京都大学での「大学におけるタレント・マネジメントの可能性vol.2」という小規模のワークショップに呼んでいただきました。

大学におけるマネジメントの議論は、学長ラインと教授会の関係性の整理云々に代表される、自由人たる大学人を組織の管理統制でどう制御し、組織としての価値を上げていくかという観点からなされてきました。古くは大学紛争、臨教審の個性化方針、昨今では学長のリーダーシップ…その時々の背景を踏まえながらも、実はあまり内実は変わっていない気がします

このワークショップは、大学における新しい個人のマネジメントの方法を 「タレント・マネジメント」と位置づけ、大学実務・人材マネジメントの専門家による本質的かつ生産的な議論に展開されることを意図して設定されているものです。

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私のプレゼン(予定時間をだいぶ上回りご迷惑おかけしました)の要旨は、

・長く文科省の大学マネジメントに対する願いは、大学という組織の価値をどう高めるかという点に集中しているが、大学という組織以外に学問分野への帰属意識を持つ教員を抱え、かつ組織の在りように「discipline」と「democracy」が接着している大学において、ここに執着して政策コストをかけても得られる利益は少ないのではないか。

 (当日補足できませんでしたが、大学に投入する資源が増える時にはその分を学長のポケットに優先的に入れていこうという議論が成り立ち、米国大学の隆盛はその証左ですが、日本の事情は少し異なる)

・知的労働者をマネジメントするということは、人より組織の存在価値が優先されがちな日本においてそもそも不得手の分野と思えるが(ジャニーズ事務所のあれこれはその証左)、環境の自己決定権をより重視する大学教員の内省的所作と、多様な働き方と多様な能力の伸長を図る方向にむしろ意味があるのではないか(文科省の国立大学経営力戦略にもその萌芽がある)

・一つには、大学に対するエンゲージメントを深めるべく、大学と教員の「利害が一致している関係」を多く創るための努力を多く行う必要がある。

というものでした。
大学は知的労働者の集合体であるながら、その「個性」に注目しないといけません。

 

会場からの質問の中に「大学と教員の利害が一致できる部分はあるのか?」という質問がありましたが、これに対しては、このblogでも以前書いたトロント大学の例をとり、おそらく完全に一致させるのは無理だが、マネジメント側がprofessorとコミュニケーションをして内省的目標と達成状況の設定を求めていく過程で、大学として教員に求めること、教員がやりたいこととのすり合わせをするコミュニケーションがなされること自体に意味がある、と申し上げました。

 

(参考)当時のblogより

大学の教員の賃金カーブは、大きく①テニュア教員(研究が主)と、②教育担当教員と、③ライブラリアン(司書)に分かれているようです。研究業績と予算(恐らく一部の人件費も含め)の配分はユニット(研究室)毎のようで、ユニットのPI(主任研究者)が毎年大学当局と、①1年で達成する予定の目標の申告、②進捗状況の報告、③終了後の達成状況報告を行っているそうで、この評価により資源配分がなされる模様。一律に保証されているベースはもちろんありますが、研究室単位で大学を跨いだ移動がありうるお国柄も反映されているのかもしれません。


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他の方のプレゼンに関わるやりとりの中では、

・大学の教員の処遇は、パフォーマンスに対するそれではなく、地位保証という意味で捉えられている。大名の俸録に近いもの。

・自分たちにとって有能なマネジメント者とは、ペリーのような外来急襲な存在に対抗しつつ、しっかり自分たちの田畑の治水を安定的に行ってくれる者であり、田畑の区画を見直す時にも「かつてここはこの人が治めていた」ということを教えてくれて統制をできる人がマネジメントで重用される。

・大学職員の専門性とは何か。大学の諸制度・現況に関する基本的な理解に加え、ジェネラリスト面とスペシャリスト面の双方を上手い具合に備えていることが要求されていることが求められる。

などが印象に残っています。

私もそう思うのですが、同業他社から請われない、専門団体を構成してノウハウの共有と深化が進まないなど「外部化」できない専門性は真の専門性ではないと思うのです。組織の流儀に長けているというのはサバイバル術のようなものであって、それはそれとして別に育成すべき能力をもっとコンピテンス化しOJTOff-JT両面から研鑽を奨励するマネジメントが必要になると思います。

 

こういう議論を、なんとかケーススタディや理論化につなげたいと個人的には切望しています。