この頃の朝食。
野菜+果物ジュース(自家製)+ミドリムシカプセル。
茶碗に軽く一杯の炊き立てご飯。
緑茶。
ひき割り納豆+塩麹。
大根おろし+しらす干し+塩麹。
味噌汁は豆腐と季節の野菜+自家製柚子味噌辛子+エキストラバージンオイル。
ヤクルトミルミル。
ヤクルト400LT。
・・・・・・といったシンプルなもの。
(味噌汁に、オリーブオイルと香辛料を入れると、うまくなるように思える)
以前の朝食。三年前の11月18日の日記を見ると、以下のように書かれている。
「今朝は、炊きたてご飯、豆腐とわかめと椎茸の具沢山の味噌汁、納豆と海苔、いくらの醤油漬け、濃茶をいただいた。」・・と、ある。
昔との相違点。
ワカメ、海苔、椎茸などは、術後の腸閉そく予防のため、できるだけ食べないようにしていたのが今も継続されている。また、腸内善玉菌をかなり意識している。
このほか、昔は飲まなかったコーヒー。今は、自宅で挽いたのを水筒に入れて持ち歩いて飲んでいる。
あとは、アルコールはやめたこと。その代りといったらヘンだが、餡子系のデザートを毎日食べるようになったこと。例えば、大福もち、だんご、饅頭、羊羹、甘納豆、ぜんざい・・といったもの。
取り過ぎると、多分、よくないかもしれない。でも、これだけは「体によくないといわれてもなぁ」というところである。
抗がん剤で味覚が感じられなかった一時期、唯一、甘味だけは私を裏切らなかった。
元々、私は甘党だったはずなのに、いつのまにか忘れて甘味から遠ざかっていたのに、抗がん剤服用をきっかけに、再び、甘党に目覚めてしまったみたいである。
帰宅途中、書店に立ち寄り久しぶりに本を購入した。
両方とも、前々から興味があった本だ。
昨日の桃知さんのブログに「甘味は人間が覚えた禁断の味覚であり、刑務所の中にいると、甘味が猛烈に欲しくなる、と聞いたことがある。つまり人間の最後に残る味覚が甘味なのだ・・ざっくり・・」と書かれてあった。
「甘味は人間の最後に残る禁断の味覚か・・」そうだよなあと共感する。
抗がん剤治療のおかげで、何を食べてもボール紙を食っているようで(実際にボール紙を食べたことはないが・・)ありとあらゆる味覚が総動員して私を裏切ったとき、小豆系の甘味だけは「うまいなあ」と味わさせてくれた。
小豆系の甘さ、美味しさを改めて再確認させてくれたのだ。
あの、きつかった時期に、私のQOLを向上してくれた。その恩返しにみたいに、今は、毎日、小豆系の甘さを食べている、いや、離れられなくなっている。
ぜんざい、ぼたもち、やぶれまんじゅう、小豆最中アイス、あんころ餅、だんご・・いいなあ。私には日々の糧のひとつでもある。
で、今夜はこれを食べるのだ。
虎屋の「冷やし白玉ぜんざい」季節商品
( 66.9 24.9)
団体も個人も強いですよ、話してくれた。そういえば、母校はラグビーも強いが、ソフトテニスは自分が入学した頃にも「愛好会」として存在していたなあ。
手術前とちがい、この頃はコーヒーを毎日飲んでいる。しかし、日本茶とちがってコーヒーの味というのは、よくわからない。何が美味いのかはっきりしないまま飲んでいる。
なぜ、急に、飲むようになったかというと、コーヒーの摂取が「がん予防」と相関があり、予防に対して有用性があるといわれているからだ。再発のトリガーを引くのをできるだけ防止したいので、そうしているのだ。
コーヒーのカフェインは中毒症状になると耳にしたことがあるが、そこまでにはなっていない。
コーヒーの味が、ただ単に「美味い」「美味くない」というのはなんとなくわかる。たとえば、同じコーヒーなら、ネスカフェを溶いたインスタントコーヒーよりも、豆を挽いてドリップしたのがコクも香りもはるかに優れている。なので、基本的にはドリップしたのしか飲まない。なので、家にも、職場にもインスタントは置いていない。
コーヒーには、フレッシュも砂糖も何も入れない。アイスコーヒー(徳島では、今もレイコーと言うのだろうか)よりも、ホット好む。
ここまで書いて、ふと考えた。緑茶みたいに、コーヒーでお茶漬けにしたらどんなものなんだろう、と。多分、不味いだろう。
(66.9 24.9)
生まれてはじめて親子丼を食べた記憶ははっきりと焼きついている。
時期は、昭和38年の夏である。当時、愛読していた少年マガジンに「紫電改のタカ・・ちばてつお」の連載が開始された頃だ。
この「紫電改のタカ」の最後は、主人公滝城太郎が仲間たちとともに、黒塗りの愛機に搭乗し特攻で出撃して帰らぬ人となり連載が終わった。
この漫画は、当時流行っていた戦記物と違って子供心にショックな結末で戦争の悲しさを教えてくれた漫画でもあった。
私たちは、自転車を「紫電改」になぞらえて、「そらっ、逆タカ落としだ」「弔い合戦だ」とか言いつつ、運動場内を転倒しながらも駆けまわして遊んだ。
そのときに怪我した膝小僧の傷が化膿し治癒しないまま、貞光町は阿波踊り一色になった。
その頃、貞光町の阿波踊りは松尾神社の境内にしつられた桟敷でがメインステージであった。
桟敷の傍らで、父から「親子どんぶり、食べたことないだろう」と、父が食べるものを、もらって食べたのが「はじめての親子丼」だった。
父は、その頃地元商工会の職員で、町の阿波踊り大会の仕事にスタフとして携わっていたのだ。スタッフにふるまれた夕食が、多分、親子どんぶりだったのだ。
はじめて食べたのは、こんな上等な感じではなかったが・・・・。過日、食べた親子丼の写真。
膝小僧の傷の痛さも忘れ、周囲の喧騒も耳に届かないまま、夢中で食べた、というより食らった。
食べたみた感想は「こんな、美味いものが世の中にあったのか」という感激だった。
で、今も、好きなどんぶりだ。
(66.7 24.8)
母に頼まれて肉屋さんまでお使いにいくと、計量器の上に薄い木の皮でこしらえた「舟形」の容器に肉を入れてくれる。いちばん最後に、肉の上に脂身を載せてくれるのだ。この脂身が最高にうまいのだ。
貞光町内には、金井精肉店と尾花精肉店の二つの肉屋さんがあった。肉を口にする機会はめったになかった。
年に数回ぐらいだったろう。
牛肉の代りとして食べられていたのが鯨の肉だ。今は、反対に、鯨肉を食べる機会はほとんどなくなったが、当時は庶民の食べる哺乳類系動物性蛋白質の代表は「クジラ」だった。
WEBで調べてみると昭和35年の100g当たり価格は、鯨肉13円、牛肉55円、豚肉64円、鶏肉48円。
鯨肉が安いのがわかる。
焼肉缶詰の中身も鯨肉であった。
鯨肉は淡泊で、少し硬くて、牛肉のほうがはるかにうまいのだ。そして、牛肉には、あの脂身がついてくる。
脂身に火を通すとだんだんと透明度が増して柔らかくなる。口の中に入れると「ほろっ」ととろける。子供の自分はこれを食べるのがいちばんの楽しみであった。
長じてからも脂身が大好きで、こればかり偏って食べていたことがある。酒をがぶがぶ飲み、脂身ばかりを食べ、たばこをすぱすぱと吸っていた。
知らないうちに、体に異変が起きていたのも、仕方ないなあと思うのだ。