京都市のバスというのはロケーションシステムが確立されていて、どこのバス停にバスが居るのかというのがバス停の表示板を見れば分かる。
今日は自分は、京都駅に行かなければ行けない用事がありバス停の表示板を覗いたのだった。
すると、自分の顔が写った。
他の誰よりも顔の肌が汚くてグロテスクだったのだ。
赤みや、抉れた跡や、脂がにじみ出ていたりする大きな毛穴やら、白い膿やら、酷いクレーター。
たぶん誰よりも自分は肌に時間をかけているし、精神も削がれてきたし、嫌がれてきた。
元はといえば持病の治療でこんな肌になり、ありとあらゆる気力が削がれ北区のバカ大学に来たのだ。
自分の顔を不意に見てしまうと、ありとあらゆるものへのやる気がなくなるのだ。
見たくない。
大学だって、父親の会社のお手洗いだってどこだって自分の肌を見ないように手を洗う。
顔を見ると気持ち悪くなって足がガクガク震えるのだ。
一生こんな汚い肌で、嫌な容姿で生きていくのかと考えると何もが無駄に感じる。
性愛はもちろんそうだが、そうでなくとも人間は顔の肌が汚いと嫌うものだ。
自分に対して性格が悪い、性格を直せといろいろな人に言われるがまずは誰か容姿をきちんとしたものにして欲しい。
容姿が醜いから精々、性格くらい害悪のないものになって貰いたいというのだろう。