対馬海峡を望みいにしえから日本との行き来が盛んな港町です。
町の中心から急な坂道を上ると狭い路地が入り組んだ一角があります。
あちこちの家の壁に絵が飾られています。
行く人を見つめる白い牛。
韓国では誰もが一度は目にした事のある作品です。
朝鮮半島で牛は民族の象徴とされています。
描いたのはかつてこの界隈に暮らしていた画家。
朝鮮半島の動乱の時代を生きました。
韓国の国民的画家として尊敬を集めています。
イ・ジュンソプは日本とも深い関わりがあります。
朝鮮半島が植民地だった時代日本人の女性と結婚しました。
妻山本方子さん94歳。
現在は東京で暮らしています。
必ずみんなねこの人は天才だって言うんです。
フランスへ行っても通用するっていうふうに。
だからみんなもそれだけ一目置いてたわけですよねうちの主人に対してね。
イ・ジュンソプの短い生涯を友人が記しています。
画家として生きるにはあまりにも厳しい時代を駆け抜けました。
愛した女性はただ一人。
時代に翻弄されながらもいちずな思いをささげた画家の人生です。
「日曜美術館」です。
今日は韓国の画家イ・ジュンソプをご紹介いたします。
僕以前チェジュ島に行った時にチェジュ島の町なかの公共物にイ・ジュンソプの作品が使用されてるのを見た事あってそれでこの画家は韓国の方たちから愛されている画家なんだなという印象を受けた事あるんですけれども今日はその人となりをしっかり知る事ができそうなのでとても楽しみです。
イ・ジュンソプの作品はニューヨークの近代美術館にも所蔵されていまして今年生誕100年になります。
韓国でも大きな展覧会が企画されるなど注目されています。
韓国人なら誰でも知っている画家イ・ジュンソプ。
これまで日本で紹介される機会は多くありませんでした。
福岡アジア美術館で開催中の展覧会でその作品を見る事ができます。
イ・ジュンソプは愛を描きます。
引き裂かれた男女の切ない思いがあふれる一枚です。
彼の心にあるのはただ一人の女性でした。
その女性と出会ったのは今から77年前東京での事です。
二人は同じ学校の先輩と後輩。
面長のイ・ジュンソプは親しみを込めて「アゴリ」と呼ばれていました。
方子さんの家庭はクリスチャンで先進的な考え方を持っていました。
つきあうようになると方子さんのもとには何通も絵葉書が届きました。
そこに言葉はなく絵だけで日々の思いを伝えてきました。
当時日本の植民地だった朝鮮半島の画学生は東京の美術学校を目指しました。
西洋絵画の最新の動きに触れる事ができたからです。
イ・ジュンソプの小学校からの幼なじみ画家のキム・ビョンギさん。
今年100歳になります。
東京でイ・ジュンソプと同じ学校に通っていました。
クラスメイトが集まってパーティーをやったんだ。
週末週末パーティーを。
ジュンソプは遠慮なしに立って歌うんですよ。
それが非常にこう民族主義的な歌を歌った。
朝鮮の学生は私一人しかいない。
みんな日本の学生だ。
遠慮なしに歌う。
朝鮮語で。
私はそれをハラハラする。
そういう気持ちだった。
太平洋戦争末期東京が戦火に包まれる中イ・ジュンソプは方子さんを自分のふるさとに呼び寄せます。
福岡から船に乗り方子さんは海峡を渡ります。
機雷を避けながらの危険な航海でした。
1945年4月二人は結婚式を挙げました。
夫は妻に南徳という名前を付けました。
「南から来た幸せ」という意味が込められていました。
イ・ジュンソプは幼い頃に父を亡くし母の手で育てられました。
母は新婚の二人のために家を買いました。
二人の幸せな日々を一変させる出来事が起こります。
二人は幼い子供たちを連れて南へ逃れます。
母は消息が途絶えた肉親を探すためふるさとに残りました。
韓国最南端の島チェジュ島。
朝鮮半島と海を隔てたこの島に家族は命からがらたどりつきました。
一家が間借りした部屋が残されています。
国民的画家が暮らした場所として一般に公開されています。
家の片隅の一間で一家はおよそ1年過ごしました。
広さは3畳足らず。
ここで家族4人が寝起きしました。
一家に収入の手だてはなく食べるにも事欠きました。
夫婦は幼い子供たちを連れて毎日のように磯辺に通いました。
磯に潜む小さなカニを捕って空腹をしのぎました。
絵筆も紙も買えない貧しさがイ・ジュンソプの新たな画風を生み出します。
その作品を家の隣に立つ美術館で見る事ができます。
縦10センチ横15センチの作品…生まれたままの姿で戯れる子供たちと一人の女性。
絵を描いたのはたばこの箱に入っている銀紙です。
イ・ジュンソプがある日トイレで拾った銀紙と釘。
その釘を使って銀紙を削ると思ってもみなかった面白い絵になりました。
この銀紙画にイ・ジュンソプが繰り返し描いたのが家族です。
画面中央でろうそくを持つのは妻と子供たち。
そこに一家を支えたカニも登場します。
絵筆を手にした父親が家族を優しく見守っています。
更に目を凝らすと…。
横たわるのは生まれてすぐに亡くなった最初の息子。
膝を抱えて座るのが方子さん。
悲しみで倒れ伏すのがイ・ジュンソプ本人だといいます。
長引く避難生活。
方子さんや子供たちは栄養失調に苦しみます。
結核の症状も現れました。
妻と子供たちに日本で治療を受けさせるためでした。
これを機に家族は離れ離れになります。
始まったばっかりですけれど既に…。
とりこになって。
はい。
ジュンソプのその魅力に今とても引きつけられてますね。
特にあの「家族」という作品ですよね。
10センチ15センチほんとに小さい作品ですよね。
あの小さい世界の中で無限の広がりを持つ神話のような。
そういう神聖な作品だなというのにもそういうふうに感じたんですけれども。
結局あの…いろんな事が可能な中でそういう素材を彼が探していったというよりも偶然の産物といいますかああいうふうに貧窮の中でですね画材も絵の具も手に入らないというふうな状態の中でそれでも描いたわけですよね。
落っこってるものを拾って描いたわけです。
ゴミ…なわけですよね。
ゴミです。
まさにゴミですね。
でしかしそこにいわばそれをどうしても描きたいというねまた描いたものが売れるともあるいは評価されるとも何の約束もない中で描きたいというねその事がやっぱり非常にこうまっすぐに伝わってきますよね。
故郷も失った家族も失った職場もないっていうふうな朝鮮民族の経験と同じような経験をしている人々にとって自分たちが求めているといいますかね自分たちの心の中を映し出してくれる世界がそこにあるんですよね。
ですからそういう意味で銀紙画っていうのは偶然の産物ではあるけれどもその時代あるいはその時代を生きた人々にとってのまあ最も適切なメディアだったという事も言えるかもしれませんね。
そうせざるをえなかった状況があの代表作を生んだと。
そうですね。
あのまあ…私はそこに難民…彼は難民なんですけど難民としての彼難民である画家っていうのは一体何なのかっていう問いが一つ入っていますね。
一定の場所にいるだけでなくてほんとに各地…。
アトリエもないし絵の具も何もないんです。
そんな状態の中で人間はなんで絵を描くんだっていうね描いて何になるんだっていうその根本的な問いだけど。
現在もシリア難民を代表としてですね地球上を流浪してる多くの人々の中にもある人は絵だったりある人は音楽だったり演劇だったりするかもしれませんけどそういう行為をやっぱり生きるという事ものを食べるとか呼吸するという事と同等かそれ以上に重要なものと思っている人たちがいると思うんですよ。
だから韓国の人々。
韓国だけじゃなくて私のような在日とかあるいは北にいる人たちも含めて自分たちの経験をいわば離れた高い所からですね描くのではなくてそのただ中にいてなおかつ描いた人というふうな位置づけができるかもしれませんね。
全世界に今もいる難民たちの状況や心境にも通じるそういう普遍的な意味もあると私は思います。
1951年末同じ民族同士が戦うさなかイ・ジュンソプは一旦プサンに移り住みます。
プサンで40年画廊を営むシン・オクチンさんが町を案内してくれました。
イ・ジュンソプはプサンで絵で食べていくすべを探し求めていました。
かつてこの辺りにはバラック小屋が建ち並びふるさとを追われた避難民が肩を寄せ合って暮らしていました。
戦争中質の良い油絵の具を手に入れるのは至難の業でした。
イ・ジュンソプは代わりにペンキで絵を描いています。
朝鮮半島の人々の暮らしも人の心も徹底的に傷つけた戦い。
休戦にはなったものの結果として一つの民族が南北に分断される事になりました。
イ・ジュンソプのふるさとは軍事境界線の向こうのはるか遠い場所になっていました。
荒廃した祖国に日本から家族を呼び寄せる事もできないイ・ジュンソプは各地を転々としていました。
半年ほど暮らしたのが当時芸術家が集まっていたトンヨンです。
町は漁業でいち早く復興していました。
この町でイ・ジュンソプは職を得ます。
デッサンを教えていた学校の建物が残っています。
キム・ソンスさんはイ・ジュンソプからデッサンを習いました。
2階の窓辺でよく外の風景をスケッチしていた姿を覚えています。
トンヨンでようやく絵に集中できるようになったイ・ジュンソプ。
しかし日本に帰した家族と再会するめどは立たず北に残してきた母親とも生き別れになっていました。
イ・ジュンソプが最も力を注いだ絵の題材が牛です。
代表作「白牛」。
朝鮮半島の人々は農作業を担う牛を家族の一員として大切にしてきました。
古来牛は民族の象徴です。
こちらは黄色い牛「黄牛」。
夕日のような色に染まった牛は怒っているようにも泣いているようにも見えます。
イ・ジュンソプの牛に魅了された画家がいます。
5歳の時父親に「黄牛」を見せられ画家を目指したモンウ・ジョセフ・キムさん。
折々に模写をしてきました。
キムさんはイ・ジュンソプの絵に伝統的な書の影響を見て取ります。
独特の筆遣いで書く「飛白」と呼ばれるかすれた書体です。
牛の存在なんですけども日本でもやはり農耕文化ありますから。
耕す。
そうですよね。
古代から牛との生活というか牛と共に暮らすというのはとてもなじみがあるとは思うんですけれどもまた朝鮮半島の人たちにとっては牛の存在というのはまたちょっと意味合いが変わってきそうですね。
その事を理解するためにはむしろ植民地支配というものを理解しなければいけないと思うんですね。
日本を通してだけ西洋の文化が入ってくる。
洋画を勉強したい。
日本に学びに来ますね。
先ほどもご紹介があったように。
そういう画学生たちが朝鮮人留学生画学生の集まりを作ってそれを「白牛会」と名付けました。
白い牛の会。
1933年の事ですね。
ところがそれが日本の当局からその名前を禁止されたんです。
つまり日本の植民地の下にあるから自分たちの民族的な特徴ね白い色も白衣民族というように白は民族の色だと牛は民族のシンボルだというような事を会の名前に掲げてる事は不穏だというふうに。
その方々は必ずしも別に政治的な人たちじゃなくてイ・ジュンソプもそうであるように当時としては非常に恵まれた地主の子弟とかそういう人たちなんだけどもまあ自分たち朝鮮出身者の民族的アイデンティティーですね。
それを確かめ合いお互いが助け合うような団体なのにそれを禁止されてそれで「在東京美術協会」というふうに変えさせられたんですね。
だからつまりそこで民族的なアイデンティティーを表に出すなというそういう時代であったと。
だから「名前も日本風にしろ」「言葉も日本語を使え」というふうな時代でしょ。
ですから日本植民地時代に思い切ってたくさん描く事ができなかったその牛を描いてるわけです。
ですからそれを見た人たち受け入れた人たちの気持ちもねそこに共通するものがきっとあったはずですね。
押さえつけられたからこそそれを一気にその思いを牛へのせて出してったっていう。
方子さんという女性の存在もほんとに欠かせない大きな存在であったかと察しますけれど…。
このカップルはとても珍しいカップルですね。
まず方子さんの側から言うとね当時は朝鮮人は日本によって植民地支配されてる側ですから日本のいわば方子さんのような恵まれた家庭の女性がね朝鮮人と結婚するという事に対してはいろんな抵抗感があったはずなんですよね。
またイ・ジュンソプの側から見たらね自分たちを抑圧している側の女性ですよね。
それでイ・ジュンソプの家はかなり恵まれた家ですから逆に一族の意識が強いですよね。
そこに自分たちを抑圧してる側の女性がいわば嫁として来るわけですね。
だからこの両方は本当はというか一般的な場合はとても多くの抵抗にあって苦しんだはずなんだけどそういう事感じさせませんねこの二人は。
だからこれが普通だとは思わない方がいいと思いますよ。
お二人ともとても伸び伸びとしたといいますかね素直な人たちだった…。
方子さんの語り口もそうですね。
ある意味ひょうひょうと昔を語って頂いたりしてました。
だからとても希有なカップルだったと。
それが我々が知ってる範囲にも限りがあるかもしれないけどどんどんどんどんいろんなものを失っていく中でもそこのところが変わらないからその世界が銀紙の中に反映してるわけですよね。
だからやっぱり争いや流血や憎しみやという事に日常的に苦しめられてる人たちから見ればねもちろん大変な窮乏とか病気とかという事を経験したその代価によって得てるものだけどしかしとてもこの一方では憧れの対象であるようなそういう世界なんだと思いますよ。
イ・ジュンソプは家族への思いを募らせていました。
離れ離れに暮らす方子さんに宛てた手紙。
それは熱烈なラブレターです。
「いつも私の胸の真ん中で私をたえずあたため力づけてくれる私の貴重なただ一人の天使南徳君元気でしょうね」。
「会いたくてたまりません。
散らばった部屋の一隅で君と子供を思いお便りを書いています」。
最初は方子さんの体が治るまでの一時的な帰国のつもりでした。
(方子)その時はねまだ韓国と国交がないから…。
ちょっと…いろいろ切符を買ったりあれするのが難しかったの。
そんなに長い間離れてるとは思わなかったんですけどね。
息子たちへの手紙。
1955年イ・ジュンソプはソウルで個展を開きます。
一刻も早く家族一緒に暮らすため絵を売って資金を作ろうとしていました。
出品作の多くが銀紙画でした。
銀紙画は素材と手法の斬新さが美術界で注目されていました。
特に評価が高かったのはイ・ジュンソプが描く男と女の姿です。
「芸術は限りない愛情の表現です」。
「南徳だけを愛し愛しまた愛し熱愛し二人のきよい心にうつった人生のすべてを真に新しく制作表現すればよいのです」。
しかしこの銀紙画は当局から春画と見なされ展示の撤去を命じられます。
更に売れた絵の代金が支払われないなどトラブルに見舞われます。
次第にイ・ジュンソプは酒の量が増え食も満足にとれない体になっていきます。
方子さんに送り続けた手紙も途絶えがちになります。
「最愛なるお懐かしいアゴリ。
お便りが来なくなってもうどれほどたったでしょうか。
まさかご病気ではないでしょうね。
何とかお知らせ下さらなければいろいろ悪い事を想像して苦しくなってしまいます」。
画家のキム・ビョンギさんは幼なじみが入院していると聞き病院を訪ねました。
1956年9月6日。
イ・ジュンソプは誰にもみとられる事なく40年の生涯を閉じました。
方子さんのもとにソウルから電報が届きました。
でもその前からはもう具合が悪いって事はちょっとね他の友達からも聞いてましたんでねちょっと心配してたんですけどね…。
動乱その朝鮮戦争がなければね何のあれもなかったんですよね。
ほんと動乱がなければねもうちょっともっと人生違ってたかもしれないですよね。
イ・ジュンソプの死後再婚せず二人の息子を育て上げた方子さん。
夫の墓を訪ねる事ができるまで20年以上の年月が過ぎていました。
その手紙や銀紙画からもその思いの純度の濃度というか高さというものがあふれ出してますよね。
なぜジュンソプはあのような絵を描き続けていく事ができたんだと思いますか?えっと…それは愛情に違いないんですけどね。
近代という時代は芸術家に限りませんけど人間にこう分裂を強いるわけですよね。
絵描きたちがたくさん早死にしますけれども代表的に言うとゴッホとかモジリアーニとかもそうですけどその人たちは自分の絵を描くという欲望とそれが社会的に評価されるとか金銭的な報酬に結び付くとかいう事が分裂してるから結局ああいうふうに自分の芸術的欲望の方に忠実に生きていくと世間的に見れば不幸な死に方をするしかないんですよね。
家族と一緒に日本に行って描くっていう事はやはりできなかったんでしょうかね?まあそれは…もう今となっては謎で本人に聞くわけにはいかないんですけれども彼が描きたいもの描いたものを見せたい人々というものがある場所がやっぱり韓国だったんじゃないですか。
だから日本に来て家族と住むとやっぱり自分が自分の芸術的欲望というものを貫く事ができないというねそういう引き裂かれた状態にあったという事じゃないでしょうか。
今本当にとても複雑な世界状況の中にいる一人の人間としてイ・ジュンソプの絵からすごくこうなんか伝わるものというのが今とてもすごくあると私も今日感じたんですけれども。
まあ私の個人的な感覚ですけどね1970年代に韓国が軍事独裁で民主主義…自由が抑圧されていた時にね「灼けつく喉の渇きで」っていう詩が金芝河という詩人が書いた詩がですね当局によって禁止されたんですけど多くの人に広まりました。
その詩の中にね…。
…っていう詩句があるんですよ。
つまり立派な紙とか印刷機とか何もなくて木ぎれを拾って拾ってきたチョーク白墨で「民主主義」って書くと。
それは灼けつく喉の乾きの表現のようなものだって事ですよね。
それは70年代の話だからイ・ジュンソプの時代からまあ20年ぐらいあとの事ですけどつまりそういう状況が続きそういう状況の中で自由とか人間らしい生活を灼けつく喉の渇きのように求めてる人々がいて今もそれが続いてる。
だから彼の絵は別に言葉で今のように説明しなくてもねなんかぐっとくるなっていうようなものがあってそれの共感をする人々に支持されるという事だと思いますね。
ただ残念な事はもっとよく知られてよい人で日本にもあんまり紹介されていないし私たち朝鮮民族が分断状態にあるために北側でもほとんど知られていないというふうなねその事自体が灼けつく喉の渇きがまだ癒えていないという事のね証しかもしれませんね。
今日は本当にどうもありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。
2016/01/24(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「海峡を越えて 画家イ・ジュンソプと妻マサコ」[字]
イ・ジュンソプは、朝鮮戦争で離散した家族への愛を描き、韓国の国民的画家と言われる。その心の支えが日本人の妻、方子さん、94歳。日韓を結び生まれた作品を紹介する。
詳細情報
番組内容
韓国の画家イ・ジュンソプ(1916〜1956)は20世紀前半の戦争の時代を生きた。戦前に東京で絵を学んでいたとき、妻の方子(まさこ)さんと出会い、太平洋戦争末期に朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)のジュンソプの故郷で結婚。しかし朝鮮戦争で離ればなれになる。ジュンソプは、妻と子どもたちとふたたび一緒に暮らすことを夢見ながら、貧しい生活の中、粗末な紙や拾った釘を使って絵を描き、独自の世界を創りあげていく。
出演者
【出演】東京経済大学教授…徐京植,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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