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3月の風に吹かれて

政治と宗教について

新約聖書は女性差別的なのか?

【結論】イエスでもノーでもある

 

「旧約」「新約」の「約」とは、「契約」の意味であり、旧約で結ばれた神との古い契約の多くを破棄したのがキリスト教徒です。その意味で、キリスト教が現代において比較的寛容な宗教とみなされているのは、まさにそれが「律法を破棄した」(都合がいいとも言える)宗教だからです。

ですから、新約聖書がその当時において極めて画期的であり、その後も他の宗教に比べ、時代に合わせて比較的柔軟に対応してきたことは間違いありません。

総じて、旧約聖書におけるヤハウェはかなり怒りっぽく直ぐに人を殺してしまう大変気難しいお方ですが、福音書においてイエスが語る神はそれよりだいぶ寛容でしょう。

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(マタイ伝)

「人のために安息日があるのだ」「罪なきもののみ石を投げなさい」という有名なエピソードを引用するまでもなく、イエスは許す人であり、縛る人ではありません。

さて、ではなぜ聖書、あるいはキリスト教が時に女性差別的だと言われるのか。それは主にパウロに責任があります。

パウロはイエスの直弟子ではない。つまりイエスの言葉を直接知っているわけではありません。しかし、パウロの手紙は数多く新約聖書に書かれており、それがのちのちまでカトリックの方向性に大きな影響を及ぼしています。

「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。 」(コリント書)

「男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。」(コリント書)

「男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。 」(コリント書)

「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている」(ローマ書)

「女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない」(テモテ書) 

その他、「女と寝るように男と寝てはならない」など、悪名高い同性愛差別も多くはパウロ書簡が出典になります。総じて、パウロはイエスその人よりも禁欲的な傾向が強く、それが中世カトリック女性差別に大きく影響した、というのは間違いないところでしょう。(仮に宗教改革がなかったとすれば、今のカトリックが極めて硬直的な組織になっていた可能性はあると思います)

仏教でも、ブッダの入滅後、他宗教の影響を受け「五障説」というのが出てきて、女性は阿羅漢以上にはなれないので一度男性にならなくてはならないという論理展開がなされることになります。

ムハンマドの(最初の)奥さんはハディージャという離婚歴のある金持ち商人で、その娘ファーティマは、シーア派の祖でも有ります。しかし残念ながら、イスラムでも時代が下るごとに女性の地位は下がっていきました。

 

ものすごくざっくり言ってしまうと、どの宗教も、その発生においては比較的男女同権を目指しており、時代が下るごとに慣習的に男女の上下関係が出来ていく、という傾向にあるのではないか、といえます。

ここからは私見になりますが、宗教が権力化していく仮定では、修行や戒律の勉強などに時間を投下する必要があります。

子供を生まなくてはコミュニティを維持できなかった近世以前の社会において、女性が悠長に断食修行やら殿堂やらに精を出す時間はなかったのではないでしょうか。

つまり、「暇な男性が家庭を顧みず宗教活動を行った結果、出世しやすくなり、いつしか宗教が男性優位的になっていった」という仮説が立てられるのではないかと思います。

 

これって、日本の企業にも当てはまるかもしれませんね。