田村ゆかりという女性声優が凄いらしいという話は常々聞いてたんだけど、最近改めて動画を見たりラジオを聴いたりしてみた。
こういう人は嫌いじゃないなあと思いつつ、ふと頭に浮かんだのがスケート選手の羽生結弦。田村ゆかりが抱えている構図は羽生結弦が抱えるそれによく似ているような気がする。
虚構による自己拡張
羽生結弦や田村ゆかりを見ていて思うのは、こう言うと語弊があるかもしれないが、ナルシストであること、つまり現実の自分より自分を美しいと信じることは、人々を惹きつける上で必要なことなんだなということ。
人には一般に強いところもあれば弱いところもあり、程度の差はあれ強味と弱味を考慮した相応の自己の大きさを周囲に表明していることが多いと思う。Aという分野は得意だからその得意さをすこし誇張してでも表明し、Bという分野は苦手だから一歩引いた位置に構える。レーダーチャートを考えると、面積としては強い軸と弱い軸の平均を取った多角形と同じぐらいになるイメージ。
一方の彼ら彼女らは、一つの強みがずば抜けていて、かつそのずば抜けた強みの高さのぎりぎりいっぱいまで自己を拡張して生きている。
弱みを含めて平均するのではなくて、弱みは見せず、一番高い強みに無理やりにでも他を合わせていく。レーダーチャートで飛び抜けた一つの頂点に合わせて周囲を引き上げた体積を志向する。
実際の彼ら彼女らにはいくつか弱いところがあって、外に見せるためにつくりあげたところまでの完成度は実質として持っていない。だけど、彼らは弱みを捨象して拡張した自己を表明し、自らそれに見合う立ち居振る舞いをすることで、ある領域での自らの立ち位置をそこまで高めている。
そして、王子様やお姫様を求める人達にとっては、それが現実であろうと虚構であろうと大した問題ではなくて、それを信ずるに足る強度、説得力だけがあればそれでいい。それはスケートの才能による説得力かもしれないし、声の美しさによる説得力かもしれない。物語を作り、説得力にものを言わせて自身に同化させることで高みへと登り、人々にその物語を楽しんでもらうのが彼らの仕事である。
虚構を抱えるのはよいことか
この方法論はどう評価するべきだろうか。
つまり、自身の実情を上回る虚構を身に纏い、その一部だけでも貫き通す力を頼って説得力を持たせ、自己体積を増大させることの是非はどうか。
一概に悪いことであるとは言えないのは見てわかる。実際彼らはあれだけ多数の人々を惹きつけて楽しませ、日々の活力となるようなエネルギーを与えている。そこで生み出されるエネルギーは、彼らが虚構を身に纏わなかった場合の比ではないだろう。
ぱっと思いつくのは、まず彼らの虚構を支える柱が折れた時の問題。
スケートができなくなった羽生結弦や、声を失った田村ゆかりがどうなるか。まず間違いなく彼らはそれまでの虚構を支えきれなくなる。彼らが身にまとった虚構は一本の大きな柱によって保持されているので、それを失えば倒壊するだけだ。
彼らはアイドルである以前にスケーターであり声優であって、実質はそこにある。彼らはまず第一にプロフェッショナルであり、その上に人柄や個性や各種の才能を載せて売り出している。それが無くなれば一般人に戻ることになる。残りの才能だけでは表舞台にはいられない。
芸能活動的側面から見れば引退することになるんだろうけど、その後の彼らの実生活はどうなるだろう。膨らんだ自己を一気に収縮させた生き方をすぐに見つけられるのだろうか。
彼らのやっていることはそんじゃそこらの芸人のキャラ作りとはわけが違い、着て脱いでを容易に行えるものでは到底ない。あれは自己を溶かして膨らませて不可逆に固めたような何かであって、弱みを持つ本来の自己との境界は、もはや切り離せない程度に曖昧になっている気がする。
彼らがそうするのは、そこまで持っていかないととても貫き通せないからだ。少なくとも外部からまなざされている範囲は全て取り繕う必要があるので、演じるというより常にONの状態にすること、すなわち一体化が必要になってくる。
これを崩すということは自我の崩壊と再構成を要求することで、並大抵の作業ではない。あくまで仮面として分離した形で捌き切れているならいいが、そうでなければ巻き添えを食って崩れた自我と共に、ゼロからの自分探しを行わなくてはいけなくなる。少なくとも、そういうリスクがある。
一方そのリスクを踏まえて、虚構を貫き通せる期間に限定して彼らの戦略について考えてみると、これは彼らとその近しい人々、および彼らのファンにとっては完全なプラスになる。
彼らは自己を拡張したほうが多くの仕事を貰えるし、気分だってよい。また、彼らが魅力的であれば、近しい人々もファンも嬉しいし楽しめる。
だからゆかりはお姫様であり17歳であってよいのである。その虚構を守り抜く覚悟と能力だけあれば、彼女も彼女の大切な人たちも幸せでいられる。
この虚構を支えぬく覚悟と能力をひっくるめて、プライドと呼ぶのではないだろうか。
謙虚であることは美徳とされがちだが、彼らがもし等身大まで自己を縮小すれば、減った嵩の分だけ彼らのファンが受け取るものも減ってしまう。
一方、嵩を広げれば広げるほど弱い自分からの差分が重くのしかかり、見せ方の工夫であったり差分を埋めるための研鑽であったり、多種多様な努力が必要になる。
謙虚であることと自己を過大評価すること。この二つは、きちんと演じ通すという条件をつければ後者の方が遥かに困難な道であり、また彼らが魅力を振りまくアイドルという役割をもつ限りにおいて、後者はより多くの人のためになる善行であるともいえる。
一般人と虚構のあり方
翻って、我々一般人はどうするべきか。彼らほど突き抜けていなくても、どこかアンバランスに尖っている部分は各々多少はあるはずで、それを使って自己を拡張するかどうかというオプションは我々にも存在する。なんなら軸になる尖った部分がなくても見せ方で見栄を張って広げることも一応はできる。
誰のために、何のために、どの程度の虚構を組み上げて、何によって支えていくべきか。それを貫き通す覚悟はあるか。
こんなことをいちいち意識しなくても、ある程度虚構を構築している人は多いような気がする。ファンのためにという動機がなくても、自分が美しいと自分の気分が良いというだけで虚構を被る動機にはなりうる。そして、それ自体はアイドルが身にまとう虚構と同様に、決してマイナスにはならない。
問題になるのは、虚構を守り抜くために他人を攻撃し始めた場合だろう。
芸能の世界はそれぞれが輝けるようなステージが用意されているが、現実に我々が生きる世界はそうはなっていなくて、誰かが輝けば誰かが日陰に落ちることになりがちだ。
こうなると、各々が拡張した自己の中に「主役たること」が含まれていたり、各々の虚構が相容れない形で交差したとき、それぞれ自らのプライドを守り抜くために血みどろの闘争を始めることになる。
そうした姿を見てしまうと、ああ傲慢になんてなるもんじゃないなと思ってしまうのだけど、しかし前述したようにプライドを持つこと自体は決して悪いことではないのである。
自身にとって、自身の所属する組織にとって、自身の友人や家族にとって、自身が魅力的であろうとすることはプラスに働くので、他人とぶつからない範囲で、かつ自分が背負いきれる範囲で、虚構は背負っていった方がいいのかもしれない。
どうも自分はそういう自己を大きく見せて云々というのに過剰な嫌悪感があるんだけど、この直観はあまり合理的じゃないなと色々考えてみて実感した。自己縮小で得られるのはナルシストと罵られないための予防線ぐらいしかなさそうだ。
弱く小さく引っ込めるよりは、利害が交錯しないような方向を選んで広げていくことを考えていくべきなのかもしれない。頭で分かっていてもなかなかできることではないけれど。
虚構に対して意地を張り切れるというのも、また一つの才能なのだろうなと思う。