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秀吉の手紙 天下統一の過程たどる貴重な史料1月21日 19時09分
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兵庫県たつの市が所蔵する豊臣秀吉の手紙33通を東京大学が修復した結果、秀吉が天下統一を目指すなかで、徳川家康と戦った際の詳しい戦略などが記されていたことが分かりました。専門家は秀吉の天下統一の過程をたどるうえで貴重な史料だとしています。
この手紙は、豊臣秀吉の家臣だった戦国武将の脇坂安治に宛てたもので、たつの市の神社に伝えられましたが、その後、別の場所に持ち出された際に火事で損傷したため、東京大学史料編纂所が、たつの市の依頼を受けて手紙の修復や調査に当たりました。
その結果、手紙は織田信長の死後の1584年から1593年ごろに書かれ、多くは秀吉が天下統一に乗り出す戦いの際に側近の脇坂に指示する内容だったことが分かりました。
このうち、1通は、秀吉が織田信長の子どもの信雄と徳川家康の連合軍と争う小牧長久手の戦いが行われた1584年に書いたものです。
この中で局地的な戦いで敗れて不利な状況に陥ったものの、その後、尾張の国の3つの城を攻め落としたことなどが記され、信雄と家康から人質を差し出して和睦を求める申し出があったことを、今の京都府内にいた脇坂に説明しています。そのうえで、和睦の意志はないとして、信雄側の領土になっていた伊賀の国を攻める準備を進めるよう指示していました。家康とにらみ合うなかで危機的な状況を抜け出しつつあった秀吉の詳しい戦略をたどることができます。
また、脇坂安治が、「文禄・慶長の役」で水軍を率いて朝鮮に攻め入った際の手紙には中国の明まで支配下におくという意思が記され、秀吉の野望が吐露されています。
これらの手紙は今回初めて分析されたということで、文書の復元に当たった戦国時代に詳しい東京大学の村井祐樹助教は「秀吉の天下統一の初期段階の史料は少なく、極めて貴重だ。部下に対して何度も指示を出し、秀吉がかなり細かい人間だったこともうかがえる」と話しています。
その結果、手紙は織田信長の死後の1584年から1593年ごろに書かれ、多くは秀吉が天下統一に乗り出す戦いの際に側近の脇坂に指示する内容だったことが分かりました。
このうち、1通は、秀吉が織田信長の子どもの信雄と徳川家康の連合軍と争う小牧長久手の戦いが行われた1584年に書いたものです。
この中で局地的な戦いで敗れて不利な状況に陥ったものの、その後、尾張の国の3つの城を攻め落としたことなどが記され、信雄と家康から人質を差し出して和睦を求める申し出があったことを、今の京都府内にいた脇坂に説明しています。そのうえで、和睦の意志はないとして、信雄側の領土になっていた伊賀の国を攻める準備を進めるよう指示していました。家康とにらみ合うなかで危機的な状況を抜け出しつつあった秀吉の詳しい戦略をたどることができます。
また、脇坂安治が、「文禄・慶長の役」で水軍を率いて朝鮮に攻め入った際の手紙には中国の明まで支配下におくという意思が記され、秀吉の野望が吐露されています。
これらの手紙は今回初めて分析されたということで、文書の復元に当たった戦国時代に詳しい東京大学の村井祐樹助教は「秀吉の天下統一の初期段階の史料は少なく、極めて貴重だ。部下に対して何度も指示を出し、秀吉がかなり細かい人間だったこともうかがえる」と話しています。