11ヵ所がきょうまでにオープンしました。
残る4ヵ所も、あすオープンする予定です。
兵庫県は利用客を集めるために、リフト料金の割引きやイベントを開催するリフト料金の割引きやリフト料金の割引きや支援を行うことを決めています。
「ここに幸あり」
(黒柳)昭和31年に発売されたこの曲。
今皆様が聴いていらっしゃるのは今日のお客様が18歳の時でした。
歌い続けて60年。
くも膜下出血に倒れても負けず記憶喪失になったのも乗り越えて今日がございます。
大津美子さんどうぞいらしてください。
(拍手)どうも失礼します。
おじゃまします。
今日はありがとうございます。
どうもしばらくでした。
すごい。
お元気でよかったですよね。
やっぱり乗り越えようと思うと乗り越えられるものだなと思いますよね。
なんか本当に60年なんて考えられません。
あっという間にきてしまった…。
本当にね。
今日のお洋服は森英恵先生のお洋服なんですよ。
ちょっとそうじゃないみたいに見えますけどここのところの…。
当時森先生外国の方にねお洋服作っていらした時のをわざわざ染めてちょっと日本風なそうでないようなちょっと外国風なみたいな…そこにレースを大胆にはめ込んだ…。
デビューは17歳?そうでございます。
ねえ。
ねえ。
10代でした。
そう。
昭和31年に発売された…。
あっ可愛い。
当時こういうお洋服だったんですね。
いやー…デビュー当時で。
デビュー17歳で昭和30年。
テレビができて2年目っていう頃ですね。
そうでございますねはい。
最初のヒットは『東京アンナ』。
はい。
それはまだ高校生の頃?そうでございますはい。
愛知県の豊橋から東京に通ってお勉強。
そうでございます。
で先生のところにいらしてたんでしょ?そうなんです。
渡久地政信先生の門をたたきまして。
父はまあ歌も駄目学校も駄目というふうになっちゃいけないのでっていうことで夏休み冬休みを利用してお稽古に行ってよしということで…。
通っていらしたの?はい。
今だったら新幹線がありますけど当時は時間掛かったでしょ?はい。
土曜日学校が終わりまして夜行列車に乗っかって朝着いてお稽古してまた帰るという…1週間に1度という…。
でもラッキーだったのは『ここに幸あり』がデビューした…ヒットしたのは…。
ハワイからそれこそ火が付きました。
ハワイから?はい。
そう。
やっぱりみんな懐かしい日本のことを思うと…。
そうですね。
それでハワイにもいらしたの?そうですね。
昭和33年三橋さんと初めて…三橋美智也さんとご一緒にハワイにお招きいただきましてまいりました。
わあ懐かしく…。
ねえ本当ね。
あなたたちがお歌いになったらハワイのお客様がお泣きになったとかって。
そうですね。
お招きされてまいりましてそして私『ここに幸あり』を…1コーラス…そうですね1コーラスぐらいまでは聴いてくださったんですけど2コーラス目ぐらいからうわーっと皆さんがもう合唱してくださいました。
そう。
ええ。
だからもう本当に独り歩きしてたんでしょうかもう…はい。
でも当時まだお若いでしょ?あなただって。
はい。
二十歳でしたかしら。
二十歳やそのぐらい。
やっぱり色んな込み上げるものとか色んなものがあったでしょうねきっとね。
そうですね。
本当に…まあデビュー時代は声を高らかに大空にぶつけて歌っておりましたんですけどもう本当色々な方々との出会いがあってやっぱり本当に詞を大切に歌っていかなきゃいけないなっていうことをやっぱり勉強しましたね。
これは作曲なすったのは飯田三郎さん。
これはですね古里の豊橋から出てきたばっかりで…。
本当にお若いわね。
ペコちゃんっていうニックネームが…。
何ていう?ペコちゃんっていう…名前を付けていただきまして…。
「大津君と一度会ってみたい」という…。
『ここに幸あり』の飯田三郎先生…作曲家の飯田三郎先生ですけどキングレコードでお会いした時の写真。
この先生は歌の声がどうとか歌い方がどうとかというよりも展覧会に一緒に行ってくださって?そうなんですね。
これびっくりしました私。
歌は選ばれたんだからうまいに決まってるだろうということで「さあ俺についてこい」と。
どこに行くかなと思ったら…画廊回りをしてくだすったのが飯田三郎先生で。
そうですってね。
何軒も連れていってくださいました。
この絵はどこが好き?とか。
そうです。
何だから好き?とか…。
どの絵が気に入ったか。
「わかりません」って…。
また一からまた戻されて「もっと見なさい」。
だんだんと見ていくうちにあっこの絵が素敵…。
例えば風景画なんですけど「お空が奇麗ですね」「奇麗な青い色が出てますね」って言うと「それでいいんだよ」と。
「歌もやはりピアニッシモとフォルティッシモがあるでしょ?」っていうふうに教えてくれたのは先生でした。
大きい音と小さい音ね。
はい。
繊細な音というふうにあるんだから絵も…。
そういう絵の展覧会にも随分連れていってくだすったんですってね。
何回も連れていってくださって本当に勉強になりました。
今日はね歌っていただくんですけど『ここに幸あり』きっと懐かしくお思いの方いらっしゃると思うのでちょっと…さっきちょっと聴いたんですけどこれちょっと…十何歳の時?18歳。
18歳の時のをちょっともう一回聴かせていただいていいですか?「嵐も吹けば雨も降る」大人っぽい声ねでも。
恥ずかしいですね。
「女の道よなぜ険し」「君を頼りに」すごい。
「私は生きる」「ここに幸あり青い空」はやりました。
はやりましたねこの曲はね。
いやあでも素晴らしい作品をちょうだいしました。
ねえ本当。
またあとで歌っていただきますので…。
はい。
ありがとうございます。
でも1曲でこんなに…今60…何年?60年。
60年?歌い続けて60年。
本当にあっという間に…60年なんて信じられません。
それでやっぱりたくさん歌も…その中でヒット曲もあるんだけどやっぱりこの曲みんな歌ってほしいって仰るでしょ?そういうこといっぱいあったんですけども突然…脳梗塞じゃなくて…。
くも膜下出血。
くも膜下?脳の動脈が破裂して…。
何歳の時?えーと…42歳です。
うわー…。
42歳の時でしたかしらね。
ある日突然…頭が痛くなって。
意識はございましたんですが…。
家だったんですね。
ですからもうすぐ主人に…子供が学校に行ってましたのでこれはちょっとこのまま逝ってしまうんじゃないかなっていう気持ちがあったものですから。
「子供を学校から帰して」って主人にお願いしてで子供が飛んで帰ってきてそして主人の運転で子供のひざ枕で病院にまいりました。
でもよく後遺症なく。
えー…42日間の入院生活でしたけどもお話しもできるし歩くこともできるんですけど退院してから…可愛い息子が目の前にいるんですがそれが誰なのかそういうところがちょっとわからない…。
何ていうんですかね?あらー…そう。
ええ。
ですからまああの…家なんかも自分の家だか…主人もちょっとわからないし。
そういうところがありましたんですけど。
ある日…何回も息子が私の手をつないで公園に連れていってくれまして。
6回か7回目ぐらいの時ですか。
ブランコでこう…乗ったり滑り台下りたりなんかしてるのを見てあらー…あっ!これは私の息子だっていうのをそこで気が付いて…。
わかったの?で半分麻痺してましたんで物はこちら…右では持てなかったんですけども全部戻って。
息子が「えっ!お母さん元に戻ったの?どうしたの?」っていう感じで飛んできてくれて。
子供は小学4年生ぐらいの時でしたんですけど。
名前を…息子の名前を言ってお母さん戻ったんだわっていうことで…。
奇跡ってあるんだなってその時にもう…。
ちょっとそのお話してらっしゃるのでちょっと前回いらした時の『徹子の部屋』のVTRちょっと拝見しますね。
そうなんですか?はい。
「この手術は四分六だと」「まあ…4が助かるあれで6が危ないということで…」「そんなだったんですか?」「そしてとにかく駄目だから…」「まあ…手術してる最中に爆発してしまったら…瘤が爆発して出血をしてしまったらそのまま死んでしまうと」「“もしじゃあ助かった場合はどうなるんですか?”とお聞きしましたら言語障害とそして失明とそれから麻痺が残るということで慌てて私の両親そして家族全部に連絡をして集まってもらったそうなんですけど」「でもその間あなたはご存じなくて今度この『徹子の部屋』に出てくださるのでこういうことのもろもろをねご主人からよくお聞きになって」「そのことを今まで…もう7年も経つのにお家の中ではお話が出なかったんですってね?」「時々子供から聞いたりとかちょっとこうわかって少しずつはね」「でも今回初めてこれを…7年も経ちますけど私が聞きたかったんですけど主人は自分が嫌だったんですよねやっぱり」でもご主人がずっとそばに付きっ切りでいてくだすったんですってね。
病院では「よろしいです」と言われたんですけど付いててくれましたんですけどね。
お帰りになってくだすってもいいですよっていうのをご主人がずっとそばにいてくださって。
さっき自分の息子さんすらね思い出せなかったって仰るの実はその息子さんを産む時がもう大変なことだったんですってね。
そうですね。
心臓が子供の頃から弱くて…。
あなたが?はい。
で子供は産めないということだったんですけど。
それは主人は承知してくれて結婚してくれたんですけれどやはり欲しいっていうことでもう大変色んな先生方に助けていただいて本当に…。
随分何人も先生に会って…。
ええ。
そして本当は帝王切開という話もあったんですけど普通分娩で産ませていただきました。
頑張りました。
すごい頑張ったんですね。
あっこんなに元気な赤ちゃん生まれた。
でもやっぱり色んな方の先生に相談したらばそういうふうに心臓が悪くても産めるっていうふうなね…。
そうですね。
そこのところがすごいですよね。
やっぱり大丈夫って仰ってくださる方がいらっしゃったっていうことがね。
そうですね。
それでもうやはりいいことは…腹式呼吸がいいということでずっと何十年も勉強してます。
そうか。
それがありますよね。
じゃあこれからちょっと歌っていただきたいんですけどよろしいですか?はい。
じゃあちょっとコマーシャル挟んで歌っていただきます。
どうぞ皆さん懐かしいとお思いでしょう。
それでは大津美子さんに歌っていただくんですけど60周年これは記念のバージョンということでちょっと前のとはまた違うオーケストレーションになってるけども心を込めて歌いますと仰ってくださっています。
残念なんですけどご主人が2年前にお亡くなりになりました。
もし生きていらしたらこんなに元気になって今でも歌ってらっしゃるのをどんなに楽しみにしてらっしゃるかと思いますけど。
とても残念なんですけども2年前にお亡くなりになりましてどこかできっと聴いててくださると思いますけれども。
それでは大津美子さんに歌っていただきましょう。
『ここに幸あり』です。
どうぞ。
(拍手)ありがとうございます。
ありがとうございました。
どうもありがとうございました。
お元気にね歌っていただけて。
なんか目の前にいらっしゃるから胸いっぱいになって…。
でもあれですよね昔から聴いていらっしゃる方は今もこの方まだ歌えるっていうそういうのがとってもうれしく思うと思います。
ありがとうございます。
歌い続けてほしいと思います。
なんか本当に素敵な作品に恵まれて幸せでございます。
そうですよね。
でも残念なのはご主人が亡くなる時あなたご主人がそんなに悪くなってると思ってらっしゃらなかったんですって?あんまりは。
そうですね全く…。
周りは息子夫婦も危ないことはわかっていながら私だけには言わないでほしいということで…。
そう…。
全く…。
まあでも亡くなるちょっと前くらいには雰囲気的にはちょっと伝わってはきましたけどまさか亡くなるとは思っていませんでした。
そうですってね。
それで旦那様本当にあなたのことを考えてご自分の会社を辞めてあなたの歌のことをやれる会社に移ってくださったんですってね。
これもね本当に…申し訳なかったなって気持ちもありますけど…。
ご主人はとても厳しくてあなたが歌う時に…。
厳しい…。
「大きな口開けて歌うんじゃない」とかひどいことを…。
もう厳しくって「もうちょっとね…年齢もきてるんだから口をあまり大きく開くな」とか。
「口をもっと小さくしてそしてもっと哀愁を出して歌ってほしい」とか。
もうすごく厳しく…もう厳しい人でしたね。
もうテレビを見てもラジオを聴いても毎回注意されました。
そう…。
それがよかったのかもしれませんけど。
でもそうだと思いますよ。
そういうことはできなくてもそういうふうにしようとお思いになるじゃないですか。
はいそうですね。
もしそういう人が一人でもいるならね。
でもケンカしましたよ。
「私プロですよ。
なんで私にそんなこと言うの?」ってケンカもしましたけど。
やっぱりいいこと言ってくれてるんだなって一人になって考えるとそうですねやっぱり。
それからずっとこれから長く歌い続けていく上でそういうのがとてもね大事だと思いますものね。
はい。
新しい曲お出しになったんですけどその曲歌詞ご覧になったら何だかご主人とのことみたいだったんですって?そうなんです。
それでちょっとこれは今歌えないからって言って返しましてまた書き直していただいて。
でもその新しい曲ですけど私拝見してたら3番の歌詞がとても胸を打つ感じがするので3番ちょっと聴かせていただいて…新曲です。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
随分ねそういう気持ちをわかって歌詞を書いてくださる方があるんですね。
そうですね。
でも本当に…泣けて歌えないからっていうことでお断りしてたんですけどだんだん変わってきて。
そしてその方にも言えなくなってしまって。
こんなに詰まれるように詞を書いてくだすって。
まあ担当のディレクターの方にお話をして…お話をしてくださいということで少し心を落ち着けてレコーディングができましたんですけれど。
でも本当胸がちょっとね迫ってくるような…。
ここでですね息子さん…メッセージ。
えー!いただきました。
そうなんですか?息子さんからあんまりあれですかね?そういう…。
ヒロトと仰るの?息子さん。
はい。
そうでございます。
そういう手紙とかなんかもらったことない?そうなんですか?いやいや。
えっこんなことがあったんですか?いいですか?読みますね。
「おふくろへ」「このような手紙は初めて書きますがよい機会をちょうだいしましたのでメッセージを送りたいと思います」「デビュー60周年おめでとう」ありがとうございます。
「35年前くも膜下出血で倒れた時この歳まで歌い続けられるとは思いもしませんでした」「発病当初は私も幼く直接苦しんでいる姿を見ていなかったせいかあまり大病という認識はなかったけれど手術のために剃髪した」…。
髪の毛剃ったね…。
「剃髪した姿を目にした時えも言われぬ不安と恐怖何か大変な事態に陥っていることを感じ取りました」「死ぬかもしれないという絶望がおふくろに伝わらないよう子供心に平静を装った記憶があります」「2度の手術が成功したあともおふくろが私のことを覚えてない違う名前で呼び掛けるなど大変つらい時期も続きましたが心のどこかでママはきっと戻ってくると信じていました」「その思いのとおり見事復活し再び皆様の前で歌が歌えるようになったのは何にも代え難い喜びです」「また今年は久々に素敵な新曲をちょうだいしありがたいお話だと思っています」「ですが私は大反対でした」「60周年記念のテーマではなく夫へのメッセージの色が強かったからです」「そのような歌詞ではおふくろが歌うたびに寂しい気持ちになるのではないかという思いがありました」「2人は人一倍支え合った夫婦だったので今回のレコーディングは反対したのです」「ですが今はそれも含めておふくろの人生なんだとそんな人生を歌にし思わず泣いてしまうのも60年の節目だからこそと思っています」「またこの歌はおやじだけではなく今までお世話になった皆様に向けても歌っているのだと思うので精いっぱい心を込めて感謝の気持ちで歌ってください」「もう高齢ですが人々に歌を届けることがおふくろの天命であると思っています」「プロとして恥ずかしくないよう体調を管理しでももし声が出なくなってきてもいつまでもハートで歌っていてほしいと思います」「健康に気を付けてね」「もっと実家に帰るよう頑張ります。
ヒロト」ああ…私知らなかったです。
ありがとうございますなんか…。
なかなかお手紙なんてねお書きになるチャンスもないと思ったのでお願いして。
びっくりしました。
驚きました。
どうぞお持ちください。
いいお手紙。
でも本当にいい息子さん。
自分が本当に…徹子さんの前でお話をしようと思ったことが今日何も話せないことを息子が話してくれてます。
でもね本当にいい息子さんだっていうことがよくわかりましたね。
ああそうでしたか。
こんなことがあるとは思いませんでしたのでつい泣いてしまいました。
でもよかったです。
そういうあなたのことをよくわかってる息子さんがいらしてね。
ありがとうございます。
旦那さんいらっしゃればねもっといいのにね。
いやいやいや…。
本当にありがとうございます。
色んなことがわかっていらっしゃると思って本当に。
まああと何年も何年もきっとお歌いになると思いますけれどいつも皆さんが見守ってくださると思いますので。
私もね芸能界62年になりました。
同じ。
ほとんど同じ。
どうも。
どうも今日は本当にお招きいただいてありがとうございました。
2016/01/21(木) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 大津美子[解][字]
〜くも膜下出血で記憶を失い…『ここに幸あり』から60年変わらぬ歌声披露〜大津美子さんが今日のゲストです。
詳細情報
◇ゲスト
今年は大ヒット曲『ここに幸あり』発売から60年を迎える節目という歌手・大津美子さんがゲスト。スタジオでは60年間の思いを込めて『ここに幸あり』を熱唱♪
◇番組内容
発売当時は18歳、ただただ“美しく高らかに歌う事”を心がけてきたが、結婚・出産、そしてくも膜下出血を患い生死の境を行き来するという人生の荒波を越え、円熟味を増して歌い続けている大津さん。病気の後遺症で一時は記憶を失い、愛する息子も分からなくなってしまった…。そんな大津さんの闘病を支え歌手活動にも尽力してくれた夫が一昨年に急逝。なかなか立ち直れなかったが、息子に支えられ新たな一歩を踏み出せたと語る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/
◇解説放送
小松靖(テレビ朝日アナウンサー)
ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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