GNEXと三上洋一郎のこれまでの軌跡

2015年7月8日

皆様こんにちは。三上洋一郎と申します。
ここでは僕の育った背景や、何を考えて会社を興したかなどを書き残しておきたいと思います。

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僕は兵庫県の西脇市という人口4万人ほどの小さな都市で生まれました。
その後3歳の頃に兵庫県西宮市に引っ越し、また1年後、父の転勤の関係で神奈川県横浜市まで引っ越してきました。

幼稚園を西宮市で1年、横浜市で2年過ごしてから、地元の公立小学校へ進学しました。

小学校3年生のころ、とある書籍との出会いによりプログラミングを始めてものの半年ほどで挫折したことは記憶に新しく感じます。
挫折してしばらくはパソコンが小さな頃から家にありましたので、ブラウザゲームやクライアント型のオンラインゲームで友人と遊んだりとしていました。

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また、同時期に株式投資や金地金の積立などの知識をひょんなことから知り、同時にその勉強などに傾倒していました。
その後、当時未成年口座の開設が可能であったSBI証券や三菱マテリアルで取引を始めてみました。

とはいえども当時、僕は小学校3年生なわけでそんなお金を持っているわけでもなく、ほんの10万未満を原資とする少額投資であったことは言うまでもありません。

そんなことをしているうちに、小学校5年生の時通い始めていた個人塾で中学受験を勧められました。

母からは高校から受験すればよいのではないかと諌められましたが、父や塾の先生の推薦もあって結局5年生の下半期より四谷大塚という大手の進学塾へ通い始めました。
というのも、当時小学生の頃は誰もが経験したことかもしれませんが、往々のテストでは授業を殆ど聞かなくても満点かそれに近い点数を取ることができ、
そもそも面白い授業も少ないので、教えることに特化した塾という存在は自分にとっては魅力的でした。

そして、いざ入塾した進学塾ですが、といったところで勉強することはなく、毎週週例テストというのがあったのですがそれの直前だけ勉強して乗り切るという日々を送っていました。
この頃の体験が、僕がいま数学が苦手である原因に通じているようにも思われます。

受験前日にも、(その日は例年にもまして大雪だったのですが)小学校の友人が午後家の前に来たのでロフトから雪合戦をして遊んでいたことを覚えています。
母からは叱られました。

当時の成績はうろおぼえながらも、今ほど文系科目と理系科目の開きがあったわけでもなく、当時算数以外はそこそこ取れていました。
特に社会科目と国語科目に関しては65~70以上の偏差値をある程度コンスタントに取れていたように記憶しています。

とはいえども、算数の偏差値が40を割り込むこともままあり、小学校での宿題の提出率があまりよろしくなかったことからも内申点が取れず、第一志望や第二志望に不合格となり、滑り止めであった中高一貫の私立中学校へと進学しました。

ちなみに第一志望は東京学芸大学附属世田谷中学校というところでした。第二志望は教えません。

 

僕はこの時、生まれて始めて大きな選択の失敗をしたように思います。自分に選んだ学校は進学校でした。
勿論、進学校と言っても開成や筑附といった上位校から下は有象無象の学校まで様々ですが、僕の通うこととなった学校は、中堅もいいところの東大進学率が5%程度のところでした。
僕は中高一貫校というメリットを中学2年生の頃に享受することとなるのですが、それを除けば自分が歩んできた勉強しなくても良かったという環境からの脱却を強いられたのです。

しかし、長年の習慣というのはなかなか治らないもので、すぐに勉強を始めるということはなく、思えば今現在においても家で勉強をしたという記憶がありません。

 

中学生になってから、僕を取り巻く環境は大きく変わりました。
朝6時半には起きて朝食を食べ、7時半には学校へ行く、そんな日々が始まりました。

思えばこの頃からMMORPG系のゲームに手を付け様々なタイトルで遊んでいました。
プログラミングも改めて触ってみたのですが、周りに同じようなことをしている人間がいるわけでもなく、結局また挫折したことを覚えています。
当時手を付けていたのはC++という言語で、後になって知るのですがどうしてこんな不可解極まりない言語(失礼)に手を付けてしまったのか、未だに後悔をしています。

しかし、やはり自分が将来やりたいことなどを考えると、自分が3歳の頃から触ってきたパソコン、IT分野に就職したいと思っていました。

そんな僕に転記が訪れたのは中学2年生になる少し前のことでした。

2011年の4月に、Twitterでメンバーを集めつつ学生団体GNEXは立ち上がりました。当時は何をするというわけもなく、SNSを作ろうとエンジニアやデザイナーを集めボチボチと企画を作ったりとしていました。
今以上に知識もなく、恥ずかしいこともしていれば色々な方にご迷惑をお掛けしたなと思い返されます。

当時、国内でも既に普及し始めていたスマートフォンを持ってないどころか、ガラケーすら持っていなかったのでやりとりはすべてPCで行っていました。

そうして活動を暫く続けていると、8月頭にとある方からビジネスプランコンテストへの出場を勧められました。

当時、僕はまだ起業といった意識もなければビジネスなんて考えたことすら無く最初はお断りしたのですが、何度かご連絡を頂きせっかくなので出てみるか……という軽い気持ちで出場しました。

そして8月末、その日は例年に比べて涼しく、少し曇った空模様だったと記憶をしています。
渋谷のmixiのオフィスで開かれたイベントで、僕たちは旅行者と空き室をマッチングする『CyberTravel』というサービスをプレゼンし、審査員特別賞と副賞としてサムライインキュベートという投資会社からの500万円の出資確約を頂くことができました。

当時プレゼンをしたCyberTravelというサービスは、僕らの知識の無さが原因ではあるものの、アメリカで芽吹いていたベンチャー企業『AirBnB』(今では100億ドル以上の評価額をつけている会社です)のモデルと酷似しており、残念ながら実現には至りませんでした。

 

それから半年間、実際に会社を興すかどうするか悩みに悩みました。

ですが、失うものは当時の僕からすれば全く無い上に色々なことを体験し見聞きするまたとない機会だと思いましたので、このチャンスを有効に使ってみようと思い、中学3年生になる直前に、天王洲アイルにできていたオフィスにお伺いし週1での打ち合わせがスタートしました。

余談ですが、この天王洲アイルにあるオフィスは僕の家から通うと1回1000円以上掛かることから、当時お小遣いが3000円だった僕は毎週行けずにご迷惑ばかりおかけしていました。

そんなこんなで、2012年の4月からGNEXは法人化に向けビジネスモデルの再構築と組織作りが始まりました。
法人化までの間、3つほどのサービスをリリースし計1万人程度の方に使って頂いていました。
今ではもう既に公開していませんが、その頃のサービス設計の下積みは今でも確実に効果を発揮しているように思います。

 

そんなことがありながら、僕は中学3年生の3月を迎えました。

まだ梅が咲いていた頃と記憶していますが、2013年3月4日に僕たちGNEXは法人化を致しました。

三上洋一郎

三上洋一郎

Twitter: @Mikami_Yoichiro

Facebook: yoichiro.mikami

株式会社GNEX代表取締役 当学園の理事長も勤めております。