そのまま入ってしまう。
(村田)普通は霜降りするとかねいろいろ言うでしょ。
せんでもよろしい。
ええ〜。
(村田)何が変わるっていうたら「臭みが」って言わはるでしょ。
(村田)今。
(一同)あははははっ。
(長野)昔はね。
(杉浦)時代は進化してますから。
火にかけておよそ5分。
はい。
(杉浦)きた!
(村田)鍋ですね。
鍋。
(杉浦)簡単に言うたらそういうことですね。
村田流きれいなあんの作り方とは?
(村田)ちょっとこちらへあけます。
(高橋)あけちゃうんですか。
白いあんにするにはどうするの?おんなじ量の
(村田)投入するわけですね。
(杉浦)投入しました。
(木本)村田さん豆乳じゃなくて牛乳じゃ駄目なんですか?
(村田)牛乳でも大丈夫ですけどまあできたら…。
和物と違うような味になってしまいますね牛乳やったら。
そっか〜。
(村田)あっこれ入れんの忘れましたわ。
なんと村田さん
(村田)ほうれん草入れんの忘れたんで今入れます。
(一同)あはははっ。
(高橋)ああ〜おかしい。
(木本)焦らんよな村田さん。
焦らん。
(杉浦)こんな感じで大丈夫ですか?
(村田)はいこんなもんですね。
(杉浦)こんなもんでいいですか。
入れ忘れないように。
(村田)
(木下)はっは〜
(杉浦)これが「魔法のレストラン」です。
(木下)そのままいくんや。
中火にし水溶き片栗粉でとろみをつけふつふつと沸いてきたら…。
(村田)こうええ感じでこれぐらいになれば。
おいしそう。
(高橋)あったまりそうだな〜!
(杉浦)俺が盛りつけたん全部隠れた。
ほんとだ。
ず〜っと見てたよ俺は。
(村田)出来上がりです。
(高橋)もう完成?早〜い。
続いて東さんが作るのは?ええ〜ふわふわたまごの天津飯。
(杉浦)大好きふわふわ。
(東)淡雪あんかけでやります。
まずは…。
(東)これぐらい。
さっとでいいです。
炒まったらご飯に投入します。
(杉浦)ご飯に入れる?もう混ぜご飯みたいに。
(東)よいしょ。
意外〜。
(木下)冷やご飯?じゃないか。
(東)あったかいご飯ですね。
チンゲン菜以外にもふわふわたまごを作るにはあれを入れるんです。
後ほど使うので
(東)長芋ですね。
(杉浦)とろろ。
(東)これでふわふわに。
(高橋)今長芋小分けして冷凍で売ってたりしますよね。
(杉浦)売ってる売ってる。
ここでカニ缶を。
一度ザルにあげて身と汁を分け汁は後ほど使います。
(東)卵が水っぽくて焦げやすくなっちゃうんで切っておきましょう。
焼くときのポイントは油をしっかり使うのとフライパンをちょっと小さめに。
大きすぎるとすぐ広がって硬くなってしまうんで。
あと強火ですね。
しっかり強火にしてください。
ここからが必見!東流ふわふわたまごになるコツを披露。
(高橋)ノーカットでお届けします。
(杉浦)いっちゃいました。
(東)焼くときは大きく。
油を抱かせるようなイメージで。
(木下)ふわふわ。
(高橋)うわ〜!
(木下)強火で?
(東)はい強火で。
(杉浦)一気に。
ふわふわや。
(東)ゆっくりゆっくり焦らないで。
(木本)長芋すげぇ!長芋すごいですね。
雲みたいですよ。
ふわっふわっ。
(高橋)ふわふわふわふわ〜。
(東)これぐらいになったらあとは。
(高橋)わっ!やっ!わっとか言って。
(木本)うわ〜!おおおお〜。
(東)はい出来上がりです。
(木本)うわっもうできた。
(高橋)へえ〜あらあらあら。
うわ〜。
(木本)うまそっ。
東流白いあんの作り方とは?鶏ガラスープに先ほど分けておいたカニ缶の汁などを加え味を調えます。
(東)あとはおろしショウガと。
一度火を止めだまにならないよう水溶き片栗粉を混ぜながら加えます。
(東)再沸騰してあと片栗に最後しっかり火入れることであとでだれにくくなるという。
最後卵白ですね。
(杉浦)ダイレクトに。
(東)入れたらゆっくり。
あんまり急がんと。
(高橋)あらららら。
(杉浦)淡雪や。
淡雪や。
(木本)すごいすごいすごい。
(高橋)すごい!
(東)カニ玉のあんかけの完成です。
(高橋)わ〜い!
(杉浦)うまそっ!それではいただきます。
(一同)いただきま〜す。
(木本)じゃまずはうどんから。
白いあんかけ。
(高橋)あっおいしい。
(杉浦)優しい。
うまい。
(村田)だし結構ねあんだけ野菜とか肉とか入りますとねだしがおいしなるんですよ。
なるほど〜。
(東)ゆず効くとおいしいですね。
でもちょっとなんかこれゆず変えたら中華風とかもできるのかなと思って。
やめて。
(一同)あはははっ。
淡雪のあんかけいただきます。
(村田)これが食べたかったな。
(杉浦)ふわふわ。
うわ〜。
(村田)やっぱり中華になんねや。
(木本)ふわふわ。
ほんとだ。
これ山芋入ってるから時間がちょっとたってもやわらかくて。
(東)そうですね。
固まりづらいですね。
あと油と。
(村田)うまいわ。
ごま油使えへんだら日本料理になるな。
(東)双方同じような探り合い。
割合で簡単に作れる和食の本を出版しました。
第2弾です。
こちらを10名の方にプレゼントします。
是非ご応募ください。
来週は…。
昭和48年生まれの同い年3人が大集合!2016/01/25(月) 19:00〜20:00
MBS毎日放送
水野真紀の魔法のレストランR[字]【濃い味濃い街人情の味】

濃い味濃い街人情の味▼新世界〜大行列串カツ▼兄じゃの決断は引退?▼鶴橋〜焼き肉王国の母▼井岡弘樹涙のラウンド

詳細情報
出演者
水野真紀
長野博
高橋真麻
杉浦太陽
TKO(木本武宏・木下隆行)

高畑淳子
月亭八方
田原総一朗
ガッツ石松
赤井英和
井岡弘樹

村田吉弘(「菊乃井」主人)
東浩司(「Chi−fu」オーナーシェフ)
ほか
 
番組内容
名店人気メニューにまつわる感動秘話を紹介。
新世界「八重勝」は、串カツ店を通して生まれた師匠と弟子の熱い物語。鶴橋「吉田」は、焼肉の常識を覆した、人情女将のど根性人生物語。新大阪「登美子」の豚玉に秘められた家族の愛の物語。天下茶屋「金星」と「とたん屋」はエディ・タウンゼント&井岡の奇跡の物語に無くてはならない思い出の味。リポーターに月亭八方さんを向かえお届けします。
今夜は涙なくして見られません。
番組内容2
【スーパーHERO’sレシピ】
“あんかけ”をテーマに京都料亭「菊乃井」主人・村田吉弘と中華料理店「Chi−fu」のオーナーシェフ・東浩司がレシピを紹介します。お楽しみに!!
 
公式HP
■番組HP
http://www.mbs.jp/mahou/
おことわり
番組の内容と放送時間は、変更になる場合があります。

ジャンル :
情報/ワイドショー – グルメ・料理
バラエティ – 料理バラエティ
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32722(0x7FD2)
TransportStreamID:32722(0x7FD2)
ServiceID:2064(0x0810)
EventID:12955(0x329B)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: