【動画】家臣に宛てた秀吉の書状には、すごみを利かせた文言も=中村正夫撮影
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 羽柴(豊臣)秀吉(1537~98)が、家臣の武将、脇坂安治(わきざかやすはる、1554~1626)に宛てた書状33通が見つかった。兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館と東京大が21日発表した。「天下人」の書状がまとまって確認されるのは異例。天下統一や朝鮮出兵の過程での細かな指示ぶりや叱責(しっせき)を飛ばしていた様子がうかがえるという。

 書状は秀吉の朱印を押した朱印状で、縦29~47センチ、横45~67センチ。龍野藩脇坂家の初代、安治を祭る龍野神社(たつの市)が所蔵していたが、2012年に保管先の民家の火災で一部が焦げ、消火で水損もした。市が2年後に一括購入し、東京大史料編纂(へんさん)所が修復・調査。秀吉の祐筆(ゆうひつ、書記)の筆跡や朱印から本物と断定した。

 書状は織田信長が本能寺の変(1582年)で倒れた後の約10年間分で、信長の次男・信雄(のぶかつ)や徳川家康と覇権を争った小牧・長久手(ながくて)の戦い(84年)や越中(今の富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)攻め(85年)、九州の島津攻め(86~87年)、朝鮮出兵時(92~94年)などに関する内容。

 85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。正親町(おおぎまち)天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞(せんとう)御所造営に使う材木の手配を伊賀(現在の三重県北西部)で行うよう命じた安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。伊賀の統治についても細かく指示し、統治がうまくいかなければ蒲生氏郷(がもううじさと)ら他の武将を派遣すると告げた。追放した近臣の一人をかくまわないよう指示し、「信長の時代のようには甘くない」とすごみも利かせていた。