俺の名は悟(さとる)。生まれてこのかた一度も女性を泣かせたことがない男だった。今日までは…。
晩飯後のまったりタイム、俺がコンビニでマキちゃんにねだられたアイスを買って戻ったら、マキちゃんが泣いていた。それも号泣だ。
悟「マキちゃん、どうしたの?」
振り向いたマキちゃんの顔は洪水になっていた。目だけではなく鼻からも…。それでもパンダ目にならないのはウォータープルーフマスカラってやつか?
マキちゃん「ざどる、マギぢゃん、ヅバメざんになぶ…。」
涙声と鼻声が混じっているせいか、イマイチ何言っているか分からない。たぶん、「悟、マキちゃん、ツバメさんになる…。」といったのだと思う。ツバメになる?聞き間違えか?
悟「ツバメになるって言った?」
マキちゃん「うん。ざどるのヅバメざんになぶ。」
悟「俺のツバメ?どういうこと?」
マキちゃん「ごで…。」
マキちゃんが俺に差し出したのは、『幸福な王子』の絵本だった。
この絵本のあらすじは、自我を持っている宝石や金箔で飾られた王子の像が、渡り鳥のツバメにお願いして、貧しい人に自らの宝石を分け与える。冬の寒さで死んだツバメと全てを失った王子像は誰にも感謝されることなく消えてしまうという自己犠牲のお話。
マキちゃんの言葉にならない言葉を解読したところ、今日、同僚に誘われて知り合いの本屋さんに行った。昨日、デートの約束を先のばしにしたのは、この約束のため。絵本の読み聞かせを聞いてきた。流れで、今度、絵本の読み聞かせボランティアをやることになり、絵本を借りてきた。その絵本が『幸福な王子』で読んでみると悲しい話で感動して涙が止まらない。そして、この話にでてくる王子像が俺で、ツバメがマキちゃんなんだそうだ。
マキちゃん「ばたしは…いづも…、ざとるに色々じでもらっでいる…。だから、ざとるは王子ざま…。ざとるに何もじてあげられでない…。そばにいぶだげ…。ごれがらぼ、ぞばにいざぜでほじい。ばたしがざとるのヅバメざんになぶがら…。」
マキちゃんは涙で顔中がぐちゃぐちゃで、言葉もとぎれとぎれだったが、言いたいことは俺にも理解できた。俺は覚悟を決めた。
悟「マキさん。俺はマキさんがいるから、毎日楽しくて、幸せです。これからもマキさんと一緒にいたいです。ハッキリ言います。マキさんは俺をルームメイトとしか思っていないと思うけど、俺はマキさんと結婚を前提にお付き合いしたいと思っています。いきなりだから困ると思うけど、すぐにとは言いません。今は恋人未満友達以上の関係でいいので、これからは男として見てもらえませんか?」
マキちゃん「無理…」
即答でフラれた…。マジか…俺は本気で好きだったんだが。マキちゃんはいつの間にか泣き止んでいた。その代わりに俺が泣きそうだ。そういえば、好きな人がいると言っていたよな…。休みの日もいつもどこかに行っていて、デートどころか一緒に遊んだこともなかったしな…。
マキちゃん「無理だよ…、だっで、私も好きだもん。恋人じゃなぐ、お嫁ざんじゃなきゃ、嫌だよ…。」
そうか、マキちゃんは恋人にはなってくれないのか…。でも、お嫁さんならいいのか…。お嫁さんか…。お嫁さん?
悟「お嫁さん!今、お嫁さんって言ったの?」
マキちゃん「うん…。」
理解できなくなってきた。俺はマキちゃんが好きだ。一生そばにいてほしいと思っていた。マキちゃんも同じ気持ちだと言っている。結婚してくれると言っている。どういうことだ?
悟「俺と結婚してくれるの?俺、イケメンじゃないよ、それに、マキちゃんを一人で養えるほどの経済力もないよ?彼氏は?好きな人いたんじゃなかったの?休みの日はその人とデートしていたんじゃなかったの?」
俺は混乱する頭の中を整理するため、思いついた疑問を全部、マキちゃんに投げつけた。
マキちゃん「はははっ、もう何?悟、慌てすぎだよ!」
泣いていたマキちゃんが今度は笑っている。
悟「だって、意味わかんないよ。彼氏は?好きな人は?」
マキちゃんは落ち着きを取り戻したみたいで、鼻をかんで、俺に向かって座り直した。
マキちゃん「私が好きな人は悟さんです。休みの日は女友達と遊ぶか、花嫁修業のためのクッキングスクールに通っていました。私も女です。好きでもない人と毎日、晩御飯を食べたりしません。」
悟「お金は?お金はどうする?俺、あんまり稼いでいないよ。たぶん、マキちゃんの方が稼いでいるよ。いいの?俺でいいの?」
マキちゃん「もう、なんでいつも男らしいのに、こんな時だけこうなの?するの?しないの、男でしょ、ハッキリ言って!」
悟「する!結婚する。マキちゃん。いや、マキさん、俺と結婚してください!よろしくお願いします!」
マキちゃん「はい。喜んで。こちらこそ不束者(ふつつかもの)ですが、よろしくお願いします。」
悟「でも、本当にいいの?俺で…」
マキちゃん「まだ言うの?もう…。あのね、今時、共働きは当たり前だよ?悟が女性一人養うほどの経済力を持つまで待っていたら、私、おばさんになっちゃうよ?それにね、経済的に厳しいからこそ助け合うんだよ?お互いに大変だから、助け合うための夫婦でしょ?」
普段のマキちゃんは自由奔放で好き勝手やっているけど、本当は真面目でしっかりものなんだよね。だから俺もマキちゃんが好きなんだよ。
悟「親に報告しないと…。」
マキちゃん「大丈夫!悟の両親には年末会った時に結婚を考えていると話しておいたよ。」
悟「えっ、だから、寝る時、同じ部屋だったの?」
マキちゃん「うん。悟のお母さんたちに相談したの、悟が私を襲ってこないから心配だって。女として見ていないんじゃないかって。そしたら、普段着をもっとセクシーなものにして誘惑しなさいってアドバイスされたよ。賢(けん。悟の弟)さんからはミニスカ・ニーハイに弱いと聞いたよ。」
悟「賢の野郎、あいつ何言ってんだ。でも、マキちゃん、この前キスしようとしたら怒ったよね?」
マキちゃん「だから、あれは私が寝ている時だから、初めては起きている時でしょ?」
悟「マキちゃん。キスしよう!」
マキちゃん「え~、ムードない。このタイミング?」
悟「ダメ?」
マキちゃん「ダメじゃないよ。」
そう言って、マキちゃんは目を閉じた。
俺が描いていたプロポーズは夜景の見えるホテルの屋上レストランか、星空の下で手をつないでだったんだが、現実は違った。まさか絵本がきっかけで結婚のプロポーズをすることになるとは思ってもいなかった。最初のキスがプロポーズの後だというのも今時珍しいだろう。ただ、一つ言えるのは、俺が今、キスしている人は俺を『幸福の王子』にしてくれたということだ。俺はツバメを死なせはしない。絶対、幸せにしてみせる。