同一労働同一賃金の実現に「踏み込む」
本日の安倍総理の所信表明演説はこちらですが、
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement2/20160122siseihousin.html
当然のことながらいろんな事が総花的に一杯並んでいるわけで、その大部分は既にそういう方向で動いていることを改めて言っているものではあるんですが、中には思わず、「えっ?そこまで踏み込むの?」というのがあったりします。その典型がこれで、安倍総理自身がわざわざ「踏み込む」という言葉遣いをしていて、まさに「踏み込む」ンだな、という話です。
・・・非正規雇用の皆さんの均衡待遇の確保に取り組みます。短時間労働者への被用者保険の適用を拡大します。正社員化や処遇改善を進める事業者へのキャリアアップ助成金を拡充します。契約社員でも、原則一年以上働いていれば、育児休業や介護休業を取得できるようにします。更に、本年取りまとめる「ニッポン一億総活躍プラン」では、同一労働同一賃金の実現に踏み込む考えであります。
とはいえ、これだけでは具体的にどういうことを「同一労働同一賃金」と考え、踏み込もうとしているのかが今ひとつよくわからないところがあります。
今後、この一億総活躍国民会議でどういう議論が進んでいくことになるか、フォローしていく必要がありますね。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ichiokusoukatsuyaku/
(参考)
http://www.nitchmo.biz/hrmics_13/_SWF_Window.html (『HRmics』第13号)
連載「雇用問題は先祖返り」「同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?」
非正規労働問題の一つの焦点が均等待遇であることはいうまでもありません。そしてその際にキーワードとして用いられることが多いのが「同一労働同一賃金」ないし「同一価値労働同一賃金」の原則です。なんといっても、政府自ら2010年6月の「新成長戦略」の中で、「「ディーセント・ワーク(人間らしい働きがいのある仕事)」の実現に向けて、「同一価値労働同一賃金」に向けた均等・均衡待遇の推進・・・に取り組む」と言ってますし、与野党問わず選挙マニフェストでは「同一労働同一賃金」を訴えています。
今日では、同一(価値)労働同一賃金を主張し、正社員と非正規労働者の均等待遇を主張するのが労働側で、それに消極的なのが経営側というのが一般的な常識でしょう。実際、連合が2010年にまとめた「働くことを軸とする安心社会」では、「男性正社員中心の旧弊を改め、女性社員や非正規労働者を含めて、法律や労働協約による最低賃金規制の強化を基盤として、同一価値の仕事には同一水準の賃金を支払い、処遇全般にわたっても、均等・均衡待遇を実現していかなければならない。」と主張しています。これに対し、日本経団連は2011年度版「経営労働政策委員会報告」において、「わが国では産業横断的な職務給概念は確立しておらず」、「賃金のあり方は各国の歴史、労使慣行などによっても異なる」と、欧米型同一労働同一賃金の発想を退け、「わが国の「同一価値労働同一賃金」の考え方は、「将来的な人材活用の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらすことが期待できる労働(中長期的に判断されるもの)であれば、同じ処遇とする」と捉えるべき」と述べ、むしろ日本型職能給の考え方の堅持を主張しています。どちらに賛同するかはともかく、この労使配置状況自体に違和感を感じる向きはあまりないと思われます。
ところが、今から半世紀前の日本では、労使の主張はまったく逆転していたのです。経営側が職務給による同一労働同一賃金の実現を声高に主張し、労働側はあれこれと理屈をこねてそれを嫌がっていたのです。ホント?ホントですよ。それをこれから見ていきましょう。
1 軍部から労組へ:戦中戦後を貫く生活給思想
2 経営側の主張する同一労働同一賃金原則
3 労働側のリラクタントな姿勢
4 政府の積極姿勢
5 そして誰も言わなくなった・・・
6 「均衡」ってなあに?
7 不合理な相違の禁止←いまここ
8 同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?
改めてこの数十年の歴史を振り返ってみると、「攻守ところを変え」という言葉が思い浮かびます。1950年代から60年代には経営側や政府が同一労働同一賃金原則を声高に主張し、労働側は正面から反論しにくいものだからいろんな屁理屈をこねていたのに、そんな問題が意識されなくなった時代を間に挟んで、1990年代から2000年代には労働側が(どこまで本気であるかはともかく)同一労働同一賃金原則を声高に叫び、経営側は「同一価値労働かどうかは中長期に判断するのだ」などと苦肉の反論をしています。
同一労働同一賃金という字面それ自体はまことにもっともな原則であるがゆえに、反論する側が屁理屈になる傾向があるわけですが、そもそも声高に主張している方が(かつての経営側にしても現在の労働側にしても)どこまで本気で言っているのかいささか疑問なしとしないというところも、かつてと現在の共通点かも知れません。
なんにせよ、こういう経緯を眺めてくると、「同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?」といいたくなりますね。どいつもこいつも本気じゃないのに・・・。
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時代の幸運で終身でおよび新卒一括採用の現有被雇用者群と、時代の不幸にもてあそばれ、既得非雇用者群の安全弁の役割を担わされ非正規として長年不遇に耐えられてきた方々の融合は企業群の決済では何ともできない以上、政府が登場すべきことでそれ自体は評価に値します。が、はまちゃん先生曰くいかに分配調整するのかを委員が生産拡大中心でしのごうとされるようでは先送り先送りを主流経済学お得意の同義反復で覆い、ちょびっと改革でしか進まないのではと。曰く、りべさよvsリベラル(でしたっけか)のような不毛地帯でですね。技術進歩も制度進歩も人の意志という内生的条件を議論に常に取り入れるならば、アンソニー・アトキンソンの「21世紀の不平等」で語る各アイディアのかけらでも出てくるはずですが、分配が外生的とする学問的な立場にしか接していない神(市場)のみを信じる人々の会議委員構成であれば、これまた帰結はおのずと知れたもの。要は労組等の影響なぞは80年代以降ですでに消滅し、あるのは政治決断を促す危うい世論であろうかと思われ、専制がこれまでとは違った多数派を形成するのであれば、社会制度等々が神を信じる絶対的信仰派から相対的現実派に期待を持ちたいとも思います。演繹法的議論はも今はもうよろしい。帰納法で今を乗り切りましょうよ。それがなんらかの新結合を呼び込みますよ。
投稿: kohchan | 2016年1月23日 (土) 08時13分
これ、首相は正規労働者と非正規労働者のことぐらいしか考えてないんでしょうが、例えば地域別最低賃金なんかどうするんでしょうね。鳥取だって東京だってコンビニ店員は同じ作業ですよね。全国一律最低賃金にするんでしょうか。
あと国家公務員の調整手当、東京労働局の職員は20%出ているけど鹿児島局の職員はそんなものない。
投稿: Munchkin Cat | 2016年1月23日 (土) 09時52分
何度もすみません。「HRmics第13号」を読み飛ばしたコメントでしたのでご迷惑ながらちょっとだけ。
とある尊敬する先生のhpで、社会科学系において過多とも安易とも言える便利用語に、パラダイムシフト等がある云々の文章を読み、小生も若干ながら恥ずかしく反省いたしました。
チーム云々の職種間連携の重要度がますます求められる職業に就く学生たちに、同一価値労働同一賃金(ディーセントワーク)に職種間協働の先導的な実現可能性があるから、それでも埋められない賃金と社会的地位の差異は、社会へ訴えるのではなく従事者間での内在する問題として考えようとはなしておりましたが、ど~も抽象化し実証で比較集約的に結果効用最大化を求める演繹法は過去を見つめるには利便高くとも、今とこれからを動かしながら少しでも実効性を求める場合は、あらためて辛い机上的結論になる可能性が高いなあと。ディーセントワーク然り、パラダイムシフト、イノベーション等々流行言葉に社会の連続性をあたかも見て見ぬふりで新しさに飛びつく浅はかさをしてきたようで反省しきりです。国民会議にそれがなければと思いますが、影響力はないですよと以前コメントいたしました某氏のソーシャルインクルージョン発言も上記のようなフワフワしたものに感じます。小生含めコメント過多な・・・今考えるにやっぱりな、言葉遊びしてると。実現可能性こそ使命ですから見守りたいような、期待はできないような国民会議って何でしょう?
投稿: kohchan | 2016年1月23日 (土) 11時34分