この記事は2011年12月2日に友人限定で公開したFacebookの投稿を元にしています。母校・カーネギーメロン大学の2011年の卒業スピーチの翻訳なのですが、翻訳は無断で行ったので、ネットでの公開は控えていました。しかし2016年1月24日、ぼくの28歳の誕生日の2日前にネットで公開することにしました。未だに無断ですが。
その理由を手短に書くとこんな感じです。このスピーチが行われるひと月前の2011年4月、日本に住んでいた母に、彼女が以前患っていた癌の再発が見つかり、もう助からないことが分かりました。ぼくは当時勤めていたシリコンバレーの会社をひと月休み、母の見舞いに日本に行きました。幸い母はあと1、2年かは生きられるかもしれないとのことだったので、ぼくはいったんアメリカに戻り、当時付き合っていた大学の後輩の女性の卒業式に参列しました。
そのとき聞いたこのスピーチが素敵だったので、翻訳して家族内のFacebookグループに投稿したところ、以下のような反応が母から返ってきました。死に直面し、生還したという内容なのですが、末期癌と闘っていた母にとっては響いたのかもしれません。
そんな母は、再発が見つかってから4年と9ヶ月後の2016年1月2日に他界しました。そのときにぼくがFacebookに書いた弔辞です。 (弔辞はほとんど英語で書きました。こちらに載せています。以下は日本語部分です)
1ヶ月半弱の日本滞在を終えサンフランシスコに戻りました。多くの方には伝えていませんでしたが、今回の滞在は末期がんの母の介護のために帰っておりました。15年間癌と戦っていた母は1月2日未明、ぼくが出演したNHKの「ニッポンのジレンマ」元日スペシャルが放映を終えた3時間後に他界しました。55歳でした。日本滞在中は殆どの時間を母の病院で介護・仕事・「ジレンマ」収録の準備をしながら過ごし、また母が亡くなった後も葬儀、和歌山に住む母方の祖父母の訪問とバタバタしており、あまり友人と会うことができませんでしたが、また父を訪ねに帰国する予定ですので、そのときにぜひ。
ここ数年で、ぼくは日本に多くの友人ができたのですが、そのきっかけとなった2つの出来事はいずれも母のおかげでした。1つは2011年7月に慶応SFCで講演を行い、それがきっかけでぼくの日本語ブログが読まれるようになったのですが、元々この講演はその3ヶ月前に癌の再発が見つかった母のために行いました (母も観客席にいました)。また、ぼくは2012年にシリコンバレーの仕事をやめ日本で半年間ニートをしていて、これも母が元気なうちは日本で働けないかと考えたからでした (結局うまくいかずアメリカに戻りましたが)。この2つの出来事から色々と点が繋がってできた友人の皆様には幾度も助けてもらいました。また近いうちに会いましょう。
「ぼくの28歳の誕生日の2日前」にこの記事を再掲した理由は、母がぼくを生んだのが、母が28歳になる2日前だったからです。
当時23歳だったぼくが書いた拙い日本語ですが、お時間あればぜひ読んでみてください。
「保険」「鋭いナイフ」「小便飲まずして泣くべからず」
生まれて初めての長文翻訳をしてみました。卒業スピーチといえば亡きスティーブ・ジョブズのスピーチが有名ですが、自分の中ではそれよりも遥かにすばらしいスピーチを紹介します。アーロン・ラルストンさんのスピーチです。
「127時間」という映画はご存知でしょうか。Wikipediaのあらすじを参照すると、
アーロンがユタ州中部、グリーン・リバーの町付近一帯のサン・ラファエル・スウェルと呼ばれる地域にある目的地のブルー・ジョン・キャニオンというスロット・キャニオンのキャニオニアリングを楽しんでいた最中に岩と共に滑落して、右手が岩と壁の間に挟まれてしまう。ラルストンは身動きが取れなくなり、大声で助けを呼んだが周囲に誰も居なかった。アーロン1人の力では岩はびくともせず、岩を削ろうにも持っていた万能ツールのナイフはまるで役に立たなかった。彼はボトル1本の水とわずかな食糧で食いつなぎ、そしてビデオカメラに様子を記録し始めた。
アーロンは最後、右腕を切断して、一命をとりとめました。
そのアーロンは実はぼくの母校、カーネギーメロン大学の卒業生でした。今年の五月、彼はそこで卒業スピーチを行いました。
ぼくは一年前に卒業していたけれど、その日は一年下の彼女が卒業する日でした。たまたま直前まで日本にいたので、日本からカリフォルニア、カリフォルニアからペンシルベニアに飛び、彼女のため卒業式に駆けつけました。そこでアーロンの話を聞きました。
ぼくは当時、色んな事情が重なって、精神的にまいっていました。だからこそ、アーロンの力強いスピーチには心をうたれました。
カーネギーメロン大学は「最後の授業」をした今は亡きパウシュ教授など、すばらしい人達を輩出している大学です。卒業生の一人として誇りに思います。
動画
ハイライト:
全部(聴衆が撮ったものです):
和訳
(拍手)
ありがとう。スタンディングオベーションをするには早過ぎると思いますが…(笑)
卒業生のみなさん、おめでとう。世界トップクラスの大学の卒業式で、みなさんと同席できることを大変光栄に思っています。
世界トップクラスといえば、誰かが男性に「スカートの中に何を穿いているの?」と尋ね、「真のスコットランドの男は、絶対にスカートの中のことは語らない!」と返事がかえってくるのも、この大学だけでしょう。
(訳注: スコットランド出身の実業家、アンドリュー・カーネギーが創設した我が母校では、スコットランドの伝統をたたえるべく、特別なイベントでは民族衣装を着ることがあります)
冗談はさておき、いまから14年前、私はみなさんと同じ場所にいました。同じ場所といっても、1997年の頃は大学が工事中で、卒業式はここではなく中央広場で開かれたのですが。そういえば、工事現場に昔いたおじさんたちを、さっきそこで見たかもしれません(笑) 。
物理的な場所は違えど、当時の私の気持ちは、今のみなさんと同じです。ひどく興奮して、胸がドキドキしていました。受賞した賞なんかどうでもよかったけど、大学で成し遂げたことや、未来への不安で頭がいっぱいでした。
そんな気持ちが強すぎたのか、セレモニーのことは何一つ覚えていません。誰の横に座ったのか、帽子を投げたのか、そして誰が壇上でスピーチしていたかすらも(笑)。もし彼がスカートの中を見せていれば覚えていたかもしれませんが。
しかし家族と友達のことはちゃんと覚えています。私の妹や、オハイオ州から来てくれた祖父母や親戚。今日も14年前もコロラド州から飛んできてくれた両親。そして卒業式の日のランチの後、ハマーシュラグ寮で出会った大学一年の頃からの友達と、落書きしたフェンスの前で写真を撮ったこと。私たちにとって優秀生協会に入ったことや優等生賞を受賞したことなんかはどうでもよかった。しかし寮対抗フロアホッケーで二度優勝したことは、フェンスに落書きして刻む価値はありました(笑)。
(画像元:大学の公式サイトより。カーネギー大には「フェンス」と呼ばれるオブジェがあり、生徒は自由に落書きすることができます。)
私たちが主役だったあの日のように、今日はみなさんが主役の日です。みなさんの家族と友達が待ち望んだ日です。試験、卒論、ポートフォリオ・レビュー、研究を終え、学問に励んだ四年間を祝う日です。膨大な知識を得たことに、あらためて気づく日です。
今日はみなさんのための日です。しかし明日からは、いろんな人生が待ち受けているでしょう。ひとつだけ言えるのは、逆境が必ず来るということです。そんなの当たり前、と言うかもしれません。確かにこの不況で、すでにみなさんは逆境に立たされたかもしれませんね。今の時代、専攻が英文学でなくても大変らしいですね(笑)。
私の話の後には卒業証書があなたを待っています。そこには「カーネギーメロン大学」と立派に書かれています。しかし逆境においては、ただの紙切れにしかなりません。
逆境は必ず来ます。私にとって、卒業後一番の悩みは仕事をいつ「辞めるか」でした。5年間、機械エンジニアとしてインテルで働いたのですが ー そうそう、さっき壇上にあがられた、クレイグ・バレット氏の会社です。まさか彼と同席するとは(笑)。
気がつけば、私の関心は給料の小切手から登山家になることに移っていました。悩んだ結果、仕事を辞め、エンジニアのキャリアを諦めました。たぶんこの時、コーエン学長は私を呼ぶことを決めたのでしょう。「エンジニアを辞めた卒業生がいるって? 彼に卒業スピーチさせよう!」って(笑)。
ヒマラヤ山脈を冒険したスコットランド人、ウィリアム・ハッチソン・マレーは、ゲーテの「ファウスト」を読んで、こう言いました。
Whatever you can do or dream you can, begin it.
Boldness has genius, power, and magic in it.
自分にできることがあるなら、夢があるなら、始めるんだ。
勇気には、才と力と魔法があるのだから。
...私は自分にそう言い聞かせました。
勇気を振り絞って辞めたあと、生活水準を落としました。10人と同居した部屋のトイレには、大学時代の寮の地下の何倍ものカビがはえていました(笑)。でも、私には夢がありました。
私の両親は ― いやいや応援してくれました。両親は言いました。「家のソファで寝たかったら、いい保険に入りなさい」と。それではここで、みなさんに一つ目のアドバイスです。
もし仕事を辞めて、夢を追う時がきたら、やろう。
勇気と、才と、魔法と、力で。ただ、いい保険には入ったほうがいい(笑)。
(訳注: アメリカでは当時、国民皆保険制度はありませんでした。)
私は両親に従ったのが幸運でした。数ヵ月後の2003年4月。ユタ州の南部の谷を探検していたとき、私は岩と共に滑落して、右腕を岩と壁の間に挟んでしまいました。アメリカで一番地獄に近い所で動けなくなった私に、カーネギーメロン大で学んだ問題解決能力を発揮する時がきました。
大げさではありません。まずその1。問題は何か。それは簡単ですね、この岩が…(笑)。
次に、情報を収集し、解決策をいくつか考え、うまくいきそうな方法から実行しました。何日も頭を捻り続けました。体温低下を避けるため、登山服を毛布にしました。水と食料をできるだけ保存しました。では睡眠不足は? 大したことはない。カーネギー大の卒業生のみなさんなら、127時間の徹夜を、一度は経験したでしょう。春の文化祭パーティでね(笑)。
そしてどうすれば脱出できるか考えました。ポケットナイフで岩を削っても、体温が上がった以外効果なし。ロープを使って岩を引っ張り上げようとしても、上手くいかない。機械工学の教授の教えに従って、 自由体図を書こうかとも考えました(笑)。
時間が経つにつれ食料が底をつき、6日間で18キロ痩せました。やがて水がなくなり、私は自分の小便を飲みました。
ここで、みなさんに二つ目のアドバイスです。「もうだめだ」と思うようなことがあったら、もう一回よく考えてみてください。もし自分の小便を飲まなくてもよければ、そこまで落ち込まなくてもいいのです。
コーエン学長、私を呼んだことをそろそろ後悔してませんか? (笑)
奈落の底で気が狂わないように、ビデオカメラをつけて家族、妹、親友に話しかけました。家族旅行に行ったこと、コンサートに一緒に行ったこと、スポーツを一緒にしたことを、とても感謝していると伝えました。不思議と力が湧いてきました。死を前にしたら、人は自分の功績よりも、誰かへの感謝の気持ちを思い出すということを学びました。
人生の終わりに残るのは、あなたが何をやったか、何を成し遂げたかではありません。あなたがどんな人だったのか、誰と過ごしたのか、そして誰を愛したかが残るのです。
とうとう、私に残された選択肢はひとつだけになりました。右腕を切断すること。止血帯を使っても、おそらく出血多量で死ぬでしょう。しかし私はここでそのまま死ぬよりも、帰り道の途中で死ぬことを選びました。
ナイフを短刀のように持ち、「サイコ」という映画に出てきたような金属音を思い浮かべながら、腕に突き刺しました。
しかし何やら硬い物に当たりました。骨でした。私は岩ではなく、自分の骨によって閉じ込められていたのです。どうやって鈍いナイフで骨を切ればいいのか。クエンティン・タランティーノが書いたミステリーみたいですね。
これも実は三つ目のアドバイスに繋がっています。もし皆さんにナイフを持ち運ぶ時が来たら、必ず鋭いナイフを持ってください。実際のナイフもそうですが、心のナイフも鋭くなければいけません。
危険があなたを襲っても、皆さんは心にナイフを持っています。一番鋭いナイフはみなさんの頭脳と、大切な人への想いです。
知恵をつけ、精神を研ぎ澄まし、大切な人のそばにいましょう。遠くはなれていても、心はそばに。そうすれば、左手のナイフでは切れないものも、心のナイフでは切ることができるでしょう。
6日目の朝、閉じ込められて127時間目。私はとうとう謎を解きました。最後の案でした。ナイフを使わずとも、岩の重さを逆手に取り、腕を押しつぶすことにより、骨を切断することができたのです。機械工学の基礎ですね。
そして腕が切れはじめました。笑みが止まりませんでした。一時間後、ついに私は自由になりました。
最後の瞬間、自分の墓から、自分の人生へと、私は一歩を踏み出しました。
(拍手)
Whatever you can do or dream you can, begin it.
Boldness has genius, power, and magic in it.
自分にできることがあるなら、夢があるなら、始めるんだ。
勇気には、才と力と魔法があるのだから。
もちろん、痛みました。もちろん、体の一部は戻ってきません。しかし、あの日、私は何も失わなかった。
逆に得たものしかありませんでした。自分にとって何が大切か、自分に何ができるか、そして自分の中にある奇跡を見つけられたから。
逆境は来ます。かならず。
でも、喜んで立ち向かってください。
なぜなら逆境は、みなさんひとりひとりの中に、驚くべき奇跡があるということを、気づかせてくれるからです。
最後にまとめると、「保険」「鋭いナイフ」「小便飲まずして泣くべからず」。
そして、みなさんにとっての岩がいつか、みなさんの恵みになることを、願っています。
ありがとう。