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弘安期の本尊で素人目に見ても分かるのは、勧請諸尊の違いです。
日女御前御返事(建治三年・真蹟なし)に、「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」とあります。
大日如来や善徳仏、十方分身の諸仏など仏菩薩は初期からかなり入れ替えがありますが、声聞縁覚の移動や無記もかなりあります、弘安元年太才戊寅後十月十九日・56番「鴛鴦御本尊」では二乗がありません。
弘安二年からは弘安二年太才己卯二月から見られるのは提婆達多が勧請に入ります。この提婆達多ですが、地獄界のシンボル的キャラです。弘安元年太才戊寅十一月廿一日の優婆塞藤太夫・日長には見られませんでした。弘安二年太才己卯四月八日の61番の日向法師授与曼荼羅にも提婆達多が座配に見られます。
ちょっと特殊な守本尊や略本尊以外は提婆達多の存在が登場していることですね。この提婆達多は文永11年7月25日の13番曼荼羅に提婆達多と阿闍世大王が初めて列座しますが、その後は書写されず文永・建治から弘安二年に至って再登場したきたということです。
文字曼荼羅は十界曼荼羅(十界勧請の様式の本尊)ともいいますので、いってみれば十界具足としてようやく列衆が揃うという意図があるのではないかと思います。この提婆達多の登場時期に何かあったのではないかと調べてみました。
文永11年には2月14日、佐渡流罪を赦免されてます。鎌倉帰還して二ヶ月後に平頼綱と面会してます。この年の11月に蒙古が襲来し文永の役があり、日蓮は5月に身延山に隠棲してます。7月25日の13番曼荼羅に提婆達多と阿闍世大王が登場するのは、なにかの区切りになっているのでしょう。
この年の12月に書写された保田妙本寺に所蔵されている曼荼羅(御本尊一六)に、「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ヶ国之間、未有此大本尊、或知不弘之或不知之、我慈父以仏智隠留之為末代残之、後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」とありますので、文永の役や佐渡赦免、平頼綱と面会等、何らかの心理的意味は感じていたのではないかと推測できます。
次は弘安期ですが、弘安元年に三度目の流罪の噂立つくらいで、この年よりも翌年のほうが色々あります。8~10月、駿河方面の門弟に弾圧が及び、熱原法難といわれる事件があります。この裁きを担当するのは平頼綱ですね。
この騒動の起こりはともかく日蓮門弟の動きも色々あります。弘安二年に落馬して死去したとされる日蓮弟子の大進房という人がいます。熱原法難の際に派遣されたにかかわらず裏切って行智に味方し日蓮の信者となった農民を弾圧した一人にまでなっています。
「また大進阿閻梨の死去の事(中略)三位房が事さう四郎が事・此の事は宛も符契符契と申しあひて候、」(四条金吾殿御返事・弘安二年:真蹟)
「大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか」(聖人御難事・弘安二年:真蹟)
日蓮の遺文に落馬に関して登場してますが、もう一人三位阿闇梨と呼ばれた人が上にも確認できます「三位房が事」という箇所です。
この人は弟子の中でもかなり優秀で比叡山に遊学し、公家の厚遇をうけたことを報告したところ日蓮より訓戒をうけている遺文が残ってます。(文永六年『法門可被申様之事、御輿振御書』等)
熱原法難のときは大進房とともに弾圧側にまわり、この人も弘安二年ころ、死去したと聖人御難事や四菩薩造立鈔に残されてます。
自分の門下が師匠に反逆する事件は、提婆達多が釈迦に戒律のことで反逆し地獄に堕ちたとされた事件と似てますね。大進坊・三位房、そして日蓮を佐渡送りにし、法難時に裁判官として登場する平頼綱。こういうメンツが揃ったことで日蓮の意中に何らかのイメージがあったのではないかと思えます。
地獄の象徴キャラの登場と信徒たちに害が及んだ熱原法難で曼荼羅に提婆達多を登場させたのではないかと思えるエポックではないかと思えますね。
その時期に書かれた「聖人御難事」は日蓮が弘安二年十月一日の作で、日蓮門下が異議を問う「余は二十七年なり」という出世の本懐テーマが問題になってきます。
私は日蓮信仰とは縁がないですが、戒壇本尊が出世のどうのというよりも、提婆達多の登場は背景にこういう事件が横たわっているという事実も大事じゃないかと思いますけどね。
ちなみに文字本尊が成仏とか、ご利益に有効かどうかは、私は否定します。それもおいおい。
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