ほんとにあれがスタートラインだと思います。
たかみな流人づきあいのアドバイスは番組ホームページへ。
みんなもクラスの「空気」見直してみない?団塊の世代にとって関心が高い「食生活」。
そして「健康」に「趣味」。
気になるおしゃれなどさまざまな情報をお伝えする番組。
それが「団塊スタイル」。
今回はアンコール放送。
これまで放送した中から好評だった番組をお届けします。
やっぱり体を温めないと声もね…。
昭和の時代若者なら誰もが胸ときめいたこの歌。
・「秋の日の図書館の」「学生時代」。
歌うのはペギー葉山さん。
81歳になった今もステージに立ち続けています。
・「Lovelettersstraightfromyourheart」昨日はどうもありがとう。
シフォンケーキペギーさんに。
どうもありがとう。
やだ。
何でこんなに笑わすの。
おおらかで歌手仲間からも愛されているペギーさん。
しかしその人生にはさまざまな葛藤がありました。
高校生の時ジャズの世界に憧れて進駐軍クラブで歌いプロの道に進みます。
ところが目の前に現れたのは天才少女と呼ばれた江利チエミさんでした。
デビューから7年「南国土佐を後にして」が空前の大ヒット。
しかし皮肉にも自分が目指す世界とは全く異なるものでした。
そんな時に出会ったのがミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」。
「ドレミの歌」です。
広く知られている日本語の歌詞はペギーさん自ら作詞したものです。
一方私生活では最愛の夫が病に倒れ闘病生活。
自宅での介護を決意します。
81歳。
いくつもの苦難を乗り越え活躍するペギーさん。
デビューから63年。
今も歌とともにあるその生き方に迫ります。
司会風吹ジュンです。
国井雅比古です。
今日は輝いて生きる人の魅力に迫る「D’sスタイル」。
ご覧のように今日はペギー葉山さんです。
ペギー葉山さんといえばねいろんな曲を思い出します。
小さい時もうずっと聞いてました。
紅白のイメージもすごくあります。
「みんなのうた」のイメージもあるし。
今日は楽しみです本当に。
はい。
ではお越し頂きましょう。
ペギー葉山さんです。
こんばんは。
どうぞよろしくお願い致します。
ようこそ。
お変わりなく。
よろしくお願い致します。
こんばんは。
デビューされてもう何年になりますかね?今年で63年になります。
レコード会社に入って。
そうです生まれた年ですもの。
え〜。
ペギーさんが…本当に。
デビューされたの。
どうぞよろしくお願い致します。
今日はペギー葉山さんのこれまでの足跡を通じて懐かしい名曲の数々そして今のペギーさんの生き方に迫っていきたいと思います。
まずはペギー葉山さん。
歌手のペギーさんが誕生するところからご覧頂きましょう。
昭和8年3人姉妹の末っ子として生まれたペギーさん。
敬虔なクリスチャンの家で育てられました。
父は商社に勤め子供の誕生日には母の弾くオルガンで決まって賛美歌を歌うような家庭でした。
日本が終戦を迎えた翌年。
ミッションスクールの青山学院女子中等部に進学すると声楽家を志します。
しかし当時街なかではジャズが流れていました。
日本を占領した進駐軍によるラジオ放送です。
アメリカ兵ばかりでなく日本の若者たちも夢中になりました。
ペギーさんもそんな一人でした。
学校では日系2世の同級生と仲良くなります。
ジャズを覚えたい一心でノートに歌詞を書いてもらい本場仕込みの発音を夢中で教わりました。
そして高校2年の夏休み。
ペギーさんは別の友人から人生を変える誘いを受けます。
進駐軍クラブとはどんな場所だったのか?長年ペギーさんと親交のある音楽評論家安倍寧さんです。
ペギーさんを誘った友人は兄がリーダーを務める学生バンドの歌手をやってほしいと言います。
アメリカへの憧れが頂点に達していたペギーさんは進駐軍クラブのステージに立ちました。
夢中で覚えた歌を思いを込めて歌います。
中でも評判だったのが「ボタンとリボン」。
コメディー西部劇「腰抜け二挺拳銃」の劇中歌です。
歌う事を母親は理解してくれたものの父親は猛反対でした。
父親とは口もきかなくなりましたがその後ペギーさんの歌声は評判を呼び各地の進駐軍クラブから声がかかります。
学校が休みの週末だけという約束でキャンプを回る日々が1年以上続きました。
昭和27年その実力を認められ高校を卒業と同時にレコードデビュー。
これはそのデビュー曲「ドミノ」。
18歳の若さでアメリカで大流行していたシャンソンの名曲を歌い上げます。
しかしこのころペギーさんには強いコンプレックスを抱く相手が現れました。
10か月前に「家へおいでよ」と「テネシー・ワルツ」でデビューした江利チエミさんです。
全く異なる2人の歌い手。
強烈なパフォーマンス力を持つチエミさんの存在にペギーさんは圧倒されます。
全然タイプが違いますよね我々が見ていても。
やっぱりお互いに意識してたんですか?そりゃすごい。
大ライバルお互いに。
もうチエミはすごい人気がありました。
リボンつけて短いスカートはいて今のお嬢ちゃんたちみたいな格好して。
で「Comeon−amyhouse」って大人みたいな歌歌うでしょう。
もうみんなあっけにとられて。
うわ〜ってブラボーってね。
大アンコール。
私はもうベットリとした歌歌ってヘロ〜ッと歌ってるから。
チエミさん45で亡くなられるのかな。
そうですね。
私はチエミさんが亡くなるねそのちょっと前ですけど一緒にね久しぶりでね2人であるラジオ局の何周年というのを大阪でやったんですね。
「久しぶりね」って彼女もいろいろ人生のいろいろあって私たちもいろいろありましたけれども「私ねペギーといろいろ話したい事あんのよ」って。
その時初めてチエミとねいろんな話を飛行機の中でして。
帰る時に「私ペギーともっと早くこういう話いろいろしたかったわ」って言ったのがチエミちゃんと私の最後の会話だったの。
その亡くなる前のわずかな時にそうだったんだ。
だからとってもチエミちゃんが亡くなった時はねまあ皆さんショックでしたけど私はもうはあ〜と思いました。
でも進駐軍というと何かとっても刺激的な印象がその当時特に。
お父さんが「進駐軍で歌を歌うペギー」って…。
娘が?えっ?やっぱり反対でしょうね。
反対でしょう。
「昔戦ったね戦争した兵隊のそばでお前は歌っていいのか」ってある日言われたの。
「もう戦いは終わったのよ。
平和が来たんだからどこの国の歌だってねいい歌だったら私は歌うの」。
え〜。
父に言ったの。
そしたら?「俺は知らない」ってもうプ〜ッとして。
母はね若い時からとても歌が好きだったんで「まあいいじゃないですか」って。
「そのかわり学校はちゃんと行くのよ」って。
まあ学校はちゃんと行ってました。
とにかく自分が歌える歌をアメリカの兵隊さんの前で歌えるという事が何かすごく新しい世界で自分の歌が歌えるという事に夢中になりました。
プロの道を歩み始めて3年目。
ペギーさんの夢が一つかないます。
それは本場のステージを見ること。
昭和30年ハワイのナイトクラブでの出演依頼を受けたった一人アメリカに渡ります。
22歳の時。
ハワイからその後ロスラスベガスニューヨークと4か月旅しながらさまざまな舞台を見て回りました。
目にしたのは想像を超えるものでした。
帰国したペギーさんは自らの目標をミュージカルの世界に定めます。
当時日本ではあまり知られていなかったミュージカルをどう広めていくか。
ペギーさんは奮闘し始めます。
例えばミュージカルの劇中歌を新曲として踊りをつけて披露。
当時の日本では画期的な事でした。
・「なやましいあるきかたあまくうるむまなざし」中学生の頃から異彩を放ち始めたペギーさんのファンだったと言います。
24歳の時ペギーさんに思いもよらない転機が訪れます。
昭和33年NHK高知放送局の開局記念番組として人気番組だった「歌の広場」が高知から中継される事になりました。
出演を依頼されたペギーさん。
地元高知になじみ深い曲を歌ってほしいと…。
それが「南国土佐を後にして」でした。
高知から出征した兵士たちのふるさとへの思いを歌にしたもの。
さまざまな歌手に歌い継がれていました。
ペギーさんはその日かぎりと思い歌いました。
ところが想像以上に大反響を呼びます。
更にヒットを見込んでこのころ普及し始めた小型シングル盤も同時発売されます。
レコードは驚異的な売り上げを見せ1年で100万枚に達しました。
このころはどこへ行っても「南国土佐」のペギー葉山。
ミュージカルどころではありません。
新曲も民謡調のものばかりでした。
当時の雑誌の見出しは「ペギー葉山よどこへ行く」。
ミュージカルを目指すと言っていたペギーさんに対する冷ややかな記事もありました。
しかし心のどこかでジャズやミュージカルへの思いを断ち切る事はできませんでした。
「南国土佐を後にして」の大ヒットの余韻が続く昭和35年。
「日米修好通商百周年」を迎えさまざまなイベントが行われていました。
ペギーさんも日本で話題の歌手としてアメリカでのイベントに招待されます。
この時ブロードウェイでぶらりとミュージカルを見ます。
それが後に映画にもなったこの作品。
・「DoReMiFaSoLaTi」これは当時劇場でペギーさんが買い求めた楽譜。
後に日本語の歌詞を書く事になる「ドレミの歌」との出会いです。
もういい曲ですよね。
今でもずっとみんな歌いますよね。
耳にも焼きついてて。
焼きついてるしねえ。
売店で売ってるんですよ。
LPとそれからスコアと譜面をいっぱい。
それ持ってホテルへもう駆け込んで。
一生懸命歌詞を考えて。
これが実はそのペギーさんが買い求めた実物の劇中歌「ドレミ」の楽譜。
メリー・マーティンという人が「サウンド・オブ・ミュージック」をブロードウェイでやってたんですよね。
メリー・マーティンのためにリチャード・ロジャースが書いた。
うわ〜すばらしい。
「Do−Re−Mi」いや〜かっこいい!原作では「ドレミ」はディアーのディ。
femaledeer.そうです牝鹿のディアーね。
じゃあドはなぜドーナツになったんですか?私はこれ絶対ドーナツにしようと。
戦争中に一番食べたかったのは母が作ったドーナツだったんですよ。
ドーナツってもう超豪華なものだったからね。
全国的ですもんね今やもう。
「ドはドーナツでしょ」という。
でミは…レモンとミカンと同じだなって。
じゃあみんなのミがいいな。
でもファがねなかったの。
そうだ。
ファってなかなかないね。
ファファファ…じゃあちょっとこれは置いといて。
シは幸せにしよう。
あっ幸せになるにはファイトが要るんだ。
それでファイトが浮かんだの。
へえ〜生む苦しみが。
これは我ながらね頭がいいなと思ったのね。
すばらしいですね。
もう本当に気が付いた時はニューヨークの摩天楼に日が差してたの朝の朝日が。
もう夜通し考えたの「ドレミ」の歌詞を。
でも楽しい作業ですよね。
さてそれとドレミの世界と変わって「南国土佐を後にして」です。
はい。
それがこれ大ヒットですよね。
私もほら昭和30年に初めてアメリカに行ってミュージカルがこの辺にぶら下がって帰ってきたでしょう。
やっぱりブロードウェイのをやりたいって思っていたんですよね。
そうしたらそれが大ヒットしちゃったという事はどうしようって。
どうしようって思うの。
その「どうしよう」が毎日続いたの。
そうかヒットしたあとがねまた。
もう全部「南国土佐」一色になってしまって。
まあこれはこれでねやっぱり私は一生懸命やらなきゃいけない。
でもすごく悩みながら。
そうだったんだ。
とってもだからあの時無愛想に私「南国土佐」歌ったのね。
そうなんだ。
それがヒットしちゃったから今もねこの歌は無愛想に歌っちゃったからニコニコ笑って歌ったらいいかなどうしようかなって。
今はニコニコ笑ってますけどね。
すごいそういう葛藤もあったの。
いまだに60何年歌ってます。
でこの「南国土佐を後にして」は日本語は当然あるんですけれども代表作の一つとして英語のバージョンがあるんだそうですね。
そうなの。
あのころ親善使節でねよくブラジルも行きましたし外国に随分「南国土佐」歌いに行って。
そうしたら平川唯一さんってね「カムカム英語」の方が「ペギーさん外国に行くんだったら英語の歌で歌った方が面白いんじゃない?」。
それでちょっと作って下さった歌がある。
南国「MyHomeTosa」っていうの。
それではその英語バージョンも含めてせっかくですのでペギーさんにその「南国土佐」ご準備の方お願いしたいと思います。
(拍手)さてペギーさんはこの曲以外にも次々とヒット曲を生み出します。
昭和40年ペギーさんが紅白で歌ったのはこの曲でした。
・「つたのからまるチャペルで祈りを捧げた日」「学生時代」はペギーさんの青山学院時代の思い出を元に作られた曲。
歌詞になった「つたのからまるチャペル」は当時のままです。
・「重いカバンをかかえてかよったあの道」・「秋の日の図書館のノートとインクのにおい」・「枯葉の散る窓辺学生時代」このころペギーさんは私生活でも幸せを手にします。
10歳年上の二枚目俳優…31歳の時です。
その3年後には長男英児さんも誕生。
おしどり夫婦と呼ばれテレビにも度々そろって出演しました。
そうですねあの電話がかかってきましてね。
「あのドイツからオペラが来るんだけど見に行きたいんだけど切符が1枚余ってんのよ。
もし仕事が暇だったら一緒に行かない?」。
また電話がかかってきて「アメリカからバレエが来たんだけども切符が1枚余ってんのよ」。
また電話がかかってきて「あの山手線の切符が1枚余ってる」。
うそよ。
互いに俳優と歌手で多忙な毎日。
それでも2人は夫婦の時間を大切にしてきました。
ところが結婚から33年目根上さんは病に倒れます。
糖尿病の合併症による脳梗塞です。
神経がまひして歩く事もままならなくなりました。
ペギーさんは歌う事を続けながら自宅での介護を選びます。
夫・根上さんとの闘病をつづった本があります。
病は一進一退。
入退院を繰り返す根上さん。
ペギーさんの学生時代からの親友山岡園子さんです。
当時献身的に世話をするペギーさんを知る一人です。
歌いながら支え続けたペギーさん。
しかし闘病から7年後の平成17年10月根上さんはこの世を去ります。
享年82でした。
介護をね。
7年間ですか?7年間。
私は時間とともに仕事してるでしょう。
何時には出なきゃならない。
お化粧しなきゃならない。
主人の方のインシュリンの注射をしなきゃならない。
本当に追われてたの。
自分の歌も覚えなきゃならない。
主人がいびきかいて寝るようになった時は「あ自分の時間があった」といって隣で歌の練習テープでやってますと「何やってんだ」って。
「早く寝ろ」って言うの。
「何を言ってんのよ」って。
何かわがまま放題のね病人になりましたから。
それが夫婦なんだなって思いましたね。
自分の仕事は仕事できちっとされながら介護をしっかりされているというよくそういう生活ができましたね。
一日でも長くね生きてほしいと思っていたんですけれど毎晩「今日も一応彼は元気でいられてよかった」って思うのね。
あしたもできればこういう日があったらいいなって。
だから覚悟はできてたの。
それでその時が来た時は取り乱さないようにしなきゃなんない。
というのは仕事がありますからキャンセルできない訳よ。
夫が死んだからって。
案の定やっぱりお葬式の葬儀はお通夜もちゃんとやって葬儀もちゃんとスケジュールが空いてたんですよね。
その翌日がね私のコンサートだったんですよ。
だから終わった時はもうベトベトの顔してたの。
涙が出てんだけど。
でも声はちゃんとねやっぱりそれは歌い手よね。
ちゃんと歌わなきゃという気持ちがここにいつもあって。
その日はすごいつらかったです。
つらかったですかやっぱりそれは。
まあ今もね思い出すとちょっと思い出すなあという事があるんだけど今はもう彼がいつもアハハ笑ってる顔をなるべく思い出そうとして。
悲しい事はやめようと思って。
最後まで根上さんは歌をねペギーさんの歌は「歌うんじゃなくて語れ」とよくおっしゃってたようで。
私は彼の演技に対しては一切言わない。
そのかわりあなたも私の歌に対しての評は一切しない事というのが夫婦の結婚の時の約束だったの。
それがねリサイタルになるとね「あんたさ」って言うのね。
「まだね歌ってるね」って言うの。
「俺言ってんだろ?語れって。
あんた語ってないよ」ってまだそういう事言うのよ。
しゃくに障るでしょう。
いや〜すばらしいなあ。
だから「歌は語れ芝居は歌え」ってねよく言うんですけれど。
ここはペギーさんの自宅です。
(スティーヴィー・ワンダーの曲)前日どんなに遅くても毎朝6時半には起床。
軽い運動をこなします。
(スティーヴィー・ワンダーの曲)およそ10分自転車をこぎます。
朝食は毎日8時45分にとるなど徹底した規則正しい生活。
夫の介護を通じて身につけました。
おいしいおいしい。
今は陶芸家の長男英児さんと2人暮らしです。
そしてもう一つの日課が発声練習。
(発声練習)ドレミの歌は・「ララララ…」・「南国土佐を」って短調と長調両方ね発声してないと音のつながりがこれはメジャーですからこれはマイナーでしょ。
(発声練習)10分は続けて喉を温めます。
81歳ペギーさんは今も歌い続けています。
(発声練習)この日は中野サンプラザへ。
往年の映画音楽を歌い聞かせるチャリティーショーへの出演。
そのリハーサルです。
ペギーさんは大トリを務めます。
・「Nowyou’resingingwithaswing」間奏の間椅子に座り込みました。
60年以上ステージに立ち続けた事で腰が悲鳴を上げ2年前に椎間板ヘルニアを発症。
半年間起き上がる事もできない時期がありました。
それでもステージに立つ事をやめませんでした。
それには理由があります。
進駐軍クラブの頃から自分の歌を待ち望む人たちのために応えようと歌い続けてきたペギーさん。
・「Lovelettersstraightfromyourheart」・「Keepussonearwhileapart」生きること。
それは歌そのもの。
歌によって癒やされ歌によって今も人々を癒やします。
あのスティーヴィー・ワンダーかかった時のあの動きもこぎなから動いてましたよ。
やっぱり体を温めないと声もね出ませんから声帯も体の一部ですからやっぱり少し運動しないと。
だから一日に1回とも歌わない日ってないわ。
何かの感じで歌ってる。
必ず歌ってる。
ええ。
嫌になった事ないですね。
歌う事が嫌だなと思った事。
「今日歌うの嫌だな」って思う事はないの。
「今日も歌える。
うれしいな」って思う。
じゃあもうずっと人生も歌が必ずあったんだ。
そうですね。
一つとっても威張りたいのはいっぱい歌を知ってる事かもしれない。
フランスの歌イタリアの歌スペインの歌それから日本の歌童謡。
だからこれからもまた挑戦をしてまた新しい歌が「あっこれ今までこういう歌歌ってない」というのがあったらまた発見してレパートリーにしたいなって思います。
あ〜でも本当希望ですね。
あ〜すてき。
そう?さてそれではペギーさんにもう1曲歌って頂きますが用意された歌が「爪」。
私も大好きな歌ですね。
しみじみねあれは「語れ」なの。
若い時はもうね青々しくてねもう何かやたらとねいい気になって歌ってる。
やっとその境地になったかなという。
どうでしょう?分かりません。
やってみます。
楽しみです。
じゃあ準備の方よろしくお願いします。
はい。
う〜んすてき。
さて今日のお茶は何ですか?君山銀針です。
湖南省の君山島で作られるお茶なんですね。
チョロチョロとゆっくり落ちて…。
茶葉がみんな立ってますよ何か。
ほら揺れるようにして。
3月に新芽だけを収穫して3日間かけて作られたお茶なんです。
きれいですよね。
だから献上茶として…。
献上されたの?皇帝へ。
そうです。
じゃあ頂きます。
あ〜独特だ。
あ〜。
す〜っとしますね体が。
今日はペギーさんの「D’sスタイル」でしたけど。
ねえ。
時間が短かったくらいだ。
いい番組ですねって改めて思いました。
本当にすてきなお話が聞けて。
またお話が楽しかったですね。
やっぱり深い。
もう生まれた年にデビューされてる訳でしょう。
そう思うとまだまだ私たちなんか頑張らなきゃって本当思いますよね。
なおかつ新しい事への挑戦。
「新しい歌を覚えていくんだ」ってね。
すごいな。
うんすばらしいですね。
・「爪を噛むのはよくないわ」次の国井さん持ち歌に。
あ〜いいですね。
すてきだと思います。
「歌うな語れ」ってね。
2016/01/22(金) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
団塊スタイル・選「いつもそばに歌がある〜ペギー葉山(81)〜」[解][字]
今回はアンコール放送。「学生時代」などの歌唱で知られ、「ドレミの歌」の日本語の作詞を手がけたペギー葉山さん。波乱の人生を歩んだ生き方や今も歌い続ける姿に迫る。
詳細情報
番組内容
今回は、アンコール放送。ペギー葉山さん。高校生のとき、ジャズにあこがれ、進駐軍のクラブで歌い、プロの歌手になる。その後、歌った「南国土佐を後にして」や「学生時代」が大ヒット。他にも、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」と出会い、「ドレミの歌」の日本語の作詞も手がけた。一方、病とたたかう夫で俳優の根上淳さんを、亡くなるまで在宅介護で支えてきた。波乱の人生を歩んだ生き方や今の魅力に迫る。
出演者
【ゲスト】ペギー葉山,【出演】ピアノ奏者…秋満義孝,【VTR出演】作詞家…小椋佳,(解説)音楽評論家…安倍寧,【司会】風吹ジュン,国井雅比古,【語り】バッキー木場,【声】苗村有香
ジャンル :
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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