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いわゆる大石寺の弘安二年十月十二日の本尊というのは、厳密には三人の字体が確認されて、堀日亨氏は、公開されていない堀ノートというメモで、曼荼羅部分は日蓮とされ、日にち部分が日興の筆で腰書きの「現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆敬白」という字は誰の字か不明と言われています。
掘日亨上人講議(堀ノート)
戒壇大御本尊について、相貌、中央題字その他は宗祖の筆。
ただし年号は日興上人の筆。
弥四郎国重は他筆、誰かはわからない。法華講衆と法華宗などの違い。
身延時代は紙幅本尊であった。同時代の門下の記録がない。
板に彫ったのは身延離山後。身延から上野まであんな大きくて重いものを運べるわけがない。紙幅は重須で盗難にあった。
と意味深な記録を残されています。
初出記録では保田日我「観心本尊抄抜書」がよく引き合いに出され それに依ると「久遠寺の板本尊今大石寺にあり、大聖御存日の時ノ造立也」とあり
その堀氏が、古文書研究で宗祖真蹟の研究に従事した稲田海素氏が、出版物の調査で真蹟遺文を写本するために大石寺に立ち寄った折に、堀氏が宝蔵の長持ちから真蹟の遺文を出すために助手に付いたそうです。
その折の話に、「老師云く、『板本尊は、宗祖の御真筆を模写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は、私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直観した。板本尊の原本は確かに御真筆である」(木下日順『板本尊偽作の研究』)と記録されています。まるで推理小説のような有るのかないのか、作ったのか作らなかったのかミステリー調ですが、日蓮の弘安二年の本尊は以下の様な記録になっています。
●弘安2年に書写された本尊
授与月日 授与書き(及日興加筆)寸法 収蔵場所
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2 月日 釈子日目に之を授与す(天王の点の中に日興の二字、加筆の文字抹却した跡)
94.9㎝×52.7(三枚綴り)(富要8―222)(本集60・桑名市・壽量寺)
2 月 妙心に之を授与す 88.8㎝×48.5(三枚綴り)(本集59・中山浄光院蔵)
4. 8 日向法師に之を授与す 89.4㎝×47.6(三枚綴り)(本集61・茂原藻原寺蔵)
4. 8 優婆塞日田に之を授与す 97.3㎝×51.5(三枚綴り) (本集62・玉沢妙法華寺蔵)
4 月 比丘日弁に之を授与す 100.0㎝×53.0(三枚綴り) (本集63・峰妙興寺蔵)
6 月 比丘尼日符 94.9㎝×53.3(三枚綴り) (本集64・中山法宣院蔵)
7 月 沙門日法に之を授与す 104.5㎝×54.5(三枚綴り) (本集65・岡宮光長寺蔵)
8月18日 沙門佑盛日合に之を授与す (富要8-177)
9 月 日仰優婆塞に之を授与す 不詳(一紙) (本集66・和歌山蓮心寺蔵)
10 月 沙弥日徳に之を授与す 91.2㎝×49.1(三枚綴り) (本集67・新曽妙顕寺蔵)
11月 俗日増に之を授与す(日興上人御加筆)本門寺重宝たるべき(富要8-177)
11 月 優婆塞日安に之を授与す 78.5㎝×46.1(三枚綴り) (本集68・沼津妙海寺蔵)
11月 授与者 不明 59.8㎝×40.8(二枚綴り) (本集68の2 小田原市 淨永寺)
11 月 沙門日永に之を授与す 68.8㎝×45.2(二枚綴り) (本集69・京立本寺蔵)
11 月 優婆塞日久 45.1㎝×30.0 (一紙) (本集70・千葉随喜文庫蔵)
コレ以外に六老僧の一人日興が書写本尊に加筆した本尊があります。日にちも未定です。
★因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与へ申す、(同上)本門寺の重宝たるべきなり(京都妙覚寺)
これが弘安二年の一連本尊の状態と変わっているのは「授与す」という箇所です。これが弘安二年とされる「因幡の国富城寂仙房日澄の母」への本尊には「之を与へ申す」となっていることです。
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