ファミリーヒストリー「ピエール瀧〜70年ぶりに発見 祖父が描いた虎の絵〜」 2016.01.22


お願いします!4月から放送予定の朝ドラ「とと姉ちゃん」。
今回で朝ドラ出演は3回目となるピエール瀧さん。
3年前の「あまちゃん」では口数少ないすし職人を演じ話題を集めました。
何あれ?小林薫のつもりかしら。
そもそもピエールさんはテクノバンド電気グルーヴのメンバー。
音楽の世界にとどまらないマルチな才能を発揮しています。
現在48歳のピエールさん。
自らのルーツについてほとんど知らないといいます。
番組ではピエールさんに代わり家族の歴史を追いました。
これまで謎だったその足跡が明らかになります。
そして70年の時を経て見つかった絵とは…。
この日ピエール瀧さんは自らの家族のルーツを初めて知る事になります。
ピエール瀧。
本名は瀧正則。
父方の祖父秀治は絵描きだったと聞かされています。
しかし詳しい事は分かりません。
ピエールさんのふるさと…実家を訪ねると両親が迎えてくれました。
父親です。
母親です。
よろしくお願いします。
絵描きだった祖父秀治は正臣さんが11歳の時に亡くなったためその人生についてほとんど分からないといいます。
う〜ん…。
僅かに残された秀治の絵です。
絵描きだった秀治はどんな人生を歩んだのか。
もともと瀧家は静岡・藤枝で呉服屋を営んでいました。
店があった場所は現在空き地になっています。
大正14年当時の写真です。
地元では有名な呉服屋でした。
現在その跡地を所有している小野さん。
呉服屋時代の立派な蔵が最近まであったといいます。
明治31年そんな呉服屋の六男として生まれたのがピエールさんの祖父秀治です。
秀治が7歳の時ある事件が起きました。
当時静岡を騒がせていた万引き犯おひさ。
そのおひさが呉服屋で万引きするも番頭に捕まり駐在所に引き渡されたと記されています。
そんな呉服屋で秀治はあでやかな反物に囲まれて育ちいつしか絵に興味を持つようになります。
そして高等小学校を卒業すると六男だった事もあり実家を出ます。
秀治の長女でピエールさんのおばに当たる…美術の教育史に詳しい…
(取材者)これは?当時東京・神田にあった日本工科学校では絵画の基礎を教えていました。
秀治は画家になる事を夢みていたのです。
そしてその後九州熊本に向かいます。
当時熊本は九州で一二を争うにぎわい。
古い城下町で芸術を愛好する文化がありました。
各地から画家の卵たちが集まっていました。
戸籍に当時の秀治の住所が記されていました。
現在その場所には商業ビルが建っています。
そこで創業130年の襖表具材料店を訪ねました。
掛け軸や襖などに使う材料を扱っています。
森本志郎さん89歳です。
手取本町に住んでらしてたんだってよ。
秀治の家の近所に石村珪堂という画家が暮らしていた事が分かりました。
その娘さんが見つかりました。
石村珪堂は大正から昭和にかけて熊本で活躍した日本画家です。
仲間と撮った写真が残されていました。
(取材者)これが?この中に瀧秀治らしき人物を見つけました。
後列一番左。
実家にあった晩年の秀治の写真にどことなく似ています。
写真を息子の正臣さんに確認してもらいました。
(取材者)秀治さん?顔がでかいのは遺伝なんですよねどうやら。
この写真には熊本出身の日本画家堅山南風の姿もありました。
横山大観に師事し後に文化勲章を受章しています。
当時秀治たち画家の卵は南風の下で学び展覧会での入選を目指していました。
なかなか芽が出ない秀治でしたが26歳で結婚を決意します。
相手は地元熊本の女性でした。
娘の陽子さんはかつて母から結婚までのいきさつを聞いています。
大正14年熊本市内で開かれた国産共進会。
地方開催の博覧会です。
その会場で開かれていた絵画展に秀治は出かけました。
すると会場で案内をしている一人の女性に目を奪われます。
それが当時二十歳の関本タ子でした。
熊本市内にタ子の事を知る親戚が暮らしていました。
タ子の妹ハルの子供たちです。
現在静岡の瀧家とは交流がありません。
タ子もまた画家を夢みる秀治にひかれていきます。
しかし2人の結婚にタ子の父親が猛反対。
2人は熊本で新生活を始めます。
間もなく子供に恵まれます。
昭和12年長男正臣が誕生。
後のピエールさんの父です。
家族を抱えたにもかかわらず秀治の絵はなかなか認められませんでした。
当時の熊本の画壇に詳しい古美術商の柳井理生さんです。
戸籍によるとこのころ秀治一家が暮らしていたのは本山町一番地。
そこには300年以上続く寺がありました。
ごめんください。
はい。
秀治はかつての本堂の天井画200枚近くの描きかえを任されここで暮らしていたといいます。
当時の絵が残されていないか探してもらいました。
そうですね。
すると秀治が描いたと思われる一枚の絵が見つかりました。
昭和初期に描かれたものだと思われます。
天井画を特別にお借りし古美術商の柳井さんに見てもらいました。
秀治は客の注文に応えて一心不乱に絵を描きました。
それは家族を養うためでした。
客の注文で絵を描くようになって10年がたったころ秀治は家族を伴いふるさと静岡に戻ります。
そして静岡県志太郡島田町で暮らし始めました。
当時の戸籍に書かれた場所を訪ねると理髪店がありました。
祖父の代からここで店を営んでいます。
祖父が秀治一家に部屋を貸していたと聞いています。
秀治は家賃の代わりに頼まれた絵を描いて渡していました。
昭和14年一家は静岡市に移り住みます。
当時秀治が描いた絵を娘の陽子さんも数点持っていました。
客が代金を払えなかったり戦後譲り受けたものです。
繊細な線で描かれた山水画。
力強い線で描かれただるまの絵。
作風を巧みに変えながらさまざまな絵を描きました。
すると絵の注文は減り秀治は酒ばかり飲むようになります。
そんなある日の事です。
秀治の腕前を聞きつけた女性が瀧家を訪ねてきました。
秀治が受け取ったのは千人針の布でした。
「千人針」は糸で一針ずつ縫って1,000個の結び目を作るもの。
腹巻きにすると弾よけになるとされるお守りでした。
こんにちは。
ここに当時の千人針が保管されています。
その中には虎が描かれたものがいくつもありました。
秀治は頼まれる度に虎の絵を描きました。
息子の正臣さんはそんな父の真剣な姿を覚えています。
秀治に虎の絵を依頼していた一人が分かりました。
松野さんの父政男さんがその千人針を巻いて戦地に向かいました。
しかし旧満州で終戦を迎え混乱の中で千人針を持ち帰る事はできませんでした。
昭和20年6月19日静岡は激しい空襲に遭います。
深夜から未明まで続いた爆撃によっておよそ2,000人が犠牲となりました。
当時8歳だった正臣。
防空ごうを抜け出して空襲の様子をぼう然と眺めていました。
実はその時の様子を後に正臣さんは絵に描いています。
それは現在静岡平和資料センターに展示されています。
防空ごうを抜け出して見たあの悲惨な光景です。
瀧家は更なる悲運に見舞われます。
秀治が結核になったのです。
昭和23年秀治は妻と5人の子供を残しこの世を去ります。
波乱に満ちた49年の生涯でした。
当時11歳だった正臣さん。
強烈な思い出があります。
中学を卒業すると正臣は就職します。
高校に行く経済的余裕はありませんでした。
父の苦労を見て育ったため安定したサラリーマンの道を選びます。
就職したのは地元の印刷会社。
職場の後輩…真面目に働く正臣の姿を覚えています。
働き始めてからちょうど10年。
25歳になった正臣に知り合いから見合い話が持ち込まれます。
見せられたのは3人の女性の写真。
その中から1枚の写真を選びました。
地元の病院で働く大隈照子。
後にピエール瀧の母となる女性でした。
はい。
ねぇ。
照子さんの人生もまた波乱に満ちたものでした。
昭和13年照子は佐賀の農家大隈家の長女として生まれます。
実家があるのは吉野ヶ里町。
吉野ヶ里遺跡に程近い集落でした。
現在実家を守るのは照子さんの甥に当たる大隈恭仁さんです。
ピエールさんの曽祖父に当たる大隈與吉。
胸には数々の勲章が飾られています。
大正3年陸軍に召集された與吉は第1次世界大戦に従軍。
中国青島でドイツ軍と戦い功績をあげました。
武勲をたたえる「金鵄勲章」ももらっています。
與吉の長男光治。
ピエールさんの祖父です。
しかし脚が不自由だったため思うように農作業ができませんでした。
そのため太平洋戦争が始まると食べる事もままならなくなります。
照子は実家の経済状況を考え高校進学を諦めます。
選んだのが看護師の道でした。
2年後准看護師の資格を取った照子は佐賀県内の結核療養所で働き始めます。
幼い妹たちのために仕送りも始めました。
照子の妹教代さんと榮子さんです。
頑張る姉の姿を覚えています。
しかし給料はなかなか上がらず仕送りを増やす事もできませんでした。
そこで看護学校時代の恩師に相談すると静岡に条件の良い職場があると紹介されたのです。
照子は迷わず静岡行きを決めました。
19歳の照子は静岡に移り住みます。
そして精神科の病院で働き始めます。
先輩看護師の海野さきさん。
で…何と言うのかな。
静岡へ来て5年目のある日。
照子は先輩に呼び止められます。
町なかの喫茶店での簡単な見合いでした。
その相手が瀧正臣でした。
正臣さんの第一印象は?正臣も生まれは熊本。
九州生まれの2人は意気投合します。
昭和38年2人は結婚。
そして昭和42年待望の長男が生まれます。
正則後のピエール瀧さんです。
しかし心配な事がありました。
幼い頃の正則は体が弱く高熱や気管支炎で入退院を繰り返します。
共働きだった両親は交代で必死に看病を続けました。
幸い正則は健康を回復しました。
小学校高学年になるとそのひょうきんさで一躍クラスの人気者になります。
高校では野球部に入り甲子園を目指しました。
残念ながら夢はかないませんでしたが阪神タイガースの入団テストを甲子園球場で受験しました。
高校卒業後正則は上京します。
医療関係の専門学校に進みますが間もなく中退。
それでも両親が正則をとがめる事はありませんでした。
中学卒業後やむなく働かざるをえなかった2人。
子供には好きな事をやらせたいと考えていました。
平成3年正則は電気グルーヴとしてメジャーデビューを果たします。
・「シャングリラ彼女の唱ったユートピア眩しい」・「シャングリラ彼女は語った趣は良し」そして平成9年「Shangri−La」が50万枚の大ヒットを記録。
・「夢でKISSKISSKISSKISSKISSKISS」・「何処へも何処までも」しかし両親にとって息子がやっている音楽は理解できるものではありませんでした。
ところが平成22年うれしい知らせが届きます。
いか〜ん!えっ?こんな事では了見の狭いつまらん人間になるぞね。
正則は龍馬と行動を共にする土佐藩士を熱演しました。
いかんいかんいかんいかんいかん!今や映画ドラマに引っ張りだこの俳優。
これまで多くの作品でピエールさんを起用してきた映画監督の山崎貴さん。
その魅力をこう語ります。
しかし息子が活躍するようになっても母の思いは何も変わっていません。
佐賀から静岡にやって来て40年間同じ病院に勤務。
最後は看護師長を務めました。
そんな照子さんはピエールさんからあるプレゼントをもらいました。
中学卒業後60歳の定年まで勤め上げた父正臣さん。
絵を描いていると絵描きだった亡き父の事がふと思い浮かぶといいます。
そして今回の取材で絵描きだった秀治さんの絵が新たに見つかりました。
静岡市内のあるお宅。
あのすみません…。
宮田美江子さんと望月尉司さんのきょうだいです。
秀治さんが描いた虎の絵。
きょうだいの父望月敏夫さん。
終戦後復員し千人針を持ち帰る事ができたのです。
その後額に飾り亡くなるまでよく眺めていたといいます。
正臣さんが是非見てみたいと訪ねる事になりました。
ごめんください。
瀧と言いますけど…。
どうも。
あっああ〜これは…。
70年以上前正臣さんはこの絵を描く父の姿をじっと見ていました。
ピエール瀧さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには激動の時代をたくましく生き抜いた家族の歳月がありました。
うん。
2016/01/22(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「ピエール瀧〜70年ぶりに発見 祖父が描いた虎の絵〜」[字]

ピエール瀧さんは、祖父が絵描きだったと聞いている。しかし、終戦直後に亡くなり、その人生については謎に包まれていた。今回、祖父が描いた絵がある民家から見つかった。

詳細情報
番組内容
ピエール瀧さんは、祖父が絵描きだったと聞いている。しかし、終戦直後に亡くなり、その人生について両親や親戚も分からなかった。それが今回、祖父の足跡が明らかになる。静岡出身の祖父が渡ったのは九州熊本。絵の修業をするためだった。絵描き仲間の家からは、当時の写真も見つかった。そして、静岡のあるお宅では、戦争中に祖父が描いた虎の絵も見つかった。その迫力ある絵に、ピエールさんは驚いてばかりだった。
出演者
【出演】ピエール瀧,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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