きらびやかな色彩に繊細な筆遣い。
そして堂々とした存在感。
江戸時代圧倒的な写生の力で人気を誇った京都の絵師…その応挙に学び絵の才能を開花させた男が北海道松前の地にいました。
松前藩の家老にまでなった武士です。
同時に「松前の応挙」とたたえられる腕前を持っていました。
波響は自分の絵筆の力で松前藩を救ったと言われています。
一体何があったのか?それを解く手がかりとなる波響の絵画が32年前にフランスで見つかりました。
長い間行方不明だった幻の名画。
なぜフランスに渡ったのかはいまだに謎です。
代表作…江戸時代北海道に暮らしていたアイヌの有力者の肖像画です。
縦40cm横30cm。
全部で12枚あるこの作品が描かれたのは1790年。
波響はある使命を背負っていたと言われています。
この絵はどのようにして松前藩を救ったのか。
藩と名画をめぐる数奇な物語をひもときます。
「日曜美術館」です。
今日は蠣崎波響という人物の作品に迫ります。
こちらがその波響の肖像画なんですが応挙のように絵がうまいという事で「松前応挙」とも称されたそうなんですね。
僕はアイヌ文化に興味があるのでアイヌの資料や文献などを見ていると波響が描いた「夷酋列像」が出てくるんですね。
なので見た事はあったんですけれども波響が一体他にどのような絵を描いていてあとは人物像なども全く知らなかったので。
しかも絵師ではなくて武士というのはほんとに驚きますし絵の力で藩を救ったっていう事は一体どういう事なのか今日はとても楽しみです。
そうですよね。
その幻の名画と呼ばれた「夷酋列像」の魅力を早速見ていきましょう。
フランスから日本に里帰りした「夷酋列像」が展示されています。
江戸時代に実在したアイヌの首長いわゆる有力者の姿を描いた作品です。
フランスの美術館で見つかったのは12枚あったうちの11枚です。
どれもきらびやかな衣装に身を包み威厳を持ったポーズ。
有力者の代表格だったのが「ツキノエ」と呼ばれた人物。
腕力も強くロシアにまでその名が知られていました。
赤いマントをさっそうと着たイコトイも江戸幕府に名がとどろくほどの有力者でした。
ありました。
「夷酋列像」。
「松前の応挙」と言われた波響の魅力を間近で感じたい。
井浦新さんが展覧会を訪ねました。
注目したのは細部の描写です。
更にアイヌの暮らしぶりまで細かに描かれている事に気付きました。
例えばニシコマケの足元にあるのは毛皮の靴です。
アイヌの人たちは狩りをした動物の毛皮をよく身につけました。
マウタラケが座っている敷物はラッコの毛皮だと言われています。
波響は当時重要な交易品だったラッコの毛皮を表しアイヌらしさを巧みに出していました。
驚きのディテールが詰まった絵を蠣崎波響はどのように生み出したのでしょうか?北海道の南部松前町。
波響のふるさとです。
町の高台にある松前城。
波響は1764年藩主の五男として生まれました。
絵の才能を示す逸話が地元に残されています。
才能を見いだされた波響は10歳の頃には江戸に出て絵を学びました。
若き日の作品…波響は当時中国から伝わり江戸で流行していた「南蘋派」と言われる流派に学びました。
対象を写実的に描くのが特徴です。
鳩の羽毛を一本一本描く細密な筆遣いは「夷酋列像」で丁寧にひげを描いた技法と通じます。
松前藩の武士として生まれながら江戸で本格的に絵を学んだ事が波響の独特の才能を育みました。
江戸の文化に詳しい田中優子さん。
波響のアイヌの捉え方に関心を抱いてきました。
波響はどのようにアイヌの存在を引き立てたのでしょうか?東京藝術大学の荒井経さんに「夷酋列像」の一部を再現してもらいました。
荒井さんは波響のタッチを再現していくうちに想像を超える描き方に気付きました。
更に金泥で衣装の刺繍の線一本一本まで描いていた事が分かりました。
全ては人物の存在感やリアリティーを生み出すためではないかと荒井さんは推理します。
なぜ松前藩の武士がきらびやかなアイヌの姿を描く事になったのか。
そこにはアイヌと「和人」と呼ばれる日本人との間の争いがありました。
北海道の東に位置する根室市の納沙布岬。
岬の一角に石碑があります。
1789年に起こった戦いで殺された和人が弔われています。
亡くなったのは71人。
ほとんどがこの地に出入りしていた商人でした。
幕府からアイヌとの交易の独占権を認められた松前藩のもとで多くの商人が当時「蝦夷地」と呼ばれた北海道に来ていました。
そして商人がアイヌの人たちを雇って働かせるようになります。
ところがそれが過酷な労働で暴力的な行為も横行したためアイヌの人たちが蜂起したのです。
松前藩の史料…そこには戦いの鎮圧に出向いた松前藩がどのような対処をしたのかが記されています。
「この度の騒動では商人が道理のない行動をした。
しかし訴えもせず殺害に及んだ事は許し難い」。
アイヌ側の首謀者37人に現地で死罪が申し渡されました。
その後藩はアイヌの人たち43人を松前に連れ帰りました。
実はその中に鎮圧に功績のあったアイヌの有力者がいました。
蜂起の首謀者を集め事情を聞く役割を担っていました。
その有力者を波響が描いたのが「夷酋列像」だったのです。
1年かけたとも言われています。
「夷酋列像」に添えられた序文です。
松前藩主は戦いの鎮圧に功績のあった12人を称賛するため波響に命じていました。
「夷酋列像」には松前藩に協力したアイヌの有力者をたたえるメッセージが込められていたのです。
今日のゲストをご紹介いたしましょう。
蠣崎波響をおよそ30年近く研究され続けていらっしゃいます五十嵐聡美さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
そんなふうに五十嵐さんをとりこにする蠣崎波響の「夷酋列像」の魅力って何なんですかね?この絵が描かれた当時こういう絵っていうのは他になかったんですよね。
もう突然変異的に生まれた絵で例えば顔だちですとか身につけてるもの手にしているものもう別世界の人たちを当時の人たちは見たんですね。
アイヌを描いた絵というのはちょっと流通し始めていましたがまだうわさに聞くアイヌの姿をそのイメージをまとめたようなものでしたしかなり想像が多かった。
でも「夷酋列像」は違うんですよね。
その個性に迫るようなポーズですとかいでたちをしているので当時の人は「じゃこれ一体どこで誰がどうしてどうやって描いたんだろう?」。
そこが「夷酋列像」の魅力だと思います。
美術的な価値というのはどんなところにあるんでしょうか?見ていきますと西洋画の影響を受けている描写もあるんですね。
陰影法を使っている所があります。
どういった場所にですか?これはロシアのコートを着ているんですがそのコートのひだが影をつけている。
墨の線で描くのではなくて。
あっほんとですね。
これ見ていきますと何人かがこのロシアのコートを着てるんですね。
ロシアのコートだけにこの陰影法が使われてるんです。
それはどういう事なんですか?波響の中でこれは「ロシア製」これは「中国から渡ってきたもの」これは「アイヌが自製のもの」っていうちゃんと分かってたんでしょうね。
ロシアのものについては洋風画の手法を使って描いてたんだと思います。
描き分けてたんですか?それぞれ。
はい。
すごい!そこまで徹底してるというかちゃんと表現しているという事なんですね。
冷静に見るとポーズというか構図もとても変わってますよね。
ほんとですよね肖像画ですからね。
肖像画でこういうポーズ…それこそシカを背負ってっていうのはなかなか出会えないですよね。
西洋の例えばギリシャ彫刻とか西洋の絵画は非常に演劇的な大げさなポーズをとる事があるんですが日本の伝統の中ではこういう凝ったポーズ複雑なポーズというのはあまりないんですよね。
しかもこの作品が生まれた背景が純粋に蠣崎波響が描きたいと思って描いたとひと言ではなかなか言えない。
やはり政治的な目的の上で描かれていったものなんですね。
この絵を見ていると非常に力があって武力があって財力があって知力があってそういうアイヌの武将たちがここの12人勢ぞろいしている。
そういうイメージがあると思うんですけどそれはそういうイメージをやっぱり誰かに伝えたい。
そういう思いがあったと思うんですね。
この「夷酋列像」の序文にはこういうふうなアイヌがたたえられるべきなんだという事をアイヌに知らしめたいという事も書かれてるんですね。
でも多分本当のねらいは違うところにあったんじゃないかと思います。
つまりまた更に一つ謎が見えてきたという事なんですが実はこの作品には更に隠された物語があるんです。
長年「夷酋列像」を研究してきた五十嵐聡美さんは不思議な事に気付きました。
12枚に同じような描写や構図がいくつもあったのです。
有力者の一人ポロヤの肖像画。
シモチと顔の角度が一緒です。
鼻もそっくりです。
次はイコトイ。
顔だけ反転させるとイニンカリと同じような構図になります。
そしてションコとニシコマケ。
ションコの絵を反転させ首の角度を変えると同じポーズになります。
これらの事は何を意味しているのでしょうか?史料によると松前に連れてこられたアイヌ43人の中に「夷酋列像」に描かれた有力者の名前は5人しか記されていません。
「シモチ」。
「イコリカヤニ」。
「イニンカリ」。
「ニシコマケ」。
そして「アッケシ祖母」とある「チキリアシカイ」です。
他の7人は松前に来ていないのにかかわらず波響は描いたというのです。
なぜ見ていない人まで波響は描く必要があったのでしょうか。
それは当時の国際情勢と深く関わっていました。
大国ロシアの存在。
当時ロシアはシベリアからカムチャツカ半島に勢力を伸ばし千島列島にまで進出しようとしていました。
ロシアの南下政策に警戒を促す本も世に出されています。
工藤平助という医師が書いた…ロシアの勢力が迫る中で起きたアイヌと和人との戦い。
松前藩は統治能力を幕府から問われていたのです。
波響は松前藩がいかに幅広くアイヌと友好関係にあるかをアピールするために実際見ていないアイヌの有力者までも描いたのです。
波響のねらいは成功したのか?他の藩による「夷酋列像」の模写が残されています。
九州の…諸藩の藩主が模写させたほど絵のメッセージは広く伝わりました。
そして…。
波響が絵を携えて京の都を訪れた際時の光格天皇が「夷酋列像」を見た記録です。
天皇が波響の精巧な筆力に感心し一日宮中に留め置いた事が記されています。
波響の巧みな筆さばきと想像力がアイヌとの友好を見事にアピール。
松前藩の危機をひとまず救ったのです。
実際は見ていない人物を想像で描いていったという驚きましたね。
でもそうせざるをえなかった事情が見えてきましたよね。
この絵というのは松前藩が考えた一大プロジェクト。
広報戦略だったと思うんですよね。
松前藩のイメージアップ作戦。
確かに。
この絵を多くの人に見てもらって情報を拡散してそれで松前藩大丈夫なんだ。
蝦夷地をちゃんと統治できているんだってそういうメッセージを広げたかったんじゃないかと思います。
それは先ほども話に出たようにアイヌの人々にも松前藩はこれだけのコネクションを持っているんだというのも知ってもらうためでもありもっと大きなねらいというのが中央に知ってもらうという事だったんですね。
将軍そして幕府有力な大名家天皇そういった当時権力を持っていた国を動かしていた人たちにこのメッセージを拡散していきたいと。
そういう思いだったのではないかと思います。
例えばこの威風堂々としたこの作品で見るとその意図というか思惑のようなものを感じる部分って五十嵐さんが見てありますか?この絵の中にはうそと本当が入り交じってるんですよね。
当時の記録を読みますと松前に来た43人のアイヌ服装がよくなかったので松前藩が持っているこの中国から来た絹の刺繍の衣装を貸し与えたという記録があるんですね。
その時は着ていたけれども最初から着ていたわけではない。
一つ一つは本当に実在したしありましたしこうしたアイヌの人たちが活躍していた事も事実だけれどもそれがうまく構成されている。
そういう事は全て松前藩の思惑によって道をつくっていたんじゃないかなと思います。
これ大事なんですけど絵師じゃないじゃないですか。
武士が描いてますよね。
武士でありながらここまでできるんだというところがほんとにすごいなって思いますよね。
波響としては自分が雇われた武士ではない。
松前藩は自分の家ですから。
とにかく自分のできる力を全て総動員してこのプロジェクトを成功させたいというその一念があったと思います。
ひとまずは松前藩を救った蠣崎波響なんですけれども実はその後更に苦難の人生が待ち受けていました。
「夷酋列像」が描かれてから17年後の1807年。
波響が最も恐れていた事が起こります。
藩の領地を幕府によって召し上げられるという事態でした。
そのころロシアは当時鎖国していた日本に度々交易を求めてやって来ていました。
そんな中松前藩がロシアと内通しているという密告文書が出回ります。
蝦夷地の統治能力に再び疑問が持たれた松前藩。
本州梁川の地に配置換えを命じられたのです。
波響たち松前藩士が移ってきた町です。
梁川城跡。
波響はこの時45歳。
藩の家老として重責を担っていました。
梁川は広大な蝦夷地に比べ面積は小さく藩士は半数近くに減らさざるをえませんでした。
波響は藩の財政を賄うためある事を始めました。
それは自分の絵の才能を最大限に使う事でした。
絵を描いて地元の有力者に売ったのです。
その一つがこの「梅鶏図」です。
波響は梁川で精力的に作品を描き藩の立て直しに奔走します。
二幅で一対の「福禄寿鶴図」。
長寿の象徴の鶴や福禄寿はめでたい題材で需要があったといいます。
幅広い波響の作風。
こうした創作を助けたのが「夷酋列像」を携えて京を訪れた時のある絵師との出会いでした。
当時京の都でその名をとどろかせていた…応挙の作品…向かって右はいくつもの線が縦に走っています。
実はこれ滝の表現です。
よく見ると滝をのぼる鯉がいます。
日光を反射した水の筋がキラキラと白く輝いています。
でも白く塗ったのではありません。
その輝きを描き残す事で表しました。
波響の作品…滝をのぼる鯉の描き方は応挙にそっくりです。
いかに対象を生き生きと描くか。
応挙と出会った事で波響は絵の作風を広げさまざまな題材を描くようになったのです。
応挙の影響を受けた波響の絵がこの函館にも残っています。
江戸時代から続く名刹龍寺。
波響が描いた…縦3m横2.8mの大作です。
波響は結核を患っていたと言われています。
それでも絵筆を持ち続けこれまで身につけた技法を全て注ぎ込みました。
描かれた動物や昆虫は104種類。
そこには応挙に学んだ写生の技が生かされています。
波響は松前藩の復活のためこうした絵の報酬を幕府に働きかける資金としました。
そして1821年藩は松前に戻る事を許されます。
波響の絵筆の力が藩を再び救ったのです。
5年後63歳でその生涯を閉じた蠣崎波響。
その作品は藩のためにという切なる思いから生まれた傑作がある事を今に伝えています。
刀ではなく絵筆を持って藩のために生きた蠣崎波響。
応挙との出会いが訪れたんですけれども応挙と出会って波響の絵というのはどのような変化をしていったんでしょうか?画題が広がりましたね。
花鳥画そして美人画吉祥画鶴とか亀とか。
吉祥画もほんとにいろいろなバリエーションの絵を波響は手がけるんですけどそれは円山応挙から頂いた手本で自分の作域を広げていったんじゃないかと思います。
これ注目すべきが五十嵐さんよ〜く見るとほんとに小さきものたち昆虫たちまで細かく描かれてるんですよね。
カブトムシが。
これはもう絹の繊維がこの大きさですからいかに小さいか分かるかと思います。
実際どれぐらいの?1cm。
1cm!?五十嵐さんはこの作品は波響の作品の中でもどういう位置づけをされますか?これは「夷酋列像」に続いて波響の代表作と思うんですが波響はこの時家老でしかも松前藩の最も大きな責任を背負っていた立場でしたから何とか松前に帰りたい藩を復領したいというそういう思いがあったのでこれはもう波響にとってはその願いその祈りその祈願をこの大きな大作に込めたんじゃないかと思うんですね。
ほんとに藩の事情ですとか歴史の状況が生み出した天才画人というふうにも見えてくるんですけど波響自身にとって絵を描くというのはどういう事だったと五十嵐さんは思いますか?波響はこの時毎朝早く起きて小さい紙に絵を描いてそれを神社に持っていって奉納してたんですね。
これを毎朝続けてた。
絵を描くという事は波響にとっては祈りそのものでそれを積み重ねていってついに復領を果たすんですけど。
そのあとは波響は祈願成就のお礼参りをやはり絵を描いて神社に奉納してるんですね。
だから絵を描く事と祈る事はもう波響にとっては同じ事でとにかく藩を救うために自分ができる事は何か。
その絵を描く事しかない。
その一念で描き続けてたんじゃないでしょうか。
描く対象物をちゃんと見る事ができないとああいう事ってできないだろうなって思うんですね。
だから見る力というものが波響はとても高い力を持っていたのかなとも思うんですね。
政治家としての波響も戦局を見極めたりこれからどう藩を導いていけばいいのかというやっぱりその…未来や近い将来を読んで見ていく力っていうものって同じように必要だと思うんですね。
波響にとっては2つの仕事というのは本人の中ではもしかしたら1つだったのかなとも感じたりもしたんですけれども。
今回ほんとに興味深いたくさんの数々のお話をどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
2016/01/24(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「藩を救った名画〜“夷酋列像”蠣崎波響(かきざきはきょう)〜」[字][再]
江戸時代の北海道。藩の危機を救ったアイヌの肖像画があった。描いたのは蠣崎波響。なんと家老にまでなった武士。一体何があったのか? 藩と名画の数奇な物語をひもとく!
詳細情報
番組内容
今から32年前。フランスの美術館で蠣崎波響の傑作は見つかった。長い間、行方不明の幻の名画、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」。アイヌの12人の有力者たちの肖像画だ。その細密な描写や鮮やかな色彩が評判を呼び、天皇にも称賛された。この絵が生まれた背景には、当時の国際情勢もからんだ、松前藩の存亡がかかっていた。一体何があったのか? どうやって絵が藩を救ったのか? 波響の作品の知られざる魅力を解き明かす。
出演者
【出演】北海道立帯広美術館学芸課長…五十嵐聡美,法政大学総長…田中優子,東京芸術大学大学院准教授…荒井経,松前城資料館館長…久保泰,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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