1979年(昭和54年)1月、保利茂衆議院議長が病気で辞任し、灘尾弘吉が後任議長に選出された。首相は福田赳夫から大平正芳に代わっていた。与野党伯仲国会の下、大平内閣は予算修正問題などで難しい国会運営を強いられていた。そうした中で灘尾議長は公平、公正な議会運営を心がけた。大平首相は国会での安定多数を求めて同年9月、衆議院を解散した。解散によって灘尾は自動的に議長職を退任した。
■40日抗争の渦中に議長再選
この選挙では大平首相が提唱した消費税導入問題が争点となり、自民党に逆風が吹いた。途中で大平は消費税導入論を撤回したが、逆風は収まらず、自民党は過半数に達しなかった。選挙後、福田派、三木派、中曽根派は大平首相の退陣を求め、「40日抗争」の火ぶたが切られた。
大平・福田会談では激しい応酬が展開された。「私があなたの意見に従って辞めるということにしても、あとに適当な人がおりますか」「おる。灘尾弘吉氏だ」「いや、ちょっと年が進みすぎている。灘尾さんは、私は適当ではないと思う」「灘尾さんは適当じゃないと言うが、君が辞めるということになれば、人材はいくらでもおる。あとの人が相談して決めますよ」「いや、それは福田さん、私に死ねということだ」。
福田が後継首相の候補に灘尾の名を挙げたので、これを封じるため大平首相は灘尾の衆議院議長再任を決め、10月30日に召集された特別国会で灘尾は再び議長に選任された。議長は決まったが、首相候補をめぐる自民党内の対立は激化した。主流派が大平続投を決めたのに対し、反主流派は福田擁立を決定し、自民党は分裂状態に陥った。西村英一副総裁が調停に動いたが、調整はつかなかった。灘尾議長は「自民党の都合でいつまでも野党を待たせるわけにはいかない」と判断し、11月6日に首相指名の衆議院本会議を開会した。
自民党から大平、福田の2人が首相指名選挙に出るという未曽有の事態となった。決選投票で大平がかろうじて福田を破り、首相に再選された。国会法では首相指名選挙の決選投票で2人の候補者の票が同数の場合、くじ引きで決すると規定されている。この時の首相指名選挙で衆議院事務局はいまだかつて一度も使われたことがないくじ引きの箱とくじの棒を用意して万が一の事態に備えた。
衆議院議長に再選されたが、灘尾は次期総選挙には出馬せず、政界を引退する決意を固めた。定期的に会合し「3賢人」と言われた椎名悦三郎は死去し、前尾繁三郎も選挙で落選し、灘尾1人が取り残された格好になった。灘尾は後継者に広島県出身の官僚の中から井内慶次郎文部次官に白羽の矢を立てたが、井内は健康上の理由から固辞した。次いで田中敬・大蔵省主計局長に打診したが、田中も「政界に出る意思は全くありません」と断った。田中と井内は「断ってばかりでは灘尾先生に申し訳ない」と2人で候補者を探した結果、粟屋敏信建設次官が「私でよければ」との意向を示し、田中と井内が粟屋を灘尾に引き合わせた。
■まさかの不信任決議可決
灘尾が粟屋を後継者とする意向を固めつつあった1980年(昭和55年)5月、野党提出の大平内閣不信任決議案が福田派、三木派の本会議欠席で可決され、大平首相は解散を決意して憲政史上初の衆参同日選挙になだれ込んだ。福田派と三木派は野党の不信任案に反対する条件として党改革と綱紀粛正に関する要求を大平に突きつけて調整が難航し、灘尾議長は3時開会予定の本会議を5時に延ばしたが、「これ以上、本会議を延ばすのは国会軽視になる」と判断して同日夕に本会議開会に踏み切った。
灘尾は福田派、三木派の欠席で不信任案が可決される事態を想定していなかったが、与野党伯仲状況で不信任案が可否同数になる事態は想定して衆議院事務局と対応を検討していた。いまだかつて例がない不信任案の可否同数の事態になったら、議長の決裁に持ち込まれるが、議長は消極的に対応する、つまり否決するのが一般的であるというのが衆議院事務局の非公式な見解であった。突然の解散になって灘尾は粟屋へのバトンタッチが間に合わず、この選挙に出馬して12回目の当選を飾った。
灘尾の議長在任中の国会は与野党伯仲に加えて、自民党内は田中派、大平派の主流派と福田派、三木派、中曽根派の反主流派の対立抗争が激しい時代であった。大平首相の急死と衆参同日選挙の自民党圧勝によって政局はようやく落ち着きを取り戻した。灘尾は議長退任に伴って自民党最高顧問になった。
■全人代常務副委員長から訪中要請
議長在任中、来日した中国全人代常務副委員長のトウ穎超女史(周恩来夫人)から「全人代として灘尾先生を中国にご招待したい。議長として是非お越し下さい。熱烈に歓迎します」と招請を受けた。灘尾は日華議員懇談会会長としての立場があったが、全人代から衆議院議長として招待されたら議会外交の儀礼上、断り切れないとも考えた。それもつかの間、突然の解散によって議長を退任し、灘尾の訪中は立ち消えになった。
| 1979年(昭和54年)1月 |
| 衆議院議長となる |
| 同年10月 |
| 衆議院議長に再選 |
| 1980年(昭和55年)5月 |
| 衆議院解散により議長退任 |
| 1982年(昭和57年) |
| 議員在職30年を祝う会 |
| 1983年(昭和58年)11月 |
| 政界を引退 |
| 1994年(平成6年) |
| 東京・岡本町の自宅で死去 |
中曽根内閣の下で行われた1983年(昭和58年)の総選挙には出馬せず、粟屋敏信にバトンを渡して政界を引退した。政界引退の1年前、灘尾弘吉の議員在職30年を祝う会が開かれ、旧内務省の後輩である中曽根康弘首相は「灘尾さんは私たちの守護神。いつも頭が上がらない。木にたとえれば桐のような人で、人をいつもせせらぎが流れるようにすがすがしくしてくださる人」とたたえた。懇意だった福田元首相は「高潔な人格は仰ぎ見る富士の白雪のよう」と賛辞を贈った。
引退後も灘尾は全共連ビルの一室に陣取り、全国社会福祉協議会会長や日本身体障害者団体連合会会長など福祉活動の世話役を務め続け、台湾との友好関係維持にも心を配った。1989年(平成元年)3月、長年連れ添った幼なじみの敏子夫人に先立たれ、1994年(平成6年)1月22日、岡本町の自宅で死去した。94歳だった。
灘尾の死の直前、ロバート・ブレイク卿著、谷福丸訳、灘尾弘吉監修の「ディズレイリ」が大蔵省印刷局から刊行された。灘尾は戦前、鶴見祐輔(民政党代議士、戦後厚相)の著作によって英国の政治家ディズレイリに興味を持ち、閣僚として福祉政策に力を入れたことに共感して本格的なディズレイリの伝記を読みたいと考えていた。灘尾の議長秘書で英国駐在経験のある谷福丸(後に衆議院事務総長)がブレイク卿の著書を入手して灘尾に贈ったところ、灘尾から翻訳を依頼され、職務の合間を縫って10年がかりで訳出したものである。この刊行を見届けて灘尾は世を去った。
灘尾弘吉は寡黙で端正な容姿から一見とっつきにくい印象を与えたが、実際に話してみると穏やかな小さな声でぽつりぽつりと語り、意外に気さくで話し好きの一面があった。灘尾は石橋、岸、池田、佐藤の4代の内閣で閣僚に5回なった。灘尾が入閣すると内閣全体に重厚感が出て枝ぶりがよくなるとの評がよく聞かれた。灘尾はそうした人格、人柄によって政界に重きをなした人物である。(終わり=3月から松村謙三です)
主な参考文献
灘尾弘吉著「私の履歴書」(82年日本経済新聞社)
高多清在著「灘尾弘吉(広島県名誉県民小伝集)」(91年広島県)
灘尾弘吉先生追悼集編集委員会編「灘尾弘吉先生追悼集」(96年同編集委員会)
福田赳夫著「回顧九十年」(95年岩波書店)
※3枚目の写真は「灘尾弘吉先生追悼集」より
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