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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
娘に話せなかった分まで 三田村静子さん (1941年生まれ)
(新聞掲載は2014年6月12日〜6月21日)

写真 美和さんの写真と

写真 松添博さんの遺影を前に、松添さんが作った紙芝居「ふりそでの少女」を読む

写真 田中キヲさんの紙芝居を朗読した

写真 修学旅行生を案内する

 3歳の時に爆心地から約5キロの場所で被爆した三田村静子(みたむらしずこ)さん(72)は4月、被爆体験の語り部になるため、長崎平和推進協会継承部会に入った。「今こそ語らないと。娘のために」。それが使命と感じている。

 「この時が最後の別れだったんです」。三田村さんが1枚の写真を見せてくれた。コスモス畑の中の長女、美和(みわ)さん。楽しそうにほほえむ姿に引き込まれた。この翌年の2010年6月、39歳でこの世を去った。

 三田村さん自身、がんと闘い、今も再発の不安を抱える。目では見えない、においもしない放射線への不安を感じてきた。被爆2世への影響は分からないというが、娘にも放射線が影響していたんじゃないか――。それが語ろうと思ったきっかけだ。11年3月の東京電力福島第一原発の事故を受け、語る必要性をさらに感じた。

 「黒こげの状態は体験していないので語れないが、放射線の不安の中で生きていることは伝えられる」

 三田村さんは太平洋戦争が始まった1941年12月に生まれた。被爆当時は爆心地の南西約5キロ、稲佐山を越えた先の福田村(現・長崎市福田本町)の自宅にいた。当時は3歳だったが、わずかに覚えている情景がある。

 三田村さんは縁側で、姉2人と兄の4人で食事をしていた。「当日は米だったんです。うれしくて、ものすごく楽しいひとときだった」と三田村さん。普段は食糧難でイモが多かった頃だけに、鮮明に覚えていた。

 白色の光がパーッとあたりを包んだ。夢中で食べている三田村さんのご飯の上に白い灰かごみのようなものが落ちてきたが、そのまま食べ続けたという。「何ぐずぐずしとっとね」。姉が三田村さんをおぶって、逃げた。そこまでははっきり覚えている。

 姉たちは、髪の毛が逆立っている状態で稲佐山から下りてくる人たちを見たらしい。大人になってから、「地獄図のような光景だった」と聞いた。

 三田村さんは39歳の時に大腸がんがわかった。当時は「がん=(イコール)死」とされていた。手術前に一時帰宅した際は「これが最後かな」と思ったが、手術で九死に一生を得た。

 その頃、母は初めて三田村さんに原爆のことを語った。三田村さんが被爆者健康手帳を取ったのもその時だ。母は娘への差別や偏見を恐れてか、それまでは語ることはなかったという。59歳の時には、子宮体がんとなり、子宮を摘出した。

 三田村さんだけではなく、周囲にも病魔は次々と襲った。三田村さんの2番目の姉も2度大腸がんになった。3番目の姉は39歳の時に直腸がんで亡くなった。その2人の娘も、それぞれ、がんや脳腫瘍(しゅよう)で30〜40代でこの世を去った。みな、被爆当時、三田村さんと一緒に自宅にいた人とその娘だ。

 三田村さんは2010年には、長女の美和さんをもがんで失うことになる。「やっぱり放射能が影響しているのではなかろうか」と三田村さんは語る。

 母が自身に原爆のことをあまり話さなかったように、三田村さんも、長女の美和さんに被爆のことを話すことはあまりなかった。
ただ、「白い灰のようなものが降ってきたご飯を食べた」とは話していた。

 夫と愛知県に住んでいた美和さんは2010年1月ごろ、体調が悪くなって病院にかかった。三田村さんが電話で体を気遣うと、いつも「大丈夫、大丈夫」と返してきた。「心配をかけたくなかったのでしょう」。まさか死に至るとは思っていなかった。

 その年の3月末ごろ、美和さんが倒れた。三田村さんが駆けつけた時には、もう話すことはできなかった。抗がん剤の影響で髪の毛は抜け落ち、変わり果てた姿だった。3カ月後、息を引き取った。「何でもっと早く会いに行かなかったのだろう」と悔やんだ。

 葬儀の後、美和さんの親友が、生前の美和さんが「自分も原爆の病気なんじゃないか」と話していたと教えてくれた。娘も原爆の影響を不安に思っていたことを初めて知った。「話したいことがいっぱいあったのに」と悔やむ。

 話したかったことの一つは、世界各地を被爆者が巡るピースボート主催の「証言の航海」の体験だ。三田村さんは08年9月から09年1月の第1回の旅に参加した。

 ギリシャでは、自身の被爆体験を語ったり、被爆体験を伝える紙芝居を見せたりした。現地の学生からは「こんなに苦しんで、原爆を投下したアメリカを恨みませんか」と質問された。三田村さんは「恨んでも何も始まらない。二度と戦争をしないようにしましょう」と呼びかけた。
 ベトナムでは、ベトナム戦争時の枯れ葉剤の被害者と交流した。多くの子どもたちに影響が出たことを知り、胸が締め付けられた。長崎だけではなく、戦争の被害者が多く苦しんでいると痛感した。原爆だけではなく、戦争自体がダメなんだ。そんなことを娘と話そうと思っていた矢先の別れだった。

 平和案内人、紙しばい会……。三田村さんは、平和に関係する活動で忙しい日々を過ごす。その原点は戦後50年の1995年。三田村さんがボランティアで運営などにかかわっていた生協「コープながさき」(現・ララコープ)で、劇団を招いて、戦争をテーマにした劇を上演することになった。

 「自分たちも勉強しないといけない」と、特攻隊が飛び立った鹿児島県知覧町(現・南九州市)を訪れた。知覧特攻平和会館で、若者たちの遺書を読んだ。にこにこと笑う遺影が並んでいた。出撃前に寝泊まりしていた三角兵舎で、「どんな気持ちでここで過ごしていたのだろう。飛び立つ前にあんなににこにこしていられたのだろうか」と若者たちに思いをはせ、胸を打たれた。

 「二度とこんなことがあったらいけない」と思った三田村さん。自分ができることをしようと、生協の中に「ララフレンド」というクラブをつくり、平和記念像の前で案内をするボランティアの活動を始めた。

 三田村さんは2007年、平和案内人の仲間らと、被爆体験の紙芝居をつくる「紙しばい会」をつくった。「絵だったら子どもたちに伝えやすいのでは」と考えた。三田村さんが最初に作品にしたのが、被爆者の松添博(まつぞえひろし)さんが描いた「ふりそでの少女」の物語だ。松添さんに紙芝居にしたいと伝えると、快く応じてくれ、松添さんの描いた絵を使わせてくれた。「色々な話を教えてくれました」。松添さんも会のメンバーとなり、その後も三田村さんの文、松添さんの絵で作品をつくった。

 松添さんは4月、83歳で亡くなった。三田村さんは「思いもよらなかった。残念です」と惜しんだ。松添さんは病気になった後、三田村さんにこんなメッセージを渡していた。「三田村さんと出合い、紙芝居を作ってもらいました。今後はこの話を三田村さんが受け継いでくれます」。三田村さんもそのつもりだ。

 「(被爆後)自宅に寝かせていた4カ月の次男のことが気になり、家に向かって夢中で走りました」。

4月に国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館であった朗読会。朗読ボランティアもする三田村さんは、同じ班のメンバーとともに、紙しばい会で作った紙芝居「哀(かな)しみと沈黙に生きて」を朗読した。原爆投下直後に撮影された写真「治療の順番を待つ母子」の母、故田中(たなか)キヲさん(2006年に死去)の生涯を描く作品だ。田中さんは、写真に写る次男や長男を失った。生前、被爆体験を話したがらなかったという。

 爆心地そばで奇跡的に助かった黒川幸子(くろかわさちこ)さん、黒こげの遺体のそばで立ちすくむ少女の写真の龍智江子(りゅうちえこ)さん……。三田村さんがこれまで体験を紙芝居にしてきた人たちだ。田中さんと同様、表だっては体験を語ってこなかった人もいるが、様々な話を伝えたいと思い、本人や家族に聞き取り、作品にしてきた。「みんな心の中で格闘している。口では言い表せない苦しみがある」と実感する。

 平和を考える上で、三田村さんが大事にしていることがある。思いやり。母の背中から学んだことだ。戦後、貧困の時代を過ごしたが、母は少ない物でも周りの人と分かち合っていた。「物がなくても、決してマイナスではなく、プラスになった」という。

 三田村さんは、爆心地そばの城山小の被爆校舎や嘉代子桜のガイドをする城山小被爆校舎平和発信協議会のボランティアも務め、同校の子どもたちに話をしたこともある。伝えたのは、平和につながる「あいうえお」。

 「あ」はあいさつ。あいさつはお金のいらないプレゼント。「い」はいじめのないように。「う」は美しい城山小。掃除が行き届けば、心も美しくなる。「え」は笑顔。そして「お」は思いやり。そんな身近なことから平和について考えることが、戦争のない世界につながると思っている。

 近くのバス停で子どもたちと会った時、「あいうえおのガイドさんだ」。ちゃんと聞いてくれている、とうれしくなった。

 「今でも夜中に目が覚め、娘に会いたい、と思うんです」。長女の美和さんの死から4年。三田村さんの悲しみは薄れるどころか、当初よりも強くなってきたという。「娘が亡くなって分かったことがある」。三田村さんの姉を失ったときの母の思い、原爆で亡くなった娘、嘉代子(かよこ)さんのために桜を植えた林津恵(はやしつえ)さんの思い。命を大切にしてほしい――。三田村さんは心から願う。

 ある時、修学旅行生に語った。「原爆で生きたくても生きられない人がいた。どんなことがあっても、生きてほしい。いつか日は昇る」。その後、引率していた女性教師から手紙が届いた。こうつづっていた。家庭の問題で自殺を考えた。命を絶とうとする直前、三田村さんの顔が思い浮かんでやめた、と。三田村さんの思いは確かに届いていた。

 いつも、にこにこと明るい三田村さん。取材では娘さんの死というつらい体験を語ってくれた。「命を大切に」。その思いを私も心に刻みたい。
(岡田将平・33歳)