日本のオープンアクセス政策が大きく動くニュースが飛び込んできました。
ブコメを見ていて誤解が散見したのでQ&Aと個人的に問題(課題)と考える点を軽くまとめてみます。
Q 誰がお金を出すの?
A オープンアクセスは従来購読料として読者が支払っていた分を著者が負担するというモデルです。オープンアクセスを行うには2パターン方法があり、
①雑誌自体でオープンアクセスをする代わりに著者が料金を払うパターン。この場合、料金は著者の研究費から負担されます。しかし、元々雑誌の購読料も研究費から出ていたので新たに予算増が必要なわけではありません。
②雑誌自体ではオープンアクセスを行わず、自分でアーカイブ・公開していいよというポリシーの雑誌に投稿し、大学のサイト(リポジトリ)で公開するパターン。
この場合でも新たな予算は不要ですが、大学職員の作業負荷が増えるのと、初期構築にコストがかかります。
Q 大学の専用サイトで、ほぼ同様の内容を、、という時は自己剽窃にならないよう文章を書き直す手間がかかるのでは?
A 著作権は著者から出版社に委譲するものの、そのときの条件として、著者が自分で書いた原稿(著者原稿)をそのままサイトに載せるならOKというポリシーを採用しています(商業出版社であっても)。よって書き直す必要はありません。
Q 有力誌はこの条件でも accept するの?
A 前記と同様ですが、投稿段階でそのようなポリシーを採っている雑誌を選び投稿することになりますが、大手商業出版社でもセルフアーカイブは認めています。
Q 学界や出版社は学術雑誌の販売という収入源が断たれることになるので、投稿段階で日本人お断りってなことになるのでは?
A 今回の措置は、海外の追随です。また、商業出版社がセルフアーカイブを認めているのは、①雑誌の査読プロセスに価値がある。②商業出版社による版下デザインや校正に価値がある。という側面があり、商品としての学術誌の価値を大きく毀損しないと判断しているためと思われます。
Q 無料で読める論文ってのは「査読に金かかってない=信頼性低い」ってことなんだけど?
A オープンアクセスが一般化したことで雨後の筍のようにでてきた新興出版社の中には、問題がある場合もあり、注意喚起がなされたこともありました。
また、そもそもオープンアクセスの思想として、最低限の査読のみを行い、価値判断は読者側が行う、という側面があります。この場合、その仕訳コストは読者としての研究者側に降りかかってきます。
これは情報を隠すよりは、情報が多いほうが良いという価値観に基づくもので、これは端的に言えば、オープンアクセスがある種の政治思想にもとづいているためです。
課題1 学会の収入源に影響がある(場合がある)
学会は研究者の互助会兼クローズドサークルという性格・役割を持っている場合が普通ですが、一口に学会といってもあり方は様々であり、実は簡単には丸められません。が、ここでは、日本の理系分野の学会を念頭に考えてみましょう。
J-STAGEをながめてみるとわかりますが、現状、日本の学会誌で完全なオープンアクセス誌は少数派です。
つまり、年会費に購読料を含むとか、非会員でも学会誌を購読できるようにするとかして、実質的に購読料を収入源としている学会が多いということです。
(J-STAGEの論文誌一覧画面。グリーンのアイコンは無料(オープンアクセス)を指し、一見オープンアクセス誌が多いようだが、公開範囲(右側)はバックナンバーに限っているものが多い。)
科研費等のファンディングを受けた場合に論文のオープンアクセスを義務化すると、どういう影響を受けるのかというと、学会誌がオープンアクセス誌でない場合、会員であっても学会誌に論文を投稿できなくなります。
そうなったとき、学会員が学会誌に投稿できないという問題を解消するには、例えば以下のような選択肢が考えられます。
「学会誌の発行をやめる」(→学会員は海外のオープンアクセス誌に投稿する)
「学会誌をオープンアクセス化(無料公開)する」
「学会誌の性格を変え、査読論文ではなく短報やレビューなどを載せる雑誌とする」
いずれの方法をとるにしても、学会誌の購読料を収入源とすることが難しくなることから、学会自体のあり方を再考する必要が出てくるでしょう。
例えば、学会は学会誌発行以外に色々な事業を行っていますので、その事業内容を見直す必要も出てくるでしょう。
研究者にとって、学会に所属するメリットは、学会誌が読めることだけではありません。
・学会(大会)で発表できること
・同分野の専門家にピアレビューを受けられること
後者を行うには自前で学会誌を発行せねばなりませんから、必然的に学会誌をオープンアクセス化することになります。
他方で、大会の開催費用その他の事業を行う予算をすべて学会費から捻出するのか、学会事務を担う事務職員をそのまま雇用できるのかなど、事業を維持して予算を捻出するか、役割を絞ってシュリンクするのかといった方向で検討をしないといけない学会もでてくることでしょう。
なお、研究者の方の学会の収入源を心配するツイートに対する土屋俊先生の言及がこちら。
いえ、会員の方々が協力して価値ある学術的成果を社会に対してオープンにしていると考えて会費=刊行費を払うと考えられます。 https://t.co/FsN1jsCb1Q
— Syun Tutiya (@tutiya) 2016, 1月 24
これは、価値のある学術的成果を学会が発信していれば、これまでの購読者は成果物そのものが無料になってもそれまで同様にファンディングしてくれる、という一種のクラウドファンディングへの信憑を述べているわけですが、確かにニコニコ学会のくまむし博士など、一部の「アマチュア」研究者はそのような方法に成功していますが、全体に敷衍することは難しいのではと感じます。
課題2 オープンアクセスが政治運動の一種という側面を持つことを研究者・国民は自覚していない
オープンアクセスの思想面については、以前エントリに少し書きました。
オープンアクセスは「公的資金によってなされた研究は国民に無償で提供されるべきだ」というタックスペイヤーの観点で説明されることが多いのですが、実は運動の背景思想はその観点とは必ずしも関係ないのです。
上記で引用させていただいた論文にもあることですが、オープンアクセスはそもそもカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』により提示された、「開かれた社会」概念を思想的根拠として、進められてきました。
「開かれた社会」概念では、科学における絶対的真理を認めず、漸進的に真理探求を進めるために「反証可能性」の担保、すなわち、情報のバリアフリーな形での公開を要求していると理解されています。
Popperらの発想は対話によってよりよい真に漸近的に近づいていこうとするアプローチをとる.これは,真理をあきらかにする欲望を放棄したペシミスティックな視点であると評する論者もいるが,Popperの視点では絶え間なく漸近的に真理に近づこうとするソクラテスの問答法こそが人間精神の発露であり,むしろオプティミスティックな立場にあるといえる.Popperの発想は,Popper自身ユダヤ人であり,ナチスドイツに親類が殺されるなどのいくつかの迫害を受けてきたにもかかわらず,首尾一貫して人間精神に対して,楽観的な議論が行われていると指摘される.以上のように,反証可能性とは絶対的な真を求めない一方で,漸近的な真を希求するトライアル&エラーの科学を営む上での方法論であり,これを社会に適用させたものが「開かれた社会」の概念であるとされる
(中略)
ロシアにおいてOA運動によって「開かれた社会」の実現が期待されているのと同様に,これら「閉ざされた社会」状況にある国々でのOA運動の普及が,今後第二・第三の「コピー機事件」となることは十分に考えられる.無論,我々も(一応)自由主義陣営に属しているのであり,Sorosの意図と我々の姿勢が大局として衝突するわけではない.したがってSorosの意図までわざわざ気を配る必要もないかもしれない.しかし,OSIの背景に,閉ざされた社会を開かれた社会にしようとする,ある種破壊的な目的があるということ自体は,OA関係者に周知されてもいいようにも思われる.本稿では確証の高いと思われる事象の存在のみを論ずるに留め,それそのものが持つイデオロギーの善悪については踏み込まない.しかし,開かれた社会が,一種のイデオロギー的な思考法であることは間違いない.(岡部晋典 ほか (2011). “Budapest Open Access Initiativeの思想的背景とその受容”. 情報知識学会誌 21 (3): 333-349)
このように、オープンアクセス運動自体が、政治運動的な側面をもつのですが、実は研究者・国民はおろか、ひょっとしたら、この施策を進めている担当者まで含めて、よく理解されていない可能性すらあるのではないか、と思っています。
確かに、他国ではすでにオープンアクセス義務化が進んでおり、後追いになるわけではありますが、それでもやはり、国家として特定思想にコミットするという側面があることを理解しておくのは必要だと思います。