厳しい寒波がソウルを襲った22日の昼頃、明洞の通りのあちこちでは化粧品を売る販売員たちが中国語で中国人客を呼び込もうとしていた。店の前を通り過ぎる通行人もほとんどが中国人観光客だ。ある露店では寒さで鼻を真っ赤にした6-7歳の女の子が、父親の手を取り何かを話しながらパンを食べていた。その声に耳を傾けるとやはり中国語だった。通りにある店の看板は中国語ばかりだ。「ハナ銀行」は「韓亞銀行」となり、化粧品の販売店には「名品正品化粧品」と書かれたのぼりがはためいている。カルククス店の看板やメニューには「刀切麺」と書かれてあった。
明洞が繁華街となったのはかつての日本統治時代、この周辺が明治町と名付けられ、日本の商人たちが店を出した頃にさかのぼる。今の外換銀行本店の敷地には日本が設立した東洋拓殖会社があった。光復(日本の植民地支配からの解放)後は金貸しの店が集まり、国立劇場周辺は芸術家が集まる流行の発信地となった。ちなみに当時ソウルのファッションリーダーたちは「明洞伯爵」と呼ばれた。母親が明洞の一杯飲み屋で働いていたというタレントのチェ・ブラムさんは「あの頃、明洞には食べるものがいくらでもあった」と当時を振り返る。実際に韓国の有名飲食店はこの明洞が発祥のところが多い。
このような雰囲気が少しずつ変わり始めたのは1990年代に入ってからだ。92年に韓国と中国が国交を正常化し、明洞の台湾大使館は中国大使館に変わった。1882年の壬午軍乱当時、この場所は中国(当時は清)の兵士たちが拠点としたことでも知られる。中国経済が急成長を続けた2000年代になると、観光客は日本人よりも中国人の方が多くなった。店の家賃も1坪あたり数千万ウォン(数百万円)に急騰し、食べ物の好みが違う中国人が通りを占領すると、伝統ある飲食店も少しずつ閉店し、今も残っているのはわずか数軒しかない。