"DNA-SHARAKU" 夜の回はスタンディングオベーションやった。
私の横のおばちゃんはけっこう舞台観慣れとるみたいで、めっちゃ早くに立ち上がった。
私ももっと拍手したろかとおもうたけど、演技の途中をぶったぎるのはどうかとためらってもた。
もっと拍手したったらよかった。
伊達娘が、本当は一曲一曲拍手をもらえるのが理想と書いとったし。
だから私は私で遠慮したとこある。
けど、田野も遠慮しとるやろ。
田野のダンスの技量ならば、もっと踊れると私は思った。
他の出演者に遠慮しとる。
けど、3Dアニメとのコラボダンスの衣装とか、もう既に田野だけ目立ちまくりなんやから、パフォーマンスも他人よりも衣装に合わせるくらいでいいと思った。
歌唱力は、女性ではハル役の新妻さんが、男性では斎藤十郎兵衛役の藤岡さんが、個人的にはいいと思った。
AKBの公演と異なって、みんな概ね音程合うとる。
出だしとか不安定な部分はあるとしても。
ナオト・インティライミさんは、単純に歌だけ取るとそれほど上手いとは思わん。
ただプロフィールを見たら、世界旅行した経験があるようで、トータルとしてヒトのココロに響くんやろ。
朝海ひかるさん、改めてプロフィールを見たら、私何年か前に舞台の"おもひでぽろぽろ"で観たわ。
舞台の"おもひでぽろぽろ"は、農家の泥濘みたいなんが露骨で、私はこの作品はちゃうやろ!と思うたけど、高畑勲も礼賛しとったなあ。
私が"おもひでぽろぽろ"を作るとすれば、小学5年生のタエ子のストーリーにして、子供の主張は正しい、間違っているのは大人のほうだ、と主張する映画なり舞台にするなあ。
てか、それを描いたのが"赤毛のアン"なんやけど、そういう解釈をしとる人間が、世界に私しかおらんのが問題や。
みんな、言いたいことを言えなくなることを"大人になる"ことと勘違いしとる。
"大人になる"ことと芸術とは相反する。
アニメだってダンスだって、幼かったり若かったりする者のもので、大人になった人間がやることでないと思うとる人間が大勢おる。
そういう人々と戦っていかなアカン。
このストーリーで有耶無耶にされてもとるけど、国内外を問わずに人々が戦うことって大事やねん。
"論戦する"というくらいやから、議論するのはおおいにけっこう。
なのに、論戦を許容せずに、問答無用で人々の不満を抑え付け、その不満の矛先が、ISみたいに暴力に頼ったら、それを戦争だとして余計に叩くねん。
そのくせアメリカなんか、北朝鮮の核実験を受け、ただちに韓国で"核抑止力"などというお題目のもと、B52の飛行訓練したやろ。
"目には目を、歯には歯を"そのものやねんけどなあ。
ストーリーでいえば、小関さんの蓮が、ナオト・インティライミの健二に対して、"あなたらの世代がちゃんとしてなかったから、僕らが辛い思いをする"とかいう内容のセリフがあるけど、こんな身勝手なセリフはない。
自分が辛い思いをしとると認識したならば、そいつが辛い思いをする負の連鎖を止めな、誰も止めんぞ。
私は、辛い思いを認めて大人になったとカンチガイするような人生なんか、まっぴらゴメンや。
・・・・というような思いを、田野なんかも、理屈で思っても実際に行動するのは難しい、で止めてまうのではなく、さらに一歩行動に移して欲しいなあ。
上手く纏めると、理屈で思ったことを行動に移して弾圧を受けたのが、東洲斎写楽なんやから。
写楽のDNAを本当に残したいならば、スキルとしての芸能ではなく、事実を伝える手段として芸能を活用してかなアカンはずや。
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