2016年01月19日 (火)
視点・論点 「ロボット法学と四つのNEW」
弁護士 小林正啓
ロボットが実用化されつつあります。
掃除機型ロボットはすでに市販されています。自動車の形をしたロボットについて、政府は、2020年までの実用化を目標にしています。
人間そっくりのロボットが一般に普及する日も遠くありません。
ロボットが普及したとき、人間とロボットの関係はどうなるのでしょうか。私は、今の時代に「ロボット法学」という学問が必要と考えています。
今日は、その理由を、「四つのNEW」というキーワードで説明したいと思います。
第一は、「NEW MACHINE」、新しい機械です。
機械文明が始まって200年、機械は、飛躍的な進化を遂げました。しかし、機械はあくまで人間の道具でした。機械が事故を起こし、人を傷つけることもありましたが、その責任は機械を使った人間や、作った人間が負いました。「通行人を轢いたのはこの自動車です。私ではありません。」と弁解したところで、相手にされませんでした。
しかし今日、人工知能を備えたロボットは、自分で判断し、動作する「自律性」を備えつつあります。たとえば、将棋を指す最先端のロボットは、過去の対戦記録を自分で勉強し、次の一手を自分で考えて、時にプロ棋士をもうち破ります。ロボットの制作者はこう言うでしょう。「勝ったのはこのロボットです。私ではありません」と。
同じことが、将棋以外の世界でも現実になりつつあります。「通行人を轢いたのは、この自動車です。私ではありません。」という弁解にも、耳を傾ける必要が出てきます。
想像してみてください。90歳の老人を乗せた自動車が自動走行中、前のトラックが突然止まったとします。ブレーキをかけても衝突を避けられません。助かる方法はハンドルを切ることだけですが、その先には、下校途中の小学生の列があります。このような場面で、自動車の人工知能は、どうするべきでしょうか?
まるでサンデルの白熱教室のような問題ですが、私が申し上げたいのは、この問題の答えは何か、ではありません。いろいろな意見があって良いと思います。
私がここで申し上げたいことは、二つあります。一つ目は、どのような答えにせよ、それは人間が決めるべきであり、機械に決めさせてはならない、ということです。自動運転自動車は、判断の優先順位を、あらかじめ、人間から教わらなければなりません。
二つ目は、その優先順位は、自動車や自動車メーカーによってまちまちであってはならない、ということです。なぜなら、自動車が、同じ場面で別の動きをすることは、責任の所在を曖昧にするからです。したがって、その優先順位は、世界共通でなければなりません。これは条約となり、国内法に反映されることになります。したがって、これをサポートする法律学が必要になります。
第二は、「NEW RELATIONSHIP」です。人間と機械との新しい関係です。かつて蒸気機関は産業革命を、コンピューターは情報革命を起こしました。ロボットは感情の世界に革命を起こすと、私は考えています。人間型ロボットが普及すれば程なく、ロボットと恋に落ちる人間が現れるでしょう。
介護の世界では、すでに、老人の話し相手をするロボットが実用化されています。ロボットには、人間と感情的な交流を行う役割が期待されています。
ロボットが人間と感情の交流を行うためには、様々なプライバシー情報を得る必要があります。私が友人と親しく話ができるのは、顔と名前が一致するからであり、職業や家族関係を承知しているからであり、過去の記憶を共有しているからです。しかし、ロボットが同じことをするには、法律的な障害があります。
2013年秋、ある研究機関がJR大阪駅に92台のカメラを設置して顔認証の実証実験を行おうとしたところ、マスコミや市民団体などの反発を浴びました。原因の一つは、情報技術とプライバシー権との関係を決めるルールが、わが国では非常に曖昧なことにあります。われわれ法律家は、人間とロボットがプライバシー情報をやりとりするための適切なルールを考えなければなりません。顔認証技術はおよそ禁止するべきだという意見あります。しかしそれでは、鉄腕アトムもドラえもんも生まれません。
また、職場では、人工知能が、電磁カードで社員の行動を逐一記録したり、ゴーグル型ディスプレイを通じて作業の段取りを指示したりするなど、人工知能が中間管理職のような立場で従業員を管理するようになりつつあります。新しい職場には、新しい労働法の考え方が必要になるかもしれません。
第三は、「NEW LAW」、新しい法律です。ロボットの登場は、新しい法律や、新しい法解釈を必要としています。
新しい法律の例として、たとえば、現行法上、自分のロボットを壊して捨てても、何の罪にも問われません。しかし、人間型ロボットが普及すれば、たとえ自分の所有するロボットであっても、みだりに破壊したり、捨てたりすることが規制されるでしょう。なぜなら、人間型ロボットがバラバラにされて粗大ゴミとして捨てられたり、野良猫ならぬ、野良ロボットが街をうろついたりすることは、社会に対する悪影響が強いからです。この法律は、もしかしたら「ロボット愛護法」と呼ばれるかもしれません。
新しい法解釈の例として、人の運転する自動車同士の交通事故は、追突など片方が全面的に悪い事故でない限り、両方の運転手に過失があるとされます。これを過失相殺と言いますが、自動運転自動車同士の事故にも、過失相殺の考え方が適用されるでしょう。そのとき法律家は、人工知能の「過失」とは何か、機械がうっかり間違えたとはどういうことか、という法解釈論と向き合うことになります。
最後は、「NEW GENERATION」、すなわち、新しい世代です。
ロボット法学は、新しい世代を育てるための学問であるべきだと考えます。
たとえばドローンは、空の産業革命ともてはやされましたが、首相官邸の事件や、行き過ぎた少年のふるまいによって、航空法が改正され、規制されることになりました。安全は確保されたかもしれませんが、多くの子どもたちにとって、ドローンで遊ぶことは、とても難しいものになってしまいました。
もしドローンを空の産業革命と期待するなら、政府が行うべきことは、ドローンを操縦する優れた才能をもつ子どもを見いだすことにあります。なぜなら、その才能は、わずか十年後には、革新的な技術を生み出すからです。しかし、改正航空法は、日本の子どもが空の産業革命を起こす芽を、根こそぎ摘んでしまったといって過言ではありません。
ロボット法学は、安全などの社会的価値と、ロボットやロボット産業の発展との、バランスのとれた調和を目指すため必要だと思います。
新しい機械と人間との、新しい関係を、新しい法律によって調整し、子どもたちに未来を拓くことこそ、ロボット法学が掲げるべき使命だと考えます。