戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(7)外国人 2016.01.23


激しい内戦が続くシリアから日本へ逃れてきたジュディ・ユーセフさん。
去年日本政府に難民の認定を求める裁判を起こしました。
ジュディさんは反政府デモに参加して命の危険を感じ4年前に来日して難民申請を行いました。
しかし日本政府は難民と認定しませんでした。
「迫害を受けるおそれがあるとは認められない」というのです。
ジュディさんは決定を不服として裁判を起こします。
日本で難民申請をした60人以上のシリア人のうち認められたのは明らかになっているだけで3人です。
難民と認められなければ日本語教育や就労支援を受けられません。
家族は家に閉じ籠もり口数が減りました。
難民の申請が急増している日本。
今難民に加えて労働者や留学生介護士など217万人の外国人が暮らしています。
これまで日本はどのような外国人政策を進めてきたのでしょうか。
戦後日本の外国人政策は60万人の在日コリアンを対象に始まりました。
外国人登録法で義務づけられた指紋の押捺。
疑問を訴える声が起こります。
日本に受け入れを求める声が世界に高まります。
外国人政策を転換。
難民の定住を認め「第二の開国」とも呼ばれます。
1990年バブル景気の労働力不足で日系人を受け入れます。
その後生まれた子どもや孫たち。
言葉の問題を抱えています。
日本社会でどのように生きるのか。
戦後日本の外国人政策を関わった人々の証言で見つめます。
戦後日本がまず向き合った外国人が在日コリアンでした。
戦争中朝鮮半島から多くの人々が動員され炭鉱などで働きました。
かつて炭鉱で栄えた大牟田市には過酷な労働で亡くなった朝鮮人の慰霊碑があります。
20年前動員に関わった地元の企業が出資して建てられました。
戦前日本の植民地下にあった朝鮮半島の人々は帝国臣民とされました。
太平洋戦争中労働力不足に直面した日本は朝鮮人を働き手に求めます。
当時炭鉱で李相鎬さんの父親も働いていました。
父親の李春雨さんは1940年出稼ぎのため日本にやって来ました。
九州の炭鉱を転々とし朝鮮半島の家族に仕送りを続けます。
(玉音放送)1945年敗戦。
当時日本には200万人を超える朝鮮半島出身の人々がいました。
多くの人が解放後の祖国に帰ります。
しかし船の不足や財産の持ち出しが厳しく制限された事もありおよそ60万人が残りました。
李相鎬さんの父春雨さんは朝鮮半島には仕事がなく日本に残り李学仙さんと結婚します。
春雨さんは14年前に亡くなりました。
解放後間もなく廃品回収業を始めた春雨さん。
(りんの音)
(読経)学仙さんは夫を支えながら日本人と共に食糧不足の時代を生き抜きます。
日本を占領統治したGHQ。
在日コリアンをどう処遇するのか。
アメリカ政府からマッカーサーへの指示です。
「朝鮮人は解放人民として処遇するが軍事上の安全が許す場合に限る」。
「必要な場合には敵国民として扱ってよい」。
戦後在日コリアンの人々は団体を組織し民族教育や労働問題について運動を始めます。
日本政府はかつての植民地支配に対する反発を恐れ警戒していました。
治安を担当した司法省刑事局の極秘報告です。
「終戦を契機として戦勝意識治外法権的錯覚を以て各種の不法行為に出でたる」。
占領下で首相を務めた吉田茂。
在日コリアンの処遇についてマッカーサーに手紙を出しました。
吉田は日本の食糧事情が逼迫している事を強調した上で次のように訴えました。
「朝鮮人の多くは共産主義者かその同調者で最も悪質な政治的犯罪を犯す傾向にあります」。
「全ての朝鮮人を本国に送りかえすべきです」。
手紙を受け取ったマッカーサー。
冷戦の緊張が高まる中在日コリアンの送還で共産勢力が韓国に拡大する事を懸念していました。
当時GHQ外交局に所属していたリチャード・フィンです。
Japan.
(拍手)1951年日本はサンフランシスコ平和条約に調印し独立を回復します。
翌年平和条約が発効する直前に日本政府はある通達を出しました。
「朝鮮人および台湾人は日本の国籍を喪失する」。
戦前帝国臣民とされた朝鮮半島の人々。
国籍選択の自由を与えられないまま外国人となりました。
1952年外国人登録法が制定されます。
外国人は生年月日や居住地を届け出て外国人登録証明書の携帯を義務づけられました。
指紋の登録いわゆる指紋押捺も義務となります。
外国人を管理する出入国管理体制も始まります。
当初の課題が朝鮮戦争から逃れ密入国する韓国人の取り締まりでした。
当時密入国者による外国人登録証明書の偽造や買い取りなどが横行。
1953年日本から朝鮮半島に送還された人は2,700人を超えました。
法務省の入国管理局一筋につとめた黒木忠正さん。
外国人に課した指紋押捺制度は当時必要だったと考えています。
1960年日本で生活する外国人の9割が在日コリアンでした。
日本の外国人政策は在日コリアンを主な対象として始まりました。
1960年代日本は高度経済成長の時代に突入します。
製鉄業で栄えた小倉は在日コリアンが集住する地域の一つです。
駅前の繁華街は仕事を終えた人々が飲み明かす夜の町でした。
この町で李相鎬さんは「岩本鎬一」という日本名を高校を卒業するまで名乗っていました。
ここですね。
在日一世の父が40年ほど前に創業したビジネスホテルです。
廃品回収から身を起こし事業を拡大しました。
うちの兄です。
どうもはじめまして。
兄弟で経営し守り継いできました。
このホテルを建設する前父親は同じ場所でキャバレーを経営していました。
(取材者)当時もう経営者でしたか?父親は経営にあたり日本人を表に立てていました。
在日コリアンは納税の義務を負う一方で社会保障から除外されるなど日本人とは異なる境遇を生きていました。
李さんの父は日本の社会に適応しながら韓国籍を取得しました。
ホテルの看板に自らの名字を示すハングルを掲げていました。
就職先も限られ自ら道を切り開くしかなかった在日コリアン。
日本社会の中で外国人としてどう生きるのかいくつもの課題がありました。
1975年南ベトナムのサイゴンが陥落します。
140万人を超えるインドシナ難民。
日本の外国人政策を大きく揺るがします。
海に逃れた難民は漁船やボートにすし詰めとなりました。
強盗に襲われ嵐に沈む船も多く命懸けで新天地を目指しました。
南ベトナムの軍人だったキリスト教徒のグエン・バン・リーさんも海を渡った一人です。
(取材者)ベトナムから持ってきて残ってるのは…?リーさんが仲間と準備した船は洋上でエンジンが故障し2週間漂流します。
船には妻と娘も乗っていました。
幼い娘と素通りするだけの船を38隻数えたといいます。
食糧も尽きて雨水で飢えをしのぎました。
インドシナ難民が日本に初めて上陸したのは1975年5月。
「第二の開国」と呼ばれる外国人政策の転換となります。
当初政府は難民の受け入れに消極的な姿勢を示しました。
1975年6月国会で法務省が答弁します。
「国土が狭隘で人口が非常に多い。
我々日本国民はずっと単一民族として今日まできた民族でございます。
外国人を受け入れる事になれているであろうか」。
増え続ける難民に一時上陸を許可した日本。
この事態に対応するため内閣府にベトナム難民対策室が設置され法務省の黒木忠正さんが責任者となりました。
政府は難民の一時上陸を許可しながらも定住は認めませんでした。
命懸けの逃避行の末に日本にたどりついた難民たち。
アメリカやオーストラリアなど第三国へ渡っていきました。
当時世界第2位の経済大国だった日本。
先進国としての役割を求める声が国際社会から上がります。
1978年5月アメリカで福田赳夫首相とカーター大統領の会談が行われます。
会談に先立ちアメリカで準備されたカーター大統領の資料。
インドシナ難民が議題に上がっていました。
アメリカは難民の定住を進めるよう強く促します。
福田首相は難民の受け入れを迫るアメリカの圧力に直面しました。
福田首相はインドシナ難民が日本で定住する事を認めます。
日本の外国人政策に風穴が開きました。
当時法務省に勤めていた水上洋一郎さん。
水上さんは政府が難民対策をどう進めたのか記録していました。
「ベトナム難民対策は国内問題であるとともに勝れて対外問題でもあった」と。
まあそういったような動きですね。
テレビや新聞で流浪するインドシナ難民の姿が日本に伝えられます。
このキャンプが開設されました当時は一日平均30人前後の人たちが亡くなっていたのですけれども…。
難民を支援しようとする気運が民間でも高まります。
当時設立された「難民を助ける会」。
2か月で2万人から寄付金が届きました。
「わたしたちはしあわせだからインドシナの人たちもはやくしあわせになってもらいたいです」。
「満州事変から満鉄社員として命がけで働いて終戦と同時に難民として内地に引揚げてきた者です。
インドシナ難民も自分の家族のように思われて何とか救助の手をさしのべたいのです」。
難民の受け入れを決めた政府。
3か月の日本語教育や就職の斡旋を行う定住促進センターを神奈川県と兵庫県に開設します。
(取材者)難しいですか?はい難しいです。
(取材者)日本人の友達いますか?はい友達います。
難民たちは日本語と共に日本の生活習慣や社会のルールを学びました。
妻と娘と共に来日したリーさん。
(取材者)実際じゃあこの資格を使って仕事もしてた?そうですね。
リーさんは日本語と仕事の資格を何年もかけて身につけました。
日本での生活は30年を超え4人の孫にも恵まれました。
インドシナ難民の多くが定住促進センターがあった神奈川県と兵庫県で暮らしました。
金属工場や電気器具組み立て工場など中小企業の貴重な労働力となります。
1978年に始まったインドシナ難民の定住。
翌年500人を目標にした受け入れは年々拡大し最終的に1万1,000人を超えました。
定住が進むと共に明らかになったのが日本語教育の課題です。
難民の多くが3か月では十分に日本語を学べず職場や地域社会でのトラブルが報告されました。
(取材者)おいくつですか?はい私は42歳です。
(取材者)日本語難しいですか?あまり難しくないです。
しかし定住促進センターの日本語教育は10年近く3か月のまま延長されませんでした。
内閣官房が1997年に行った難民の調査報告。
言葉の問題は誤解や精神的ストレスを引き起こす重要な問題とされています。
調査で健康に不安があるとした難民112人のうち27.7%が精神的な健康に問題があると答えました。
群馬県に心を病んだベトナム人たちが暮らす施設があります。
37年前に創設されたあかつきの村。
精神保健福祉士が管理する社会福祉法人のグループホームです。
ベトナム難民の精神障害者を受け入れてきました。
入居者たちは日本語を十分に話せず職場になじめずに施設にやって来ました。
統合失調症や対人恐怖で社会復帰は難しいと診断されています。
佐藤明子さんは15年以上住み込みで入居者を世話してきました。
心を痛めた難民たちの中には施設で亡くなった人もいます。
命を絶った男性は仕事を転々として行き場を失った末に施設にやって来たといいます。
繰り返し書いてあるんですよね。
こちらのちょっと見えない所ですけど「お父さんお母さん私はどうしてこんなに苦しまなければいけないのか。
役に立たないものになってしまった」という事とかいろんな事を書いてるんですよね。
「日本の犬」と書いた男性は焼身自殺でした。
来日してからおよそ10年。
知人や友人はほとんどいなかったといいます。
施設では定期的にベトナム料理を作ります。
ねえトゥさんこの間15本食べたね。
故郷を思い出せるものを難民たちは楽しみにしています。
手に入れるのが難しいベトナムの野菜は佐藤さんたちが栽培しました。
仕事になじめず社会で孤立していたインドシナ難民たち。
難民たちのついの住みかになれるよう佐藤さんたちは取り組んでいます。
インドシナ難民の受け入れを決断した日本。
既に定住していた在日コリアンに対する政策も見直しを迫られます。
そのきっかけとなったのが1981年難民条約への加入です。
承認するにご異議ありませんか。
異議なし。
難民条約には内外人平等の原則が定められています。
国内に滞在する難民に自国民と同一の待遇を与えるものです。
政府は日本に在留する全ての外国人に同一の待遇を与える必要に迫られました。
在日コリアンに対し日本政府は国民年金の加入や児童手当の支給を始めます。
小倉で岩本鎬一という日本名を名乗っていた李相鎬さんはこのころ東京に進学し本名を名乗りました。
ビジネスホテルを経営していた在日一世の父親。
李相鎬さんは父と異なり日本で生まれ育った二世としてどのように生きるか考えるようになりました。
大学を出た李相鎬さんは神奈川県川崎市に移り住みます。
在日コリアンの子どもたちが通う幼稚園に勤めました。
社会保障など在日コリアンの処遇が改善されながらも李相鎬さんは日本の外国人登録に残されたある制度に疑問を感じていました。
1952年に始まった指紋押捺制度です。
14歳以上の外国人は指紋の登録が義務づけられていました。
1980年代外国人に対する差別の象徴として問題になります。
指紋の押捺拒否を李相鎬さんは決意します。
その原点は14歳の時にありました。
在日一世の多くがしかたがないと受け入れてきた指紋の押捺。
二世たちは「人さし指の自由」を掲げ指紋押捺拒否の運動を広げていきました。
一方で李相鎬さんのもとには抗議の手紙が次々と届きました。
「何故貴方達は指紋押なつを拒否するのでしょう。
そんなに日本の法律にさからうのでしたらさっさと日本から出ていって下さい。
山梨在住のOL」。
当時入国管理局に勤めていた水上さん。
指紋押捺拒否の急増を受けて対応策を協議しました。
ノートには当時行われた話し合いの内容が記録されていました。
法務省がとった方針は「法治国家の維持」。
指紋押捺を拒否する者には地方自治体が刑事告発するよう促しました。
1985年5月8日。
李相鎬さんは出勤の途中外国人登録法違反の容疑で逮捕されました。
警察署には在日コリアンの人々が駆けつけ抗議の声を上げました。
その中には日本人の姿もありました。
向こうの桜本の方から…その一人山田貴夫さんです。
山田さんがデモに参加したのには理由がありました。
当時川崎市役所職員として指紋の押捺を担当していたのです。
その後李相鎬さんは国から起訴され裁判で争います。
指紋押捺の拒否に立ち上がった在日二世の姿を見て在日一世も拒否を始めます。
その動きは次第に広がり拒否の数は1万件を超えました。
指紋押捺制度の廃止を訴える声は日本人と外国人国籍の壁を越えて支持を集めます。
韓国政府も日本に指紋押捺の廃止を度々要請しました。
在日コリアンの指紋押捺は1993年に廃止されます。
2000年には外国人登録法による指紋押捺制度が全廃されました。
在日コリアンを主な対象に始まった日本の外国人政策。
その大きな転換点となりました。
バブル景気が過熱した1980年代後半。
日本の外国人労働者をめぐる議論がにわかに高まります。
製造業など若者が敬遠しがちな厳しい職場は深刻な人手不足に直面していました。
経済界からは外国人労働者の受け入れを求める声が上がります。
東京商工会議所はヨーロッパを調査するなど積極的に提言しました。
設備工事会社の役員だった金成賛さんも西ドイツやフランススウェーデンを調査しました。
当時450万人の外国人が暮らしていた西ドイツ。
トルコやユーゴスラビアなどからの移民が労働力不足を補っていました。
金成さんは帰国したあと東京商工会議所に報告します。
「外国人労働者の受入について。
外国人労働者の受入は不可避だと思う」。
1988年日本政府は外国人労働者の受け入れに関する方針を示します。
労働省が発表した雇用対策基本計画。
国内労働市場や社会生活に外国人が悪影響を及ぼすおそれを指摘しました。
「専門技術的な能力」を持つ外国人は受け入れながらもそれ以外の労働者には次のような方針を示していました。
「いわゆる単純労働者の受入れについては十分慎重に対応する」。
単純労働者を受け入れない中で労働力不足の穴を埋めたのが観光ビザで入国した不法就労の外国人でした。
こんにちは。
どうもどうもいらっしゃい。
当時法務省に勤めていた坂中英徳さん。
不法就労の急増と労働力不足の解消という難題に取り組みました。
坂中さんは出入国管理法の改正に知恵を絞ります。
目をつけたのはかつて日本からブラジルやペルーなど南米各地に移住した日系人たちでした。
坂中さんは日系人が日本で働く道を開くため出入国管理法が定める在留資格の見直しに取り組みます。
もともと日本国籍を所持していた移民一世は日本で働く事ができました。
法改正では移民一世の配偶者や子どもに「日本人の配偶者等」また移民二世の配偶者や子供に「定住者」という新たな在留資格を設けました。
これにより移民二世三世まで日本で働けるようになったのです。
法改正によって多くの日系人が日本にやって来ました。
1990年に来日した日系三世の藤田パウロさんもその一人。
ブラジルでは宝石の職人でしたが店が度々強盗に遭い移住を決意しました。
日系人に対し政府による日本語教育などはなくパウロさんは来日してすぐトヨタの下請けだった自動車部品の工場で働き始めます。
働きぶりが認められ正社員に登用されたパウロさんは技能検定試験にも合格。
定年まで15年勤めて感謝状をもらいました。
1990年の法改正により日本に在留するブラジル人は急激に増加します。
ピーク時には32万人に達しました。
日系人たちは自動車産業や精密機械産業が盛んな関東や東海地方などに集まりました。
愛知県豊田市の保見団地もその一つです。
もともと日本人が暮らしていた団地に日系人やその家族が移り住むようになりました。
2001年の保見団地です。
会社が寮として借り上げたため全世帯の3割以上が外国人となっていました。
残業をいとわずに働く日系人は日本の産業を底辺で支えます。
当時政府は日系人のためには日本語教育などの制度を設けませんでした。
やがて保見団地では日本人との間に軋轢も生まれます。
藤田パウロさんも暮らしていました。
日本人の住民も外国人の増加に伴うトラブルに悩まされるようになります。
団地に住んで40年近くになる板谷真一さんです。
特に深刻なのが団地にあふれるゴミの問題だといいます。
入って。
板谷さんは一部の外国人がルールを守らない事が団地の安全を脅かしていると感じてきました。
外国人にルールを守るよう呼びかけても言葉の壁などから解決していません。
新たな労働力として日本が受け入れた日系人。
住民として地域社会にどう迎え入れるのか。
課題を残していました。
日系人が自動車などの基幹産業で働く一方地方の中小零細企業では労働力不足が深刻になっていました。
こうした中1993年日本は新たに外国人技能実習制度を始めます。
外国人技能実習制度とは開発途上国などの人材育成を通じて日本が国際貢献を果たす事を目的とする制度です。
農業や食品加工繊維関係など定められた職種で外国人の実習生を受け入れます。
実習生は日本で働きながら技術や知識を身につけ収入を得る事ができます。
労働省で技能実習制度の創設に関わった南本禎亮さんです。
中国ベトナムインドネシアなどからやって来た外国人技能実習生。
1年間の研修後技能検定に合格すれば更に2年合計で3年まで日本に滞在できます。
原則として職場を移動する事はできません。
学んだあと出身国に戻り経済発展を担う事が期待されています。
受け入れ企業はその3分の2が従業員19人以下の零細企業です。
実習生には労働基準法が適用され賃金や残業代が支払われます。
しかし厚生労働省の調査によれば監督指導した機関の8割で賃金の不払いや長時間労働などの法律違反が認められています。
更に実習生に対する人権侵害の事例も報告されています。
実習生から相談を受け支援を行うボランティア団体です。
2009年には一人の中国人実習生を保護しました。
縫製工場の実習生だった施春紅さん。
携帯電話を取り上げようとした経営者に抵抗し殴られました。
その直後の様子を実習生仲間が撮影していました。
この映像は裁判所に提出され工場側は180万円の損害賠償を支払いました。
この工場では実習生が携帯電話を持つ事を禁止していたといいます。
施さんはその後中国に帰国しました。
今紳士服の販売員として働いています。
年収はおよそ55万円。
技能実習制度で得た収入の方が大きかったと言います。
夫と息子と共に暮らす施さんは帰国後念願のマイホームを手に入れました。
技能実習生として働いた施さんの3年間は3LDKのマンションに変わりました。
ボランティア団体の代表長谷川清司さん。
これまで400人に上る実習生の相談を受けてきました。
現在外国人技能実習生は18万人。
その出入国を管理する法務省は監査体制を強化し実習生の連絡窓口を整備するなど対応策を進めています。
そして今。
世界は400万人を超えるシリア難民に揺れています。
ドイツのメルケル首相が積極的に難民を受け入れる中イギリスやフランスも相次いで受け入れを表明しました。
(銃声)しかし去年11月に起きたパリ同時テロ事件により状況は一変します。
実行犯の一人が難民に紛れて入国した可能性が指摘され受け入れを見直す動きが広がっています。
日本にもシリア人は逃れてきています。
4年前に来日したジュディ・ユーセフさん。
反政府デモに参加して命の危険を感じシリアを離れて日本で難民申請を行いました。
政府はジュディさんに人道上の配慮から在留許可を与えましたが難民の認定をしませんでした。
反政府デモへの参加は一般的に危険であってもジュディさん固有の危険性ではなく「迫害を受けるおそれがあるとは認められない」という理由でした。
法務省は日本が加入した難民条約にのっとって難民の認定を行っているとしています。
これまで難民申請を行った60人以上のシリア人のうち認められたのは明らかになっているだけで3人です。
去年ジュディさんは日本政府に難民認定を求める裁判を起こしました。
お元気ですか。
ジュディさんはNPO団体のサポートを受けながら埼玉で生活しています。
難民認定を希望するのは家族のためです。
難民と認められれば就労支援や日本語教育を受ける事ができます。
ジュディさんは妻と6歳の娘4歳の息子と暮らしています。
あいうえおさしすせそ…。
ジュディさんは子どもに荒れた祖国ではなく日本で教育を受けてほしいと願っています。
あいうえお…。
しかし現在は子どもを幼稚園に入れる事も難しく日本語に接する機会も限られています。
去年9月。
安倍総理はシリア・イラク難民について972億円の支援を表明しました。
(歓声)2020年の東京オリンピックを開催する事になった日本。
政府は建設需要に対応し外国人を緊急的・時限的措置として受け入れる事を決めました。
今人手不足が深刻な介護の現場ではインドネシアやフィリピンの研修生が働いています。
どうぞ。
どうですか?うまい。
よかったね。
敗戦直後日本で暮らす外国人の9割が在日コリアンでした。
インドシナ難民日系人の受け入れを経て現在217万人の外国人が暮らしています。
日本人と外国人が葛藤を抱えながらも共に暮らしてきた保見団地です。
今では全世帯の63%が日系人などの外国人になりました。
法改正で日系人が来日するきっかけを作った坂中英徳さん。
法務省を退職後は移民の受け入れを提言し全国各地で講演や視察を行っています。
日本が日系人を受け入れてから25年が過ぎました。
今大きな問題として浮上しているのが子供の教育です。
あなたの欲しい道あなたが行きます。
「行きたい道に行ける」?そう。
子どもたちは日本語の習得が十分でなく母国語を話す機会も減っています。
保見団地ではNPO団体が学習支援を行っています。
国は2009年に日系人の子どもに向けた就学支援事業を始め学校やNPOに補助金を支給しました。
ゲームを作るの?ああいいねえ。
あなたは?大学。
ああいいねえ。
あなたは?日系人を受け入れる道を開いた坂中さん。
外国人の子どもが日本で生きていくために何が必要だったのか問い直しています。
戦後70年にわたって日本で生きてきた在日コリアンの人々。
李相鎬さんは指紋の押捺を拒否して以降日本社会の中でどう生きるか考え続けてきました。
去年10月心を痛める出来事がありました。
戦争中に動員され亡くなった朝鮮人の慰霊碑。
碑にはシールを貼られスプレーで落書きがされていました。
慰霊碑が汚された事は在日コリアンだけでなく地元の日本人にとっても衝撃でした。
毎年春碑の前では在日コリアンと日本人が出席して慰霊祭が行われてきました。
碑に供える100本余りの白い菊は日本人が育て毎年欠かさず手向けています。
日本人と在日コリアンをつないできた慰霊碑。
碑を元どおりにし李相鎬さんたちは春に再び慰霊祭を開きます。
外国人と日本人が共にどう生きていくのか。
保見団地では長年模索を続けてきました。
言葉や文化の壁を乗り越えるため交流の場をつくっています。
15回目を迎えた秋祭りもその一つです。
祭りの目玉は餅つき。
日本人と外国人が代わる代わるつきます。
かつて日本人との関係に悩んだ日系人の藤田パウロさん。
団地のゴミ問題に取り組む板谷真一さん。
共に祭りを楽しみます。
異国の人々と共に生きる社会をどう築くのか。
今私たちが問われています。
2016/01/23(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(7)外国人[字]

難民問題に世界が揺れる今、日本には約200万人の外国人が暮らしている。戦後、難民や外国人労働者とどのように向き合ってきたのか。日本の外国人政策を見つめる。

詳細情報
番組内容
シリア難民に世界が揺れる今、日本には約200万人の外国人が暮らしている。戦後、日本は難民や外国人労働者とどのように向き合ってきたのか。在日コリアンから始まった外国人政策。1970年代後半、“第二の黒船”と呼ばれたインドシナ難民を受け入れ、90年代には日系移民、さらには外国人技能実習生と時代の要請に応えてきた。外国人や法務省などの関係者の証言で戦後70年の歩みを見つめ、共生への道をさぐる。
出演者
【語り】森田美由紀

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

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