(Twitter連投より)
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このニュースに関して、「生活上のしつけをしただけなのに体罰だなんて!」「特別支援学級で体罰無しでの指導なんて夢物語」との旨を書いている人たちがいました。
「こぼした麦茶を拭かせた」ことが体罰とされたんじゃなくて、
その子が障害特性のために感情のコントロールに時間がかかっていることを理解せず、抵抗している状態で力ずくである動作をさせたことに伴い怪我をさせたことが体罰とされたんでしょう。
療育センターで、(地域の小学校の特別支援学級ではなく)特別支援学校に進むことになるより障害程度の重い未就学児のお子さんたちを直接見ていた私自身の経験では、
「『体罰』無しでの学級運営」なんて夢物語でもなんでもないですよ。大前提。体罰を用いないと身につかない、のは思い込みでズレてる
言葉でのコミュニケーションがまだ身についていない子であれば、その子の体に手を添えて、手をかけて何かを伝えることはもちろんあるでしょう。
でも、それは「何か危険なことをしようとしているのを『止める』とき」や、あるいは「本人が聞き入れる体制になっているときに体の使い方を教えるとき」。
そうやって、聞き入れる体制になっていない状態で、力ずくでなにかをさせることを正当化したことが、
その子が力ずくで反発・抵抗することを助長しているということに気づかないほど、余裕がないのか。
力で押さえ込んで教えることは、一時的に
うまくいった気がしても、長期的にはマイナス。
何秒か、何十秒か、子どもの気持ちの受け入れ態勢が変わるのを待つことができないと、力ずくになる。
理想に燃えた先生が言うような「子どもはみな同じ可能性を持っている。『愛』を持って伝えれば必ずわかるはず」という見方に私は反対です。
一人一人わかりやすい伝え方や、成長のペースの違いがある。
そこを踏まえないで「今すぐにこれをさせて教えなくちゃ」と近視眼的になるのは「愛」ではない。
忙しすぎて、さらに閉じた人間関係の中にいると、自分の「あたりまえ」とか常識とかを振り返ることができなくなる。
自治体によって程度の差はあるだろうけど、支援級の先生が専門的なトレーニングを受け何かの資格を持っている率は決して高くないし、配属前の「研修」もごく限られたものと聞く。
昨晩も書きましたが、個人としての先生がどうこうではなく、システムの不備。
2歳や3歳から療育に通ってきた保護者と比べて、「知らない」先生がいるのも、制度的・構造的なもの。
仕事も定時なんてあってないような世界の超多忙さで、勤務時間外に自己研鑽をなんて望めない。
先生も人間。
例えば特別支援学級に先生が3人いるとして、誰か一人が出たあとに代わりにそこに配属になった先生は、
規程の研修なんかもあるかもしれませんが、その支援級に元からいた2人の先生にあれこれ聞きながら、その支援級の中での「あたりまえ」が標準だと思いながら経験を積んでいくことになるでしょう。
「誰かが悪い」というよりは、孤立し、閉じている構造がネック。
特別支援学校の地域サポートとか、教育委員会の特別支援教育担当のサポートがうまく回っていればラッキー。
そこで学校とか先生とかを非難したり叩いたり攻撃したりすると、ますます溝は深まる。
考え方の否定と、人の否定は違う。
そもそも、学校というところでは「達成度」「習得度」のようなものを評価することはあっても、
その前の子どもの状態を評価すること、
つまり、認知機能の凸凹としての得意不得意とか、
これまでの知的発達のペースから推測されるここからの発達のペースの見込みとかを見立てるという概念がない?
そのために「この子にはなにをどうやって教えよう」ではなくて、「この学年の子どもにはなにを教えていきたいか」がメインになる?
そしてそのために、学年間の引き継ぎとか、外部で行った発達検査・知能検査とかを、「先入観を持つのは良くない」といって、あまり取り入れようとしない先生がいる?
体罰肯定論の人をぶんなg…じゃなかった、折かn…でもなかった、身体的に教育的指導を行ったら、その「体罰肯定」という不適切な考え方を改めさせることができるか、という重大なパラドクスに足を突っ込んでしまわないように。
無暗な負担の押し付けは避けないといけないけど、特別支援学級ですら子どもに合わせた指導という発想が持てないのなら、「緩やかに」どころか未来永劫多様性社会など来ませんよ。
自分の常識が通用しない相手を理解しようとしていないのだから。
指導のためには教師が体罰を用いても構わないと主張する人は、
家で子どもを殴りつける児童虐待も「しつけの一環」と主張することでしょう。
そうした方は、子どもの逸脱行動はゼロトレランス方式で許容しないのに対して、自らの暴力行為は「しつけ」と称してなあなあにしてごまかす卑怯者かも。
学校の先生方が、無給での時間外勤務や部活顧問強制のような制度面での不備のために過重労働となっていることや、一部の変な先生がやる変なことで過度の一般化をされて非難にさらされ続けることは、しかるべく改善されていってほしいものです。
先生方はとても大変。
でも、体罰は是認できません。
主導権争い、権力闘争、正義論争にならない双方向的なコミュニケーションがあたりまえに広まっていくことを願います。
http://twilog.org/dicegeist/date-160124/ascより。
以下、共感してRTしたツイートたち。
「げんこつもダメなんだったら、言うことを聞かない子どもはどうやってしつければいいんだ?」って思う人もいるよね。ひとまず深呼吸して、冷静になって。感情に任せてはだめ。家族でも、友達でも、Twitterでもいいから、誰かに相談してみてください。もちろん、私でも。
— 子ども虐待対応たん (@childfirsttan) 2016, 1月 23
子どもを引っ張っちゃう先生、いたんだよね。ここで引っ張る必要ないでしょってところで動きの遅い子を引っ張る。この先生、授業を進行している支援級の同僚のほうに意識が向いてるんだよね。だから「迷惑かけないように」引っ張る。
— ヒヨコ (@hiyokoharumaki) 2016, 1月 23
待ったってたかだか数十秒だと思う場面でも引っ張っちゃう。これがどんどん進むと、間違いなく体罰になる。だってやろうとしてるのに引っ張られた子どもは怒って動かなくなって、そこでまた引っ張って、こんなに一生懸命授業を進行している私の言うことを聞いてくれないって思うとイライラするでしょ。
— ヒヨコ (@hiyokoharumaki) 2016, 1月 23
授業を遅らせることや待たせることは迷惑だっていう「正論」が、彼女の子供を引っ張る行為を助長すると思うんだ。子どもを引っ張って動かさなきゃならない授業を組み立てた同僚のほうにこそ苦言を呈してほしいのだけど。進行早すぎてついていけない子がいますよって。
— ヒヨコ (@hiyokoharumaki) 2016, 1月 23
子どもと先生のお互いの気持ちが一致しないで、引っ張ったり引っ張られたり、こういう小さなことの繰り返しが、結局は大きな事件になる。
— ヒヨコ (@hiyokoharumaki) 2016, 1月 23
暴力暴言の止まない子もいる。でも、それを許すのでもなく、暴力で対抗するのでもなく、違う方法を苦しくても探し続けなければと思ってる。自分の息子がとばっちり受けて病院へ行くほどの怪我をさせられても、心では仕返ししてやりたいと思っても、でも別の道を探りたい。
— ヒヨコ (@hiyokoharumaki) 2016, 1月 23
教育者は子どもに「ダメなものはダメ」と善悪の判断を教える必要がある。
ただ、それは暴力暴言威圧的態度によってなされるものではない。
言うことを聞くのは怖いからであって、内省できたからではない。
内省は強権力のもとでは生まれない。→
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 23
@NyoVh7fiap 子どもが安心安全な環境のもとで、この人なら自分のことを受け止めてくれる、寄り添ってもらえると思ってはじめて「自分にも非があった」と内省できるようになる。
そのために教育者は専門的な知識、対人援助スキルが必要になる。
支援に配慮の必要な子どもならなおのこと→
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 23
@NyoVh7fiap 暴力暴言威圧的態度で子どもをコントロールすることがまかり通るなら、専門職なんて必要ない。
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 23
だから人員削減とか言ってる場合じゃないんだよな。昔より求められる教員の資質が幅広くなってる。昔みたいに、クラスの思うように言うこと聞かない子にビシバシやって黙らせてとかそんなのは通じない時代なのよ。個々の資質を高めるだけじゃだめ。人手もないと。
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
学校教育法で体罰が禁じられたのは戦後すぐだったけど、しばらくはあってなきが如しだった。体罰がよくないとほんとの意味で認識され始めたのはここ20年くらいだから、てのもあると思うんだけど。体罰なしで教育なんてできん!て人は情報のアップデートできてないのよね
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 23
手のかかる子でもその時一瞬だけ瞬間的に言うこと聞かせるなら、体罰使った方がそりゃあ効果的に見えることもあるでしょう。でも、手を出す人がいなくなった時に抑制できなかったり、自分が気に入らない相手にそうしていいって誤学習したり。なんもいいことないんだけど
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 23
その時一瞬だけにしたって、適切な声かけする場合より、面倒なことになる場合だって少なくないと思うけどね
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 23
きちんと後片付けできるようにするのは大事、ってのはそれはそうなんだけど、その子がどの段階にいるのか、その段階にあった指導・支援はどういうものなのか、ってところが大事だよね。
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
例えばトランポリン乗りながら麦茶こぼして濡らしたのを綺麗にさせたい、てとこまではいいんだけど、やるならパニック状態が落ち着くまで待ってからでしょ。パニック状態のままで先生もキーッとなって無理矢理とかアカンて。
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
でも、30年くらい前だと、子供がどういう状態だろうと、力づくでも無理矢理でもやらせる、っての割と普通だったよね。今大人の世代ってのは割とそういう教育を自分が受けてきてるから、そうじゃないやり方があるってのをわかんない人が多いんだと思うんだけど
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
例えば、受容的な態度や共感する、ってことを、子供のワガママをきく、って捉える人はそれなりにいると思うんだけど、そうじゃないのよね。
子供がおもちゃ買って!と駄々をこねるときに、大人しくさせるために買う、というのはワガママをきくってことになるけど、
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
そーだよね、欲しいよね、これ素敵だもんねぇ、と気持ちを受け止める、でも買えないものは買えないと伝える。大人のほうも残念なんだけどねえ、と伝わるようにする。これはワガママをきくのとは違うよね。気持ちを受け止めるってのは要求を全てきくこととはちがう
— すぴかあさん (@supika_24) 2016, 1月 24
力づくでおさえつけたこと、怪我をさせたことが決め手なんだけど、拭くことを強制したことが体罰とされたと受け取る人、けっこう多いのか。「自分で拭きなさい」って叱るところまではありだと思うんだが。
— ゆたるう@23時以降ツイ禁 (@yutaro_today) 2016, 1月 23
特性で苦しむ要支援の子供にも体罰が必要だと言う人達により、苦しむほどの特性もなく楽に育てられると思われている定型発達児がどれほど無遠慮な言葉や強制や体罰でも大丈夫と思われてるか、透けて見えるのよね…。大丈夫じゃないんだけどね。
— sanaharano (@sanaharano) 2016, 1月 24
あの記事のタイトルをなんで「麦茶をふかせる」にしたんだろう?
「こぼした麦茶をふきなさい」は正しいけれど、「全治5日間の擦り傷や圧迫痕を負わせる」は正しくない、だから処分を受けたって話だと思うんだよなぁ。意図的にしたんかなぁ?それとも無意識的に指示に従えない方が悪いが出ちゃった?
— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) 2016, 1月 24
RT 自分がなんでこんなにモヤモヤするのか分かった。注目している点が、皆、違うんだ。そうか。
……で、「きちんと後片付けをさせることが大事」と思う人にとって、無理やり押さえつけたり、ケガさせたりは、どうやら大事なことではないんだな……なるほど……。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
これは何度も言っておきたいんだけど、「子供を無理やり押さえつけて何かをやらせる」のは、「障害があってもなくても」、マズイやり方だということ。「子供は自分で考えて動いちゃいけないんだ!大人はコワイ、言うことを聞いておけばいいと子供に思わせるぞ~」なら、いいやり方かもしれないが……。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「自分が悪いと思ってたから、先生からよくぶたれても気にしてない」というのは、まあ、そりゃ気にしてない人はそう言っちゃうだろうな、と思うけど、「自分は気にならないから、ぶってもいいじゃん、気にするほうが気にしすぎ」っていうのが、すごくマズイのよ~~~。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「ルールから外れたら、ぶってもいい」っていうのは、暴力の肯定なのよ。「暴力が人を動かす最適な方法」とか「暴力でしか人は動かない」という、ある意味、「人間の敗北宣言」でもあるわけよ。
ワタシには、「暴力を肯定する世界にな~れ」と望んでいるようにしか、見えない。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「暴力で言うこと聞かされるのはイヤだー」を、諸先輩方(世界を見渡せば命がけでやった人もいる)が、積み上げて積み上げて、人間、やっとここまできたというに、それを一気になし崩しにする言葉に、はあぁぁ~~……とタメイキが出る。げんなりだよぉ……。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「自分がされてきたものと違う指導や教育方法を子供が享受すること」を、なぜ、大人は否定したがるのか。ワタシは、「自分の歩んできた道を否定される気がする」ことを、恐れているんだと睨んでいる。(少なくとも、ワタシはそうだった)
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
暴力を否定することは、過去に暴力を受けていたアナタを否定することとは違いますよ。ぜぇんぜん、違いますよ。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「過去にアナタが受けていた暴力」は否定するけど、それは、「過去に暴力を受けていたアナタ」の否定ではないですよ。言葉遊びみたいだけど。でも、コレ、大事なコトね。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
無理矢理押さえつけられて言う事を聞かされた子供が大人になって、誰かを無理矢理押さえつけようとして上手くいかないときに、どこが間違っていたと考えるのが楽だろうか。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
他害のある人に接する時、やっぱり叩かれて痛い自分の気持ちを相手に伝える、ってのを一番良く見かける。パニックで、叩く以外の方法が見つけられず、って場合には、効果は薄いと思うんだけど、いつもここら辺が話が通じない最難関なの。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
体罰について話題になってるけど、この論文を読むと結構いいらしいよ(ステマ)。
CiNii 論文 - 児童生徒の行動問題に対する適正手続きとポジティブな行動支援 https://t.co/4BgbGTiO5U #CiNii
— 大久保 賢一 (@kenichi_ohkubo) 2016, 1月 24
機能している特別支援の連携システムがある市町村の場合、それをまわしているのは一人のスーパーコーディネーターだったりする。その人が異動になると機能が停止する、というのは特別支援教育スタートから10年でたくさん見てきた。システム構築も大事だが、維持のための検討も必要だ。
— 阿部利彦 (@zubattored) 2016, 1月 24
ニュース先から(ツリーにはしないよ。胸くそ悪いニュースだからね)。
(´<_` )普通に「暴行罪」だよね。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 中途半端に読みかじった知識・聞きかじった知識で、それが「正しい指導法」だと勘違いしていて、しかもその勘違いが壮大な人たちが教員の中に一定数いるのだけれど。なかなかね、このあたりは「学校」が抱える大きな闇とも関係していて、生半可なことでは変わらん。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 日曜日なので、ツイッターランドの膨大なツイートの波に飲まれるようにこっそりと書いてしまおう。(´<_` )
賢明な先生たちの中でも「体罰は致し方ない」と言われる方もいれば「体罰は決して許されない」と言われる方もいる。実際、現実にはこの両者は体罰はしない。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe ただ言葉面だけを聞くと、前者の「体罰は致し方ない」は、聞く人の程度・力量・知識量・経験値によって受け取られ方がさまざまであり。「あの素晴らしい先生が言うのだから、そうだ。体罰は場合によっては仕方がないのだ」と変換され、「体罰は許容されるべきものだ」となる。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe そういう危ういところが、常に「学校」にはある。だから、管理職なり主幹なり主任なりは、自分が吐く・撒き散らしている言葉や態度の影響までを常に考えなければ、軽口が学校崩壊を簡単に招く。要は、内部の中で問題が大きくなり、いつの間にか問題とも見なされなくなる。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 後は、したくないエアリプをひとつ挟ませてもらう。(´<_` )「支援学級に勤めている妻の話」を聞いた夫が、同業者であれ無関係の職種であれ、「障害があるのであれば、体罰も仕方のない状況がある。そうだ体罰は許されるものなのだ」と思っている点。悲しい。無性に。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe ついでに言うと、同業者でないのであれば、そうした個人の情報・学校内の情報を「ただ身内だから・家族だから」というだけで、振りまかれていることにもかなりダメージを受けた。(´<_` )相談業務をしていて知り得た情報は、墓場までもっていくものであると思ってる
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe (読んでいて辛くなるフォロワーの方、今日のわたしを全力でミュートすることをお勧めするよ:仕事スイッチが入るとこうなる典型パターン)
後は。聞きかじった知識を咀嚼もせずに鵜呑みにしているその教員。根本的に典型的にダメだ。悪いがばっさりと、ダメ。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 過剰修正法らしきものをしただけで、それはまったく過剰修正法ではない。プロンプトの意味すらわかっていない。プロンプトの土台は「支援」であり「サポート」であり、「強制」ではない。これ、訳した人間も悪いのだけれど、無理矢理怒鳴りつけてさせている時点で、ダメダメ。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 残念なことは、聞きかじった程度の読みかじった程度の知識で、「勉強しました!」「そうした指導法はちゃんと知っています!」と公言する人たちがこれまた教員の中に一定数いる現実。(´<_` )研鑽を続けている人間は、決して「勉強しました!」とは言わん。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe リトマス紙風にわたしがよく判断するのは、
・そのことについては本で勉強しました
・ああいう子は担任をしたことがあるのでよく知ってます
の二本立て。教員でこのセリフを吐く人は、まあ残念だけれど、漏れなく全員が使えん。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 「勉強しました!」という時点で、もうその手の教員にとっては、「過去のモノ」であり「完了したモノ」であり、そして何故か「自分はそのことについてはすべてを知っている」と壮大な思い込みをしているので、そこから新たに考えを深めるために学ぶという方向に行かん。
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
@moody_cafe 自分が有能であり万能であると思い込んでいる時点で、もう「教師」でなくなっているんだけどね・・・。(´<_` )ただこれはもう管理職とか教育委員会とか文科省の仕事だ。おしまい
— moo@珈琲中 (@moody_cafe) 2016, 1月 24
ほんとコレだいじ。
気持ちをちゃんと受け止めれば、子どもの方も「でもいまは買えない」っていう理由を、感情的にならずに受け止める。納得する。
それはべつに、子どもの機嫌取りでもなんでもないことなんだよね。
https://t.co/412DVchIMY
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
あと、例えばなにかでトラブって子どもが大泣きしたり半ばパニックになってるとき、畳み掛けるように指示をしたり説得しようとしたりしても、子どもは受け止めきれない。
舞い上がってるから、話が頭に入らないんだよね。
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
だから「いまはちゃんと話が頭に入らないから、少し時間を置いてあとで言おう」っていうのに、そこで「どうして子どもの機嫌を取らなきゃならないの!」ってなるのは違うと思うんだ。
それは機嫌とってるんじゃなくて、マネジメントの問題だと思ってる。
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
相手を説得しようとするとき、相手が話を聞いてくれる状態にあるか(有り体に言えば、相手が感情的になっていないか、冷静に話し合いを続けられるか)を見極めるのは、説得する側のマネジメントの問題だと思う。
いかに「説得」という行為の効率をあげられるか。
子ども相手の話だけじゃないよね。
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
また逆に、自分が感情的になっていると、話の随所に自分の負の感情が散りばめられたり、選ぶ言葉や口調に刺々しさが入ったりして、これもやっぱり話がちゃんと伝わらない。
そういうときも、時間を置いて冷静になってから話した方がいい。
そういうのもまた、マネジメントの問題だと思ってる。
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
けっして、「ご機嫌伺い」とか「腫れ物扱い」とかじゃないと思うんだ。
— 永田 聡 (@donburioyaji) 2016, 1月 24
一定ルールを決めた上での体罰はありって、現場はそういう感覚なのか…。
そのルールは子供たちが決めるんだろうか?
いや、多分、先生とか、大人と言われる人たちだよね。
それは子供たちにとって納得のいくものなんだろうか?
○○したから叩かれても仕方ない、と。
なんか、違和感。
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
あ、もうひとつビックリしたことに、「折檻」と「タイムアウト」を同列に考えてる現役教諭のアカウントがいらしたような…。
怖すぎ((゚Д゚ll))ガタガタ
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
小学生の頃は容易に封じ込めることが出来た次男も、中1になって標準より育ちすぎた今では、私はおろか場合によっては父親でも敵わない。
幼い頃に暴力や恐怖によって従わされていた者が力を手に入れて恐れることが無くなった時、どうなるかなんてわかりきってる。
それでも体罰なのか。
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
あくまでも、私は、だけど。
次男には恐怖をちらつかせても意味がないどころか拗れるだけなのでやらない。
クールダウンやタイムアウト、そして徹底的に話し合う事でどうにかする。
どうにもならなければ、それ以上は深追いしない、また時間を改めて話しようね、と切り上げる。
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
次男は、彼自身が納得しないと絶対に動かない。
無理に動かしてもその何倍もの時間をかけてスタート時点に戻るだけなのでロスが大きすぎるからやらない。
時間をかけて彼の理解が追い付いてくるのを待つしかない。
もっとも、家庭だから、パートタイムだから、等々、できる環境だから、なんだけど。
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
定型(と思われる)長男は、こちらが高圧的な態度に出てくることを面倒に思うタイプなので、初めから立ち向かってくることはなく要領よく立ち回るタイプ。
教室にいるほとんどの子供はこんな風じゃないのかな…。
— みちよ (@michiyonn) 2016, 1月 24
川上康則先生よりシェアします。
「罰や脅し」の副作用 pic.twitter.com/XXIVseSFxn
— メミ (@nakanohausu) 2014, 6月 19
子どもを落ち着かせるタイムアウト法は有名ですが、子どもや他児の安全を確保できるなら、援助者が自分から離れる方法もある。これを「非強制的タイムアウト」と言う。
子どもに説明した上でその場を離れるのは逃げることとは違う。
援助者が感情的に関わってしまわないためのひとつのスキルである。
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 24
体罰がなぜいけないかについて、森田ゆりさん(CAP(子どもへの暴力防止プログラム)を日本に紹介した方)が、「子どもと暴力」という本でまとめられています。→ pic.twitter.com/hViXAsMM9P
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 24
@NyoVh7fiap 体罰の6つの問題点
①体罰は大人の感情のはけ口
②体罰は恐怖で子どもの言動をコントロールする
③体罰は即効性があり他の方法がわからなくなる
④体罰はエスカレートする
⑤体罰は見ている他児にもダメージを与える
⑥体罰はときに取り返しのつかない事故を引き起こす
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 24
@NyoVh7fiap
「『体罰はよくないが、時には必要だ』という実に多くの人が支持するこの考えは、きっぱりと捨てなければならない。
『時には体罰も必要』と考えている限りは体罰は決してなくならない。『どんなときにもしない、させない』と自分に対して決めておくことが肝心だ。」→
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 24
@NyoVh7fiap →「身体的、心理的苦痛や恐怖を与えられたことで子どもが得ることは、反省や従順ではなく、鬱積した感情である。
この閉じ込められた感情は、長い時間をかけて、子どもの自己認識、対人関係に歪みをもたらしていく。」
— にこふ (@NyoVh7fiap) 2016, 1月 24
RT 「体罰が必要だ」と思っている人は、体罰を受けて、見て、育っただろう。それを「良い経験だった」と思っているかもしれない。ならば、まずは、自分の経験と、目の前の子供とを切り離してほしい。アナタはこの子じゃない。アナタと同じ経験を、この子がしなければいけない理由は何もない。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
RT 最後の(6)が、まさに。「力関係次第で、他人に同じことをする」。
「大人から子供への体罰は必要」という主張は、力関係に基づいたもの。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
「理不尽なことをする大人に、子供からの体罰が必要」と聞いたことがないのは、なぁぜ?
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
力関係に圧倒的差異がある。報復されない。「気楽に」体罰を行使できる状況。
— ぱふ (@ppaaffuu) 2016, 1月 24
【体罰に関して】
TLに体罰の話題が挙がったので、現役福祉職員として体罰について語ってみる。
まず、体罰はダメです。何故かってあなたの人生が狂うから。
人権とか道徳とかそういう綺麗事は言いません。体罰をされた人がどうとかも他の人が言ってるのでいいません。
(続く)
— こっしー (@shown_hid) 2016, 1月 25
(承前)
体罰は麻薬です。
体罰は即効性があり、利用者だったり患者だったり生徒だったり、クラスそのものだったりを簡単に操作できます。
どんな聖人君子でも、即座に自分の思うように人や状況を操作出来る快感には簡単には勝てません。
(続く)
— こっしー (@shown_hid) 2016, 1月 25
(承前)
ですから、体罰をうっかりやってしまったら、次からは体罰をしたくてしょうがなくなります。意識で体罰を否定していても、体罰の魔力は宿っています。
体罰の魔力はその人の性格や育ち性別に関係ないレベルの場所で働きます。
(続く)
— こっしー (@shown_hid) 2016, 1月 25
(承前)
一旦、体罰の魔力が宿ったら、そこから抜け出すのは容易ではありません。
タレントの田代まさしが覚せい剤で捕まった後「僕は覚せい剤を”止め続ける”」と言いましたが、言い得て妙です。
体罰も”止め続け”なければいけません。
(次で最後)
— こっしー (@shown_hid) 2016, 1月 25
(承前)
あなたがどんなに素晴らしい人間でも、体罰の魔力はあなたを確実に蝕みます。
あなたがどんなに素晴らしい人生を歩んでいても、気づくと”パニッシャー(体罰者・処罰人)”になってしまう事があります。
そのような事からも、体罰はやめましょう。あれは麻薬です。
— こっしー (@shown_hid) 2016, 1月 25