真賀田四季と人格社会(すべてがFになる)
私達は本来すでに完了されており"思い出す" だけであらゆる問に対する答えを導けるはずなのだ。
今はわからなくとも過去にもわからなくとも、いつかには到達できる。それは長い年月が経ち何かを得て、何かを知って、何かを聞いたからその答えに辿りつけるのではなくただ思い出しただけと知覚できる人間はどれくらいいるのだろう。「外界」で何かを得たことで手に入れたのではなく、自分の裡にあるセカイに手を突っ込み引きずり出した事に過ぎないとを知る者はどれくらいいるのだろう。
「西之園さん、ここではね知りたいことはすぐ目の前で見られるのよ。話したい相手はいつも目の前にいる」
「元々の世界はこうだった。あなたがいる世界はとても不自由なの。たくさんの情報を与えられても全てがすぐに忘れられ失われるしかない」
「でも本当は違うのよ」
「西之園さんこちらへいらっしゃる?」
「どうしたの?怖くないわ?」
「ここが本来の世界なんですから」
それはまさに『すべてがFになる』で真賀田四季がいうような場所なのである。知りたいこと、見たいこと、そのすべては最初から"在る"。答えは得たよ、ではなく答えは最初から"在ったよ"なのである。
――思い出せ……思い出すんだ…悠くん……
私達は本来ならば "思い出す" だけでいいんだ。よかったはずなんだ。けれど悲しいかな、いつの間にかその機能は失われてしまった。少なくとも歳をとった凡人には「想起」する感覚は消え失せており、「得る」こと感触しか残っていない。さらにはそれをお守りのように有難がり、知ることを唯一絶対無二のごとく尊び執着するなんて馬鹿げてる。やれやれ。陰と陽が内在しぐちゃぐちゃになったカオス蔓延る塔大山の頂きを私達はまだ知らないってか? そうだきっとあんな感じだ。あるいはAletheiaの光で目が潰れるような世界のどちらかだろう。
――思い出すだけで全てが成る世界ってのは
いや、もしかしたらそこは図書館の形をシているかもしれない。そこに白亜の地球儀かなんか置いてあったりしてね。
西之園「どうもこうも両親を殺しているんですよ。いくら自由が大事だからって、それって、人として何かが決定的に欠けていると思います」
犀川「いや欠けているのは僕らのほうだよ」
西之園「はあ?!」
犀川「僕らは欠けてるからこそ、人間性なんてものを意識する。愛情とか道徳みたいなルールを作る。それを守ることで何かを補おうとする」西之園「愛情や道徳は価値がない、ただのルールだって言うんですか」
犀川「そうは言ってない」
犀川「真賀田博士のモラルと僕らのモラルとは違うって言っているんだ」
西之園「そして博士のほうが正しい、と」
犀川「正しいかどうかは分からない。ただ、真賀田四季ほど純粋な人間はいない」
西之園「純粋?… 私からすれば自分勝手でややこしい人にしか思えません!」
犀川「人間は本来ややこしい生き物だよ」
犀川「子供の頃は誰だってひとつの人格じゃなかったはずだ。常に矛盾し、今よりもっと多様な考え方をしてた。でも成長するに連れてそれらを統合し矛盾のない一つの人格になろうとする」
犀川「たったひとつの肉体に合わせてね」犀川「そして結局みんな肉体に縛られて生きることになる。それってすごく不自由なことだと思わない?」
西之園「私は不自由だなんて感じたことはありません」犀川「僕は常に感じてるよ」
犀川「でも真賀田博士は、誰もがするように人格をひとつに統合せず、独立した人格をいくつも持ってた。僕はそれが純粋な人間の在り方だと思う。もっとも人間性が豊かだと言えるのは真賀田四季博士のようなカタチだよ」
――『すべてがFになる』5話
社会性とはすなわち人格であり、社会は人々に人格者たれと要求してくる。もし人格が無い者がいた場合そやつは社会生活を剥奪され「人間ではない」という烙印を押されるだろう。一貫性を求めるその要求は精神を縛り、思考を縛り、挙句には肉体を縛っていくのだ。
きっと人が群体になるには必要なことだったかもしれない、だがそれはあまりにも自由とは程遠い。
◆
ありもしない「人格」という幻想を押し付けられる私達。OSに一貫性のプログラムを仮想動作させられる悪夢。そしてそれを強制的に精神に"走ら"せられていることを知らず、あるいは気づかないふりをし、無邪気に、他者にもそれを要求してくる哀れな群衆。
人格なんてものは貨幣経済と同じく幻に過ぎないのだと、奴らはいつになったら気づくのだろう?
人間に一貫性なんてものはどこにもないのね。
分かってないんだろうな。
ノイジーでランダムでしかない点上の思考を"線上"だと言い張る愚かさが私は憎いよ。抜けて抜けて抜け落ちている穴を「ない」と言い張り、無理をとおし、嘘で固め、どこまでこの人格社会は突き進むのだろう。
関連→PSYCHO-PASSの常守朱と槙島はエリートだからこそ「考えろ」と言う。しかしそれは衆生の目線を無視したものだ
そういう意味ではインターネットというのは、アカウントごとに人格を切り替えられるので真賀田四季のようなハイスペックな頭脳の持ち主には相性がいいんだろうなと思う。なにしろここでは精神と思考は肉体に縛られないからね。
(ここでも社会性は1アカウントごとに要求されるので縛られているという感覚はつきまとうのかもしれないが)
そういえば知能が高い者はSNSで多岐にわたるアカウントを使い分け廃ツイを行う研究結果があったけどそれもこの目線で見ればなるほどなと思えてしまう。
真賀田四季博士はいいね。惹かれる。
売り上げランキング: 6,170