あの日濁流に飲み込まれた集落。
5年前ここで一人の男性が命を落としました。
全身の筋力が衰える難病筋ジストロフィーでした。
その時ちょうどヘルパーはいませんでした。
近所に住む親族が駆けつけたといいます。
佐藤さんは10日後がれきの下から見つかりました。
東日本大震災では…被災した市町村への調査では…それから5年。
佐藤さんを支援していた福祉事業所では死亡率2倍の格差を乗り越えようと障害者の防災について研修を繰り返しています。
障害者の避難訓練は地域の人と一体になって取り組んでいます。
今日本は障害のある人もない人も共に暮らせる社会に向けて大きく動き始めています。
4月には障害を理由にした差別を禁止する法律が施行されます。
戦後70年障害者の福祉はどのように歩んできたのでしょうか。
戦後障害者の福祉は困窮した傷痍軍人の訴えから始まりました。
高度経済成長期。
障害のある子を抱える親たちの訴えが国を動かし障害者施設が次々と造られます。
ところが1970年代障害者たちが施設は社会からの隔離だと行政に激しく抗議します。
1981年国連の国際障害者年。
障害者も地域で他の人と同じように暮らすべきだという考え方が広まります。
2005年障害者に金銭的な負担を求める新しい制度が波紋を呼びました。
戦後の障害者福祉を重度の身体障害者を中心に行政や支援者の証言でたどっていきます。
身体に障害のある子どもたち190人が学んでいます。
1932年日本で初めての肢体不自由児の公立学校として設立されました。
校長室に一本の16ミリフィルムが保管されています。
(男性)これですね。
その中に太平洋戦争中の子どもたちの様子を捉えた映像がありました。
当時こうした学校は数少なく障害のある子どもが学校で学ぶ事自体珍しかったといいます。
軍事教練に取り組む様子も写されていました。
この学校の卒業生…脳性まひのため手足や言語に重い障害があります。
戦争中障害者は肩身の狭い思いを強いられたといいます。
徴兵検査を受けるため父親と車で出かけた時の事です。
敗戦を迎えた日本。
GHQの占領下で戦後のスタートを切ります。
焼け野原となった町で人々は物不足の中困窮生活を強いられました。
戦争は数多くの障害者を生みました。
戦闘で障害を負った傷痍軍人は32万人に上りました。
非軍事化政策を進めるGHQは軍人恩給など傷痍軍人への支援の打ち切りを命じます。
生活に困窮した人々は街頭などで募金を訴えました。
乗っていた戦艦が爆撃を受け両目を失明した川人義明さんです。
救済を求める傷痍軍人たち。
しかしGHQの占領下政府は救済に動けませんでした。
そんな時アメリカから一人の女性が来日します。
三重苦の障害で知られるヘレン・ケラー。
社会活動家として活躍していました。
ヘレン・ケラーは全国を講演して回り政府やGHQとも懇談。
身体障害者への支援を訴えます。
これを機に政府は傷痍軍人だけでなく身体障害者全体に対象を広げた法律をつくります。
1949年日本で初めて出来た障害者のための法律…義足や義手などの給付や職業訓練など社会復帰を目的としたものでした。
一方で法律の対象とならなかった人たちもいます。
これは厚生省が発行した法律の手引き書。
「更正の見込みの全くないとみとめられる頗る重度の障害者は含まない」。
徴兵検査で屈辱的な体験をした花田春兆さんです。
法律の対象外となった重度の障害者は家族による保護に頼るしかなかったといいます。
花田さんは1947年障害者のための文芸雑誌「しののめ」を立ち上げます。
重い障害のある人たちが詩や俳句などで思いを吐露していました。
ある男性の詩です。
(朗読)「四角い窓」。
「ぼくは空の広さを知らない。
空はしょっ中黒い木のわくにおさまった四角いもの」。
この詩を作った横田弘さん。
脳性まひによる重度の身体障害がありました。
子どもの頃障害のため学校に通えず文字は家で兄から「イロハ積み木」で教わったといいます。
(取材者)自分が障害者なんだという事を意識した最初ですか?
(横田)そうですね。
1957年「しののめ」に作品を投稿していた脳性まひの人たちが仲間同士で集まり交流するための会を結成します。
「青い芝の会」です。
同じ障害の仲間が欲しいと会に参加した小山正義さん。
会員を集めるため一軒一軒訪ね歩いたといいます。
「青い芝の会」はこれまで家に閉じ籠もるしかなかった重度の身体障害者たちが外に出て仲間と触れ合うきっかけとなったのです。
1960年代日本は高度経済成長期を迎えました。
生活水準を引き上げたり雇用を拡大する。
そしてまた社会保障制度をやっていくという事は結局経済の拡大発展です。
池田勇人首相は所得倍増計画を打ち出します。
そんな中重い障害がある子どもにも目を向けてほしいと親たちが声を上げました。
立ち上がったのは体の障害だけでなく重度の知的障害もある「重症心身障害児」の親たちです。
呼吸や栄養の管理など常に介助が必要なため疲れ果て絶望的な日々を送っていました。
親たちは「重症心身障害児
(者)を守る会」を結成。
国に支援を求める活動を始めます。
会の立ち上げに参加し長年会長を務めてきた北浦雅子さん。
現在94歳です。
次男の尚さんは生後7か月の時予防接種を受けたあとに突然けいれんし重い障害が残りました。
死ぬより他に道はないって事ですよ。
この子残して死ねないもの。
北浦さんは初めて厚生省に陳情に行った時の事が忘れられないといいます。
厚生省の人が「障害が重くて社会の役に立たないものに国のお金は使えません!」って。
この言葉にはショックでしたね。
だけど私たちはたとえねどんなに障害が重くても一生懸命生きてるんですと。
この命を守って下さい。
また社会のね一番弱い子を切り捨てた場合にはその次の人が切り捨てられますよ。
それでもいいんですか。
1963年雑誌「中央公論」に寄せられた訴えが話題を呼びます。
「拝啓池田総理大臣殿」。
書いたのは当時国民的作家となっていた水上勉さん。
総理大臣に宛てて重度の障害児のための予算や施設の充実を訴えたのです。
水上さん自身にも重い障害のある娘がいました。
これを機に重症心身障害児の問題がクローズアップされ社会問題となっていきます。
池田首相は対策を検討するよう厚生大臣に指示しました。
その後開かれた「重症心身障害児
(者)を守る会」の年次総会は大きな注目を集めました。
この時首相は佐藤栄作に代わっていました。
その代理として橋本登美三郎官房長官が出席します。
親が3人ぐらいがもう涙ポロポロこぼしながら「子どもと一緒に死ぬより他ない」とかね「主人が病気で子どもの世話ができない」とかね。
親たちの話を聞いた橋本官房長官の挨拶に会場は息をのみました。
ご自分で用意した祝辞をね机の上にバーンと置いて。
「皆さん方の悲しみを悲しみとして受け取るだけの政治家に愛情がなかったんだ。
これからは国で皆さん方をお守りします」って言い切って下さったんです。
こっちはびっくりしちゃった。
「悲しみをね悲しみとして受け取るだけの政治家に愛情がなかったんだ」って事おっしゃったんでもうびっくりしちゃった。
その5日後北浦さんたちや専門家が佐藤首相に呼ばれ懇談会が開かれます。
その時に佐藤総理がね……という宣言をなさったのよ。
そこでコロニーって話も出てきたんだけど。
コロニーとは当時ヨーロッパにあった障害者のための大規模な居住施設です。
障害の種別も程度もさまざまな人が集まり支援者と共に共同生活を送っていました。
こうした海外の取り組みをモデルに日本でもコロニーの建設が始まりました。
1971年群馬県高崎市の山を切り開き国立コロニー「のぞみの園」が誕生します。
全国から500人が入居しました。
(ピアノ)それまで家の中に閉じ籠もっていた障害者たち。
コロニーは一生安心して暮らせる場所として始まりました。
鈴木昭彦さんは開設当初から37年間勤め上げました。
ほっとしたというのがね親御さんのまず第一印象。
だから結局…やっと安堵する場所が見いだされたって事でしょうね。
しかし障害者にとってはふるさととの永遠の別れでもありました。
まあちょっとねこれも悲惨な例ですけど例えばその…特に某ある県のある町なんですけどね。
今だったら考えられないですけどね。
こうして親たちの訴えをきっかけに日本の障害者政策は入所施設の充実へと舵を切っていきます。
厚生省が1970年に出した長期構想ではコロニーを各都道府県に設置その他の障害者施設も3倍から4倍のペースで整備すると目標を掲げています。
実際に日本の障害者施設はその後順調に増え続けていったのです。
このころある障害者施設を舞台とした映画が話題となります。
職員が一人一人に愛情深く関わりその力を伸ばそうとする姿が感動を呼びました。
映画を製作したのはこの施設を始めた宮城まり子さんです。
戦後歌手女優として活躍した宮城さん。
41歳の時私財を投じて施設を開所しました。
きっかけは駅前で大人に交じって一人靴磨きをする子どもを見かけた事でした。
何というかわいそうな事だろうと思って。
いろんな所へ勉強に行きましたよね。
病院とか。
いろんな病院。
体の悪い子の知恵の遅れてる子のとこ聾の子。
そういうとこ行きましたね。
それからず〜っと気になって気になって気になって気になって。
有り金全部で建てたの。
ただ愛してる。
ただ心配。
ただ優しくしたい。
そういう気持ちばっかりで始めました。
(笑い声)大きなパンになれ!宮城さんが子どもたちの可能性を知ってほしいと製作した映画は大ヒット異例のロングランとなります。
街なかで障害者の姿を見かける事がほとんどなかった時代。
障害のある子どもたちに愛を持って接する姿勢が多くの人の心を打ったのです。
1970年代人々が高度経済成長を謳歌する中社会と障害者の関わりが変わっていきます。
新たな切り口で障害者の問題に取り組んだ人がいます。
原さんは若い頃養護学校の介助職員として働いていました。
戦前から障害のある子どもの教育に取り組んでいた光明養護学校です。
その時生徒たちの生き方に疑問を持ちある提案を持ちかけます。
お前たちは生まれてね学校来るのも親から車に乗せられて送ってくると。
それで学校の中にいてさえね教室の移動さえ全部車いすに乗せられて介助職員が移動するんだろうって。
お前たちの自分の身体ってお前どこにあるんだ。
ありゃしねえじゃないか。
お前どう思ってんだみたいな事で。
電車に乗って街へ出ようという事やってみようと。
彼が住んでたのは小田急線の梅ヶ丘。
電車が来ます。
ドアが開きます。
それはもう難なく電車の中に乗れるんですよね彼らは。
電車の中に乗って私はドア一つ隔てて乗って様子を見てたんです。
多分電車の中に車いすの人がそこに存在するっていう風景があんなにもすさまじいものかって。
見た事多分ないんです観客は。
彼らにとって…観客じゃない乗客だ。
乗客にとって見た事もない車いすの人間がそこにいるという事だけでねそこの場がつまりフリーズしちゃうんですよね。
これには驚きました。
あのね今からこんな事言っても信じられないかもしれませんがほんとにそうなんです。
固まったようになるんですよ。
まるで異物を見るようなその少年を見るまなざしが。
はたから見てて分かりますもん。
そこのほんとにそのかたまりだけね。
この経験をもとに映画作りを思い立った原さん。
声をかけたのが脳性まひの人たちが交流していた「青い芝の会」でした。
1972年に公開された映画です。
CPとは「脳性まひ」の事です。
「青い芝の会」の横田弘さんたちが障害のある体をさらけ出して街へ出る様子を撮影したドキュメンタリー映画。
当時「障害者をさらし者にしている」と議論を巻き起こしました。
この時「青い芝の会」の人たちには社会に向けて訴えかけたい事がありました。
当時施設が増え始めたとはいえ入所していた障害者はまだ全体の3%ほどでした。
施設への入所を断られ脳性まひの娘が母親に殺される事件が起きます。
こうした事件は頻繁に発生していました。
介護に疲れ将来を悲観して子どもを殺す親に対して多くの人々は同情的でした。
裁判所の判決も他の殺人事件に比べ刑が軽くなる傾向にありました。
「障害児を殺した親も同じように罪に問われるべきではないか」。
「青い芝の会」は重い障害のある当事者の立場から訴えたのです。
路上で訴える「青い芝の会」の人々。
(取材者)なぜカンパをしましたか?
(女性1)気の毒でねもう何とも言えないもんですから。
(女性2)かわいそうだからってあげまして。
(男性)気の毒で。
我々は満足な体でね。
(女性3)なんか同じ人間でもねどうしてねあんなふうに体が悪いかと思って。
映画では街の人々の反応を執拗に聞き出しています。
(取材者)どんなとこがですか?
(女性4)かわいそうっていうかもしも自分の子がねそうであったらと思いまして。
子どもが3人いますし。
(女性5)自分の生活が安定しているから。
気の毒だからですよそれはもう。
だって同じ人間なのに結局不運にしてああいうふうになったわけでしょ。
だから。
そうじゃないですか。
健常者が障害者に寄せる同情や哀れみという「愛」。
しかしそれは健常者の価値観だけに基づいた「正義」ではないのか。
横田さんたちは障害者と健常者の間に埋めがたい溝がある事に気付いてほしいとある宣言を出します。
「われらは愛と正義を否定する」。
この映画は全国の障害者に大きな影響を与えました。
福島県郡山市に映画をきっかけに人生が変わったという人たちがいます。
脳性まひの…そして白石さんの養護学校時代からの友人…当時2人は街へ出ると度々露骨な差別を受けたといいます。
映画を見て障害者が自ら主張する事の大切さに気付いた2人。
「福島県青い芝の会」を結成します。
こうして「青い芝の会」は全国20以上の都道府県に広がり会員数は3,000人に達しました。
1976年川崎市の路線バスで車いすでの乗車が拒否されるという問題が起こります。
「青い芝の会」の人が事務所に行く時に使う路線でした。
バス会社は安全確保のため介助者が付き添い車いすから座席に移らなければ乗せられないと主張。
「青い芝の会」は車いすのまま乗車できるように交渉しますが認められませんでした。
翌年4月およそ40人の会員が支援者と共に川崎駅前に集まり無理やりバスに乗り込みます。
乗車を認めないバス会社に抗議するための行動でした。
バス会社側はそれを阻止しようとしてもみ合いになります。
車いす乗りたいんです!なんで乗られんのかよ〜!ちょっとあけて。
あけて〜!バスの前に横になり運行を妨げる会員もいました。
この騒動でおよそ30台のバスが運行をストップ。
足止めされた乗客たちは不満の声をぶつけました。
結局バス会社の車いすへの対応は変わらないままでした。
「どれだけ訴えれば世の中は変わるのか」。
「青い芝の会」の行政への訴えは激しさを増していきました。
「青い芝の会」の陳情に対応した…「団交団交」っていってですね交渉しろと。
俺たちの意見を聞けと。
まさにここで夜を徹してですねいろいろ話し合うんだと。
そういうすごい意気込みと熱意みたいのがあってですね。
我々もこれは大変だと。
今日も徹夜かみたいなですね。
そういう中で…行政を進めていくという立場からはですね彼らの主張は理解しても今は少しずつ行政を前に進めていかざるをえないんだという意味で彼らの主張にはなかなか応えきれないついてけないなと思いました。
同じ頃障害者施設の在り方に障害者の側から問題を投げかける動きも起こります。
舞台となったのは…1968年革新都政美濃部都知事の目玉政策として誕生。
最新の設備を整えた施設で当時「東洋一」とうたわれました。
医師や看護師福祉指導員などスタッフ総勢180人で定員400人に対応する体制でした。
この施設に7年間入所していた三井絹子さんです。
脳性まひによる障害で体のほとんどを動かす事ができません。
7人きょうだいの5番目として生まれた絹子さん。
早くに父親を亡くし母親を心の頼りにしてきました。
しかし二十歳の時一番上の兄が結婚し親と同居する事になります。
兄の提案で母親と離れ施設に入る事になりました。
(泣き声)できたばかりの府中療育センターに入所した絹子さん。
初日から衝撃を受けました。
絹子さんはその後施設での対応に更に不信感を高めていきます。
(取材者)2時間トイレに置かれたままだったんですか?こうした不満は少しずつ入所者の間に広がっていきました。
(聞き手)あなたはここに入ってよかったと思ってますか?悪かったと思ってますか?
(聞き手)一人でいる時間がほしいと思いますか?絹子さんたちはセンター側に待遇の改善を訴えました。
なぜこうした事態が起こっていたのか。
府中療育センターを管轄する東京都衛生局の職員だった…基本は病院なんですよね。
で併せて社会福祉施設という二重性格。
でも基本は病院なんです。
センターに入所した人のおよそ半数は体の障害だけでなく重い知的障害もある「重症心身障害者」でした。
自分で呼吸や栄養の管理ができない人も多く医療的ケアが欠かせません。
しかし同時に絹子さんのように体の障害は重くても医療的ケアを必要としない人も多くいました。
今から思えばこの人たちは間違いなく福祉の対象者で医療の対象者じゃないですね。
重度の身体障害者っていうのは病人じゃないんですよね。
病人でない人たちに対する対応が全部病院なんですね。
それこそ起床時間必ず毎日検温と食事の時間夕食なんて4時なんていうそういうのも決まっちゃって自由行動が取れないと。
特に言われたのがあれでしたね。
女性の入浴に男性の介護がつく場合があると。
とても耐えられないという。
障害があるという事を除けば普通に生きていける人間を病院の規則で拘束しているという事を直せという。
当時都の担当者や専門家が施設運営のあり方を検討した委員会。
医療の必要の程度が違う人たちを同じ場で処遇する事は酷であり愚かであると認めています。
これを受け東京都は医療の必要が少ない身体障害者を別の施設に移す事を計画。
しかし当の本人たちへの意思確認はなく移転先は町から離れた山の中の施設でした。
絹子さんたちは「たらい回しにするのか」と反発移転を拒否します。
学生運動に取り組む若者たちが支援に入り反対運動は激しさを増しました。
1972年9月都庁前にテントを張り座り込んでの抗議行動に訴えたのです。
障害者の方が自分たちがルールは決めるんだという主体性をすごく重く見た人たちだったですね。
我々が決める。
普通の生活はみんな自分で決めてるじゃないですかと。
なんで施設へ入るとみんな枠をはめられてルールがあって規制されるんですかっていうところだったんじゃないかと思いますけどね。
全くねなんていうか私どもが生かしてあげてるんだみたいな事をみんな上から目線だったでしょうかね障害者に対してね。
テントが張られて1年9か月後絹子さんたちと美濃部都知事が会談しようやく合意に至ります。
強制的な移転を中止しセンターを生活に適した場にするため協議会を作って話し合う事になりました。
絹子さんたちは施設を中心とした政策は障害者自身の意思を尊重しているのかと問いかけたのです。
その後絹子さんは支援者だった男性と結婚。
府中療育センターを退所します。
自分の意思で自由に生きる道を選びました。
(チャイム)1979年NHKで放送されたドラマ「男たちの旅路」。
その中で障害者と社会との関わりが描かれています。
こんにちは。
待ち合わせですか?随分来ない人いるんですね。
もう1時間以上待ってるんじゃないですか?行きますよ。
外まであんた出して下さい。
え?こんな所にさ6台もいればどいてくれって言う方が当たり前でしょ!障害者は人に迷惑をかけていいのかどうかをテーマにしました。
いくら車いすの人だって人に迷惑をかけていいって事はないんじゃないですか?しかし…それが君たちを縛っている。
迷惑をかけまいとすれば外へ出る事ができなくなってしまう。
だったら迷惑をかけてもいいんじゃないのか?ギリギリの迷惑はかけてもいいんじゃないのか?人に迷惑をかけたくないと家に閉じ籠もっていた車いすの女性が初めて人の手を借りて階段を上がるラストシーン。
誰か…。
どなたか私を上まで上げて下さい!私を上まで上げて下さい!どなたか私を上まで上げて下さい!このドラマの脚本を手がけた…当時ドラマを見た障害者にこう言われたといいます。
「迷惑をかけていい」というセリフは健常者ではなく障害者が自ら言うべきではなかったか。
でもねドラマとして普通の人が見てると普通の人っていうのかな多くの人が見てると…体の不自由な人たちが何人も出ますですね。
そして俺たちは迷惑をかけていいんだって言ってそうだこれからは積極的に迷惑かけようって言ってそれでドラマが終わったら何となくみんなむっとするというかな。
それで僕はその人たちはそこまでは言えてないんだけど鶴田浩二さんというつまり年長のねものの分かった人が君たちはいいんだギリギリの迷惑かけてもいいんだかけようって思わなきゃいけないって言って最後のシーンで階段を上まで上げて下さいってやっと言える話にしたんですよね。
身障者の人たちが後ろから背中を押されたような形で迷惑をかけようっていうふうになるって事はあの時代としては僕は手続き上やっぱり必要だったと思います。
1981年日本の障害者福祉は大きな転換点を迎えます。
きっかけは「国際障害者年」。
国連の世界的キャンペーンです。
・「地球はきょうも息をしている」・「町には人が流れている」・「優しさ気づいて空を見上げれば」この国際障害者年を機にヨーロッパで生まれた「ノーマライゼーション」という理念が伝わります。
障害者が本人の意思に基づき施設ではなく地域で他の人と同じように暮らす権利があるという考え方です。
・「愛を感じて今熱く燃える物語が生まれ」日本でもノーマライゼーションを進める事ができるか。
当時厚生省社会局の課長だった板山賢治さん。
障害者団体との関係改善に取り組みます。
(板山)「ある日のこと席を外して下さいという勧めを受けたのであります。
『全国青い芝の会』という団体が押しかけてくるからいない方がよいというのでありました。
過激な行動を取る団体だから厚生省は面会は拒絶という方針であったのであります。
これはおかしいと私は思いました。
障害者福祉を進めようという課長が障害者の声を聞かないこれはおかしいのであります。
会う事を決心いたしたのであります」。
板山さんは「青い芝の会」などの障害者や専門家を招き研究会を立ち上げました。
この時議論になったのはノーマライゼーションによって地域に出た障害者をどのように支えるかでした。
働けない障害者が自立して生活できるようにする前提として「所得保障」が議論の中心になります。
「福島県青い芝の会」の白石さんと橋本さんもこの研究会に参加していました。
厚生省の担当者と障害者たちはその後も議論を重ね所得を保障するための具体的な仕組みを検討します。
この時厚生省年金局で対応したのがのちに宮城県知事となる浅野史郎さんです。
自立生活自立をするためにはやっぱり所得がなかったらば生活できませんよね。
人間生きてきてよかったなぁと思う事をちゃんと享受できる権利というのを人権と言いたいんですね。
それは障害持ってる人も同じと。
それをで人権っていうためには自分で決定すると。
例えばどこに住みたいか誰と住みたいかどんな事やりたいかという事をちゃんと自分で決められるようにするという事。
そうなると…議論に参加する障害者側の姿勢は1970年代とは大きく変わっていました。
1985年国民年金の大改正に合わせて障害基礎年金の制度が成立します。
低所得の障害者を支える年金の額がおよそ2倍に増えました。
こうした中施設を出て地域で暮らす障害者も少しずつ増えていきます。
広島県廿日市市に住む秋保和徳さんと喜美子さん夫婦もその道を選択しました。
幼い頃から施設を転々として暮らしてきた和徳さんと喜美子さん。
20代の半ば重度障害者向けの施設で出会います。
結婚を決めた2人。
普通の人と同じように地域で暮らし子供を産み育てたいと施設を出る決意をしました。
施設を出て2年後長男が誕生します。
当初はヘルパーの制度もなく近くに住む母親に毎日通ってもらいました。
80年代半ばに行政によるヘルパーの派遣も始まりますが週に2回数時間ほど。
ボランティアの手も借り何とか親子3人での生活を続けます。
更に2人は社会参加への道も模索してきました。
おはようございます。
おはようございます。
1986年地元の養護学校の教師たちに誘われ作業所の立ち上げに参加したのです。
重度の障害者がそれぞれのペースで仕事をし少しでも収入を得るための場所です。
手足が不自由な和徳さんは口に竹の棒をくわえてパソコンを操作。
名刺のデザインや印刷を請け負いました。
喜美子さんは色とりどりの糸を組み合わせて手織りの布を制作します。
作業所は喜美子さんたちにとって生きる支えとなっていきました。
80年代の後半行政によるサービスが不十分な中自立を目指す障害者を障害者自身がサポートする取り組みが広がります。
日本で初めて自立生活センターを立ち上げた中西正司さん。
二十歳の時の交通事故で頸髄を損傷。
全身に「まひ」があります。
中西さんたちが当時活動内容を紹介するために作ったビデオです。
センターでは障害のあるスタッフが施設や実家を出たいという障害者の相談に乗ります。
自立生活に欠かせない介助者の確保。
市民の中から募集して事前に登録。
ローテーションを組んで障害者の家に派遣する事にしました。
更に施設での生活に慣れた人が地域で自分の意思に基づいて暮らせるようさまざまなプログラムを組んで後押ししました。
とにかく家の中に閉じ籠もってたら社会の中に障害者なんていう存在はもう忘れられちゃうんだからできるだけ目立つように外へ出て我々がいるんだっていうふうに示さなきゃ駄目だよと。
地域で殺さないで一緒に生きていく事が自分たちがいい社会つくるために必要なんだとみんなに気付いてもらう。
だから意外に僕の思うにもう一生変わらないだろうと思ってたんだけど意外に変わったんだよねそれが。
市民の意識が変わってきたんだよね。
それだけ障害者車いすが街にいっぱい出てきて…。
自立生活センターはその後全国各地につくられ90年代の終わりにはおよそ100か所に上りました。
ノーマライゼーションが少しずつ社会に根づいていったのです。
・ごめんバナナくれる?
(店員)はい。
2003年国はこうした障害者へのサービスを全国一律に広げるための新たな制度を打ち出します。
障害者自らが利用するサービスを自由に選択し税金でその経費を負担する仕組みでした。
ところが制度が始まって間もなく大きな壁にぶつかります。
2年連続で100億円を超える赤字となったのです。
利用者が予想を超えて増えたためでした。
予算を超えた分の財源のめどが立たなくなります。
当時厚生労働大臣としてこの問題に対応した尾秀久参議院議員です。
もう年度末は金が足らなくなって厚労省の中を担当者駆け回るんです。
そして「あんたんとこ少しでも残ってるお金ない?少し余ってるお金ない?」と言って訪ねて回ってもう必死でかき集めて何とか乗り切ってた。
支援費制度の中身はひと言で言うとうまくいってたんですが決定的な欠陥は金が足らなくなるというその事だったんです。
それでもう厚労省の悲願だったんです。
義務的経費にすると毎年毎年金が足らなくなったとかそんな心配をしなくて済むと。
何とかその悲願を達成しようとしたのが…法律をつくって法律で裏付けされるともう法律の裏付けで金を出すわけですから。
2005年10月障害者のための新たな法律が成立します。
(議長)起立多数。
よって本案は委員長報告のとおり可決いたしました。
「障害者自立支援法」。
福祉サービスの予算を義務的経費として確実に確保するものでした。
しかし一方で障害者に一律利用料の1割を負担してもらう仕組みとなりました。
もう今だから全部話をするんですが当然その法律をつくるというのは義務的経費になって大変な金が必要になってくるというのははっきりしてますからね。
金を出す立場の財務省は徹底して反対しますよ。
財務省が反対してるものを何とか法律にしたいと思うと財務省とのギリギリの水面下のやり取りをしなきゃいけないでしょ。
この時に財務省が言ったのは「せめて俺たちの条件ものめ」と。
条件を突きつけてきたのが「本人負担1割」だったんですね。
実際に自立支援法の施行後障害福祉サービスの予算額は増加しています。
増える予算に対して国民の理解を得るため利用する障害者にも一定の上限を設けて負担してもらいたいというのが国の考えでした。
障害者の自立生活を崩壊させるな〜!しかし障害者たちは1割負担によって自立した生活ができなくなると反発します。
(拍手)日本の代表的な障害者団体が集まってつくった…視覚障害があります。
障害っていうのは古今東西問わず一定の割合が人類にはいらっしゃると。
これは個人ではどうしようも防ぎようがない問題。
そういう個人ではいかんともし難い問題を金銭面で「あなた負担をしなさい」という事はねこれは障害者にとっては屈辱だと思うんですよね。
これはやっぱり闘わないといけない問題じゃないかと。
広島で暮らす秋保さん夫婦の生活も自立支援法によって大きな影響を受けました。
2人が重度の障害者でも社会参加したいと立ち上げた作業所。
働いて得られる工賃は月5,000円ほどですが逆に1万円前後の利用料を支払う事になりました。
生活に欠かせないヘルパーの派遣にも負担が発生しました。
2人は常に必要最低限の利用を心掛けます。
しかしヘルパーのいない時間帯には不安も残りました。
自分たちで冷蔵庫を開ける事ができないため食事は出前か外食に頼らざるをえず食費がかさみました。
(喜美子)回して…入れ物。
僕ちょっとあの…卑わいな事だけど…。
それでも障害基礎年金や作業所の工賃に頼る2人の家計を圧迫しました。
まだ熱い…。
熱い?うん中が…。
国はその後負担に苦しむ障害者の声を受け更なる軽減策を導入します。
秋保さん夫婦の支払いも2008年には月3,000円ずつまでに減りました。
しかし生きるために最低限必要な支援にお金がかかる事自体がどうしても納得できなかったといいます。
2008年秋保さん夫婦をはじめ全国で29人の障害者が国を相手取り訴訟を起こします。
障害者に経済的負担を強いる自立支援法は憲法が保障する人間的な生活を営む権利を侵害していると訴えたのです。
国は財政の状況や他の社会保障制度との整合性を考えれば違憲違法となる事はないと反論しました。
事態が動いたのは2009年9月。
民主党へと政権が交代。
障害者政策への対応も変わります。
翌年1月合意文書を交わし和解が成立。
(拍手)この合意によって低所得者の利用者負担は無料になりました。
更に自立支援法に替わる新しい法律を障害者自身が参画して議論する事が約束されたのです。
2010年1月この合意に基づいて障害者制度の改革について話し合う会議が発足します。
24人の委員のうち14人が障害のある当事者や家族でした。
日本障害フォーラムの藤井さんは会議の進行を担いました。
参加をしてるなという…。
参画って言ってもいいかも分かりませんがそういう初めての実感ですよね。
自分らで作っていってるなという策定の実感ですよね。
そして日本の障害者福祉は新たな一歩を踏み出します。
おととし1月国連の…「障害者権利条約」とは国連が2006年に採択した国際条約。
障害に基づくあらゆる差別を禁止し障害者の人権を保障するためのものです。
障害者が他の人と完全に平等に生きられる社会の実現を目指しています。
日本は今権利条約の理念に沿って制度や法律の整備を急いでいます。
権利条約の理念を伝えるため全国を回っています。
(拍手)藤井さんは障害者の問題を考える事は社会全体の在り方を見直す事だと訴えています。
障害問題っていうのは日本のいやがおうでも避けられない大事な取り組みがこの障害問題には内包されてると思うんです。
高齢者になって倒れて奥さんとご主人となってく。
あるいは認知症の問題が進んでくと…。
ほとんどこれは障害問題っていうのはいずれこの国の超高齢化の問題とほとんどオーバーラップしてくはずなんですね。
つまり今この障害問題を取り組んでおくって事は今後の超高齢化社会へ向けての非常にこういわばいいリハーサルをすると。
シングルマザーにしましてもね一旦病気になった時に全体を生活のバランスを崩してくと。
つまり全体として生活困窮者が増えてる中でね私はその一番の縮図的凝縮的集積的問題を含んでるのがね障害分野じゃないかなというふうに思いますんで単に障害者の生きやすさ暮らしやすさだけではない社会の一つの方向性を示してるのが障害問題の基本じゃないかなと思ってます。
障害のある人もない人も共に暮らせる社会を実現するために今何が求められているのか。
自分の意思に基づいて生きていきたいと闘い続けた…「世の中にはいろんな人がいるんだよと。
それをお互い認め合っていこうよと言いたいの。
ちょっと他の人と違うともう排除する。
そんな事してたらこの社会はロボットしかいなくなる。
人間としての温かみや切なさがあってこそ気持ちが通じていくんだから。
みんな違ってていい」。
障害者と社会との関わりを問い続けています。
つまり他者と言われる人に対して絶対に無関心であっちゃいけない。
無知であってはいけない。
基本的な事はその他者に対してやっぱりきちんとコミュニケーションを取って他者の事を知らないといけないっていうか。
その前提にはその他者に対するよく言うリスペクト尊敬がないと成り立ちませんよね。
差別するために他者がいるんじゃなくて違う世界を持った人だから違う世界を持ってる人というのは知らない人にとってはすごく面白い未知の世界であると。
リスペクトっていうものがベースにあって他者異質な人と関わっていくというような世界になるとこの世界はもっと面白いんだと。
裁判で障害者の生きる権利を訴えた秋保さん夫婦です。
心の声
(丸尾栄一郎)試合の前の日にこんな事になるなんて…。
2016/01/23(土) 00:00〜01:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(6)[解][字][再]
障害者福祉の戦後70年。戦後、家から出られない「座敷ろう」状態だった障害者。他の人と同様に地域で暮らす“ノーマライゼーション”実現への道のりを当事者証言でたどる
詳細情報
番組内容
戦後、家から出られないいわば「座敷ろう」状態に置かれた障害者。その後、重い障害のある子を抱える親たちが国を動かし、障害者施設が充実していく。しかし70年代、施設は社会からの隔離だと当事者たちが反発。81年の国連・国際障害者年を機に、障害者が他の人と同じように地域で暮らす“ノーマライゼーション”の理念が広がっていく。障害のある人もない人も共に暮らせる社会を目指した戦後の歩みを、当事者の証言でたどる。
出演者
【語り】渡邊佐和子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
福祉 – 障害者
福祉 – 社会福祉
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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