2015年7月26日日曜日

8月6日午後6時、会津若松市内にて会津学研究会例会(『会津物語』発刊について)

■ 7月18日から、南会津町糸沢 奥会津博物館で、『企画展・奥会津の縄文時代 ~ ブナ林に育まれた文化』が開催されています。
■ 当方は8月1日、2日と新潟県十日町市へ。1日の午後の民族文化映像研究所制作の映画会(3本上映)に参加しますが、当日以下の行事も行われます。
■ 8月6日(木)午後6時、会津若松市内にて会津学研究会の会合が行われます。

 8月7日に赤坂憲雄監修『会津物語』(朝日新聞出版、1728円)が発刊され、その件について。

 事務局の遠藤由美子さんが進行します。朝日新聞福島県版の木曜日に3年ほど108回連載したものです。

・『会津物語』出版報告
・『会津物語』出版記念会について
・『本の森』プロジェクトについて
 7月26日の「春よこい」(奥会津書房文化事業2)上映会も三島町名入 山びこで開催されます。
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■赤坂憲雄さん 東京都小平市にて講演会
  遠野物語から会津物語へ
  9月13日(日) 午後1時30分~3時30分 (開場 午後1時)
  東京都小平市中央図書館 3階 視聴覚室   (定員 80名)
  入場無料
  申込不要 (但し満席の際は入場をお断りすることがあります)
  主催 小平図書館友の会
  後援 小平市教育委員会
 朝日新聞福島版に連載された聞き書き『会津物語』を中心に
 東北とのかかわり、東北への想いを語っていただきます。
 『会津物語』とは、会津のいまに生きる人々が体験した、
 あるいは家族から聞かされて育った事実譚を集めたものです。
 キツネに化かされたり、地蔵が子どもを助けてくれたり、といった
 不思議なお話の群れ。どこか遠野物語の世界のように、妖しく、
 懐かしい物語ばかりです。
 『遠野物語』から『会津物語』へと、見えない繋がりを求めて重ねてきた
 協同作業の結晶です。
 (赤坂憲雄+会津学研究会著として朝日新聞出版から出版の予定)
 → 主催者ウェブサイト


 
■8月5日、奥会津書房に1冊届きました。帯の推薦文は高畑勲監督です。
  




2015年7月7日火曜日

2015年7月9日、都内にて赤坂憲雄さんと竹島善一さんの対談

対談「足元を深く掘ること。そこから未来の萌芽を見出すこと。」
開催日:2015年7月9日(木) 19:00~20:30
登壇者:赤坂憲雄氏、竹島善一氏
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対談「足元を深く掘ること。そこから未来の萌芽を見出すこと。」

よりよい未来の日本の暮らしの為に、私たちはいま、何を考えどう行動すればよいのか。日本人の来し方行く末について語ります。
開催日:
2015年7月9日(木)
時間:
19:00~20:30(受付18:30~)
登壇者:
赤坂憲雄氏、竹島善一氏
会場:
無印良品 有楽町 ATELIER MUJI
定員:
60名(参加無料)
申込:
要申込
詳細はこちら

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イベント「竹島さんと、おはなししよう。」
開催日:2015年7月12日(日) 13:30~14:30
講演者:竹島善一氏
   
 


2015年4月22日水曜日

2015年5月10日(日)午後2時より、三島町宮下・奥会津書房にて会津学研究会例会

2015年5月10日(日)午後2時より、三島町宮下・奥会津書房にて会津学研究会例会。雑誌『会津学 7号』を持参のうえ、おいで下さい。第7号の読書会となります。

  4月30日に川口高校で行った郷土体感プログラムの講座内容も資料にて説明します。






2015年3月27日金曜日

最終巻の発刊。『会津学 七号』 2015年3月20日

■『会津学 7号』が発刊されました。福島県三島町の奥会津書房刊。
 


■ 『会津学 vol.7』 256ページ、2015年3月15日発行、会津学研究会:奥会津書房編(福島県大沼郡三島町宮下中乙田979)


佐久間庄司 「時の狭間 会津若松市」巻頭グラビア

竹島善一×佐々木長生 「写真を読む 昭和50年代の奥会津」

災害の記憶「新潟福島豪雨災害」(2011年7月末)
鈴木克彦 「只見町の記録」
川口高校3年生「金山町の記録」

小林昭二 「紙芝居で伝える文政4年(1821)の大地震」(金山町沼沢湖を震源、2011年制作・2014年夏川口高校)

渡部サクヨ(渡部和編)「野菜帖 平成24年 85歳~86歳当時」
渡辺紀子「会津物語から見えたもの」(朝日新聞福島県版連載)
田沼隆之「金山町大字山入字山中集落の終焉に立ち会って」
舟木由貴子「昭和村の花嫁行列」

河原田宗興・菅家博昭 「対談:からむしと麻」

佐々木長生 「金山町鮭立の民俗 奥会津の山人・岩渕太門氏(大正4年生)聞書」
長瀬谷百合子 「桶作り 喜多方市 菊地貞吉さん(大正15年生)」
遠藤由美子 「問わず語りメモ 金山町八町 押部明郎さん談(大正13年生)」

菅家博昭 (講演記録、渡辺和テープ起こし)「都市はムラに、村は歴史に学ぶ時代」(2014年8月25日、奥会津大学 柳津ふれあい館)

柳内壽彦 「奥会津の中世」(2014年12月10日 奥会津大学 柳津ふれあい館)

菅家博昭 「地域の調べ方」

菅 敬浩 「上達しない聞き書き」

菅家博昭 「備忘録:草が支えた社会」

遠藤由美子 「終刊によせて」



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■ ■  「会津の文化を問い直す」

会津はすでにして、静かに偉大である。
徳一を見よ。
古代に、この東北の地に仏教を花開かせた徳一は、なぜ会津を選んだのか。
司馬遼太郎に耳を傾けよ。
近世の会津は、数本の指に数えられる文化と教育の藩であった、そう、くりかえし語られたのではなかったか。
会津農書、藤樹学、自由民権運動、美術倶楽部を、この喜多方は生んだのではなかったか。 だから、いまこそ、静かに、会津の文化力を取り戻さねばならない。(赤坂憲雄)

パネリスト:赤坂憲雄氏(福島県立博物館館長)
       五阿弥宏安氏(福島民友新聞社社長)
       五十嵐源市氏(磐梯町町長)
       菅家博昭氏 (会津学研究会代表)
日   時:4月24日(金)18:00~
場   所:大和川酒造北方風土館(喜多方市)
参 加 費:無料
懇親会費:3000円



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■ 4月5日午後、只見町にてシンポジウム 「太陽の女性」たちが語り合う
 只見町から日本と地球を見据えたエネルギー未来 (事前申込が必要) → 会津電力等主催


 星野恵美子 (水土里ネット那須野ヶ原 参事)
 河口真理子 (一般社団法人 社会的責任フォーラム 代表理事)
 石橋あすか (只見町町議会議員)
 井上保子  (非営利株式会社 宝塚すみれ発電 代表取締役)
 遠藤由美子 (会津電力株式会社 監査役)
 佐藤彌右衛門(会津電力株式会社 代表取締役)
 進行役:飯田哲也(認定NPO法人環境エネルギー政策研究所 所長) 

2015年3月9日月曜日

会津学 7号(終刊) 2015年3月末頃発刊へ

■2015年3月9日(月)


 2月に『会津学 7号』のゲラ校正、印刷にまわりました。

 
 10年間の活動で7冊の出版でした。


 3月1日には会津若松市の福島県立博物館の佐々木長生さんの講演会に、会津学研究会のメンバーも集まりました。
 
 奥会津書房の遠藤由美子編集長はじめ、佐々木さん・赤坂憲雄館長と、懇談しました。
 
 
 朝日新聞福島県版に連載した『会津物語』も出版されます。

 
 
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■2014年11月より三島町浅岐地区の集落誌調査(町教委町史編さん委員会)がはじまり、菅家博昭が現地調査を続けています。
 
 2015年3月2日より間方地区での調査もはじまり、鈴木克彦さんの調査もはじまりました。

 その後、大谷地区の調査もはじまります。

 当初の2カ年(本年の秋)で大谷川流域の集落誌の基本調査・概要執筆を終えます。

 近世資料編については角田伊一さんが精力的な翻刻作業をされています。

 
 事務局は教委・川合正裕さんです。

2014年6月10日火曜日

古文書教室(三島町在住 海老名俊雄先生) 6月21日、7月19日、8月23日、9月20日。土曜10時より。三島町名入 山びこ

交流センター「山びこ」において全4回の古文書教室が開催されます。
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途中からの参加も可能です。参加は無料(申込)です。
本教室では、江戸時代に書かれた文化三年(1806)『大谷組地志書上帳』、元禄八年(1695)『陸奥国大沼郡大谷組桑原村五人組帳』などを、会津史学会顧問・海老名俊雄氏のわかりやすい解説と共に、少しずつ読み進めていきます。
(※大谷組・・・大谷、浅岐、間方、桑原、宮下、川井、大登、小野川原の各村が含まれます)

第一回 平成26年6月21日(土) 10:00~12:00
第二回 平成26年7月19日(土) 10:00~12:00
第三回 平成26年8月23日(土) 10:00~12:00
第四回 平成26年9月20日(土) 10:00~12:00

◇講師 海老名俊雄(会津史学会顧問)
略歴 1931年、神奈川県川崎市に生まれる。1945年4月川崎大空襲で罹災、会津(現大沼郡三島町)に移住。1949年11月~89年3月まで公立中学校の教員を務める。会津史学会顧問。研究論考を同会編『歴史春秋』に数多く発表。著書に『会津御蔵入騒動と寛延一揆』、共著に『柳津町誌』、『発電所のレッドパージ』、『会津諸街道と奥州道中』、『阿賀川氏』など。現在、会津坂下町、金山町、三島町などで古文書教室の講師として活躍中。
◇参加無料
◇場所 三島町交流センター「山びこ」
◇お問い合わせ:三島町交流センター「山びこ」
〒969-7402 福島県大沼郡三島町大字名入字諏訪ノ上418
TEL 0241-52-2165  FAX 0241-52-2166
【休館日】毎週月曜日、祝日の翌日(月曜が祝日の場合、火・水曜日)
主催 三島町教育委員会 三島町歴史文化基本構想推進委員会

5月11日例会開かれました。

■会津学研究会の例会がありました。5月11日(日)午後1時30分から4時30分まで、三島町名入 交流センター 山びこ。桑原と宮下村の山論(アサ、漆、コウゾ栽培と焼畑)、没後200年となる漆改役川島重英(与五右衛門、会津美里町東尾岐)について。雑誌会津学の最終号の発刊、編集について。6名参加。

山口弥一郎博士が採録した言葉のちから


■明治35年会津生まれの山口弥一郎博士が1955年に東京都文京区指ヶ谷町の富貴書房から出版された『東北民俗誌 会津編』。序にかえてで、「命をけずった採集記録もあり、郷土の未だ文字に表れない基礎資料を、再検討の意味で若干考察したもののあるので、あえて郷土のために捧げてみようと思う、、、、


 現在の大沼郡金山町である「本名村三条民俗誌」のなかに次のような焼畑(カノ)調査での言葉があります。()は私の補注。

  夏、青草を刈ってねせて(熟成させて)、ネセゴエをつくる場合もあり、また時にねせないでカッツキといって、青草を刈ったまま(畑に)入れる場合もあるが、このアオカッツキを入れるとクサが出来過ぎて、穂に力が入らないので、出来るだけネセゴイにした方がよい。 (36ページ)

  カノ(焼畑)には、夏カノと秋カノとあるが、夏カノは土用に刈って、数日して火を入れるもので、ソバを蒔くからソバカノという。
 これに対して秋カノは秋刈っておいて冬を通し、翌春五月頃焼くもので、粟(アワ)を主に作るのでアワカノと呼んでいる。多くは夏カノである。(37ページ)

 カノ(焼畑)の一特色は、火を入れるから虫がつかぬことにあるが、三年ギリ等といって三年も連作すると四年目には肥料が不足し、虫もつき出す。それで前年ジュウネン等をつくり、その刈った後に草を入れて、時には再び火を入れて焼き、ウナイこむことがある。この草を刈り込むことをヨセガリ、焼くことをヨセヤキと呼んでいる。(39ページ)


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ブナの新緑と、からむし畑(青苧畑)。昭和村大岐・高畠。

畑に聴く、カラムシに聴く 五十嵐英盛さん(昭和3年生)


■2014年5月9日(金)小雨。午後3時から80分ほど、篤農家翁に教示をいただきました。
 昭和村大芦の五十嵐英盛(えいせい)さん(昭和3年生まれ)。昨年、先祖の初代大芦村長 五十嵐伊之重(いのじゅう)のことを、いろいろとうかがいました。今年は、カラムシ(青苧)栽培のことなどを聞いています。

   →英盛さん
 佐倉のからむし工芸博物館の吉田有子さんに、畑仕事に忙しい英盛さんとの話をうかがう日時調整をお願いして、吉田さんとともに英盛さんの自宅でお話をうかがいました。
 今年は、雨が降らない、、、、という話からはじまって、5月下旬の「カラムシ焼き」の後の、圃場(畑)への水やりが大切であろう、という話になりました。それは、このような雨水が降らないなかでカラムシの根は水が欲しくて困っている。焼いたその日に、どれだけ畑に水をやれるか?にかかっている。しかし日陰地であれば水をやりすぎれば根腐れする。
 これまでも、このような「春はしゃぎ(乾燥)」の年に、あと1回水を運んでかければよいが、と思っても、疲れてその1回をおろぬいて、うまく発芽が揃わなかったことがある。
 春の雪消えから、天候を見て、畑を見て、今後のことを考えている。
 「その畑に聴(き)いて、ものごと(仕事、作業)をやる」
 「ヒト(他人)に仕事を合わせていたのではだめだ」
 夏になって、隣の人が、カラムシ挽(ひ)き始めたからって、我が家もやっぺとすっからだめ。「ヒト(他人)定規(じょうぎ)」にすっから、うまくいかない。
 「カラムシに、よく聴いて、挽かねえでは だめだ」
 「昔は、村中(むらじゅう、大芦地区)、畑は、ヲとカラムシだけだった
■1973年に発刊された『昭和村の歴史』(福島県昭和村)、98ページには、「漆木(うるしぎ)のない組」という室井康弘先生(田島町史編さん室長)による昭和村の近世文書の紹介があります。
 文政元年(1818)寅九月(あるいは文化3年、1806)に書かれたと思われる文書に、去る未(ひつじ)年のこととして、文化8年(1811)に、「尾岐の漆役人川島与五右衛門が出張され喰丸村にお泊まりになったとき、各村々の三役人が呼ばれて、(漆の)苗木を植え付けぬとは不届き千万とおしかりを受けた(略)。
 このたびもまた催促を受けたが、野尻組(現在の昭和村)は畑の不足なところで、その畑は麻(を)や青苧(からむし)がいっぱいで、これをもって年貢を納めているところがらだから、なにとぞ、漆(うるし)の植え付けによる小前の労費をご容赦願いたい、、、、

 200年前に書かれた文書にある昭和村の畑の様子は、最近まで(昭和30年代まで)、村人の意識にある景観となっています。

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英盛さんが昨年秋に挽いた繊維
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自ら畑で育てた繊維を綯(な)い、作った「ほそびき」
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シタナミ(皮付きで乾燥したもの)を2本交互に編み、端を葦で止めた「すだれ」
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チューリプの絵も描かれた。
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雪を筋に掘って、ビニル被覆して促成栽培した茎立菜(くきたち・な)

2014年3月25日火曜日

1670年から1685年、からむし栽培を奥会津に広めた郡奉行・飯田兵左衛門

■まず、事典類で調べます。
①野口信一『会津人物文献目録』(会津若松市門田町中野 歴史春秋社、昭和55年、8200円)で、氏名を調べる。
 会津藩士の飯田氏には数家あり、該当の飯田氏は、『諸士系譜14 』(会津藩・天保4年・1833年)飯田大次郎系譜:重久、重成、茂光、重明、重羽、重陽、重連、布旧、重要
 飯田久兵衛重長-久佐衛門重久-兵左衛門重成-兵左衛門茂光-兵左衛門重陽-兵左衛門重連-九十郎布旧-大次郎重要
 ★ 飯田兵左衛門重成 貞享3・3・22没(64歳) 藩士 南山奉行。父は久左衛門
 で、引用の掲載文献があり、その文献をすべて見ます。必要なページは、申請してコピー(一枚10円)をとります。
 また貸し出し可能な本は借りてきて読みます。
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②『福島県史22巻 人物』(1972年、福島県)52ページ
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③菊池重匡編 『続 会津資料叢書(上巻)』(歴史図書社、1974年)
④『会津藩 家世実紀 第4巻』(歴史春秋社刊、1978年)281~282ページ 貞享三年三月二十二日、御蔵入郡奉行 飯田兵左衛門病死、
 原本は巻之六十八 徳翁様之十二
⑤山口孝平『近世会津史の研究(下)』(歴史春秋社、1978)、
 代官所のあった田島町(南会津町)『但馬町史』、『下郷町史』等、借りてきて詳細を読みます。
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『田島町史』
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■庄司吉之助編『会津風土記・風俗帳 巻二 貞享風俗帳』(歴史春秋社、1979年)  貞享二年(1685)
 会津郡郷村之品々書上ヶ申帳 伊南古町組(貞享二年)211ページ
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 飯田兵左衛門様御蔵入御仕(支)配以来、郷村御巡見之度々、又ハ郷頭肝煎罷出(まかりいで)候度々ニ 地下身持家業之筋 委細ニ御教ヘ被遊候ニ付、段々家業無油断風俗直り申候、郷村御巡見始候比(頃)より村々ニ而(にて)、からむしを植、漆之苗木を調植候へと被仰付、或ハ桑を沢山ニ植立蚕養を能仕絹紬を致習候ヘと被仰聞、、
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 地下風俗覚書 会津郡楢原郷(貞享二年)252ページ
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 栗林(略)、延宝二年(1674)寅年 飯田兵左衛門様被仰付候ニ付、村々ニて立林候
 からむし作候様ニ右同人様(飯田兵左衛門)より被仰付候付、たね(※根)もとめ次第段々植申候得ハ、ゑき(益)に罷成候(まかりなりそうろう)。
 くわの木 右同断
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■寛文七年(1667)から貞享三年(1686)まで二十年(一説に十七年)、現在の福島県南会津郡・大沼郡・河沼郡を含む幕府直轄領の南山御蔵入を会津藩の郡奉行、飯田兵左衛門が治めています。
 貞享二年(1685)の『地下風俗覚書 会津郡楢原郷』の資料を見ると、延宝二年(1674)、現在の昭和村の東隣の下郷町(楢原組)に飯田兵左衛門は栗、桑、からむし(青苧)の栽培を奨励しています。
 また同じ貞享二年の『会津郡郷村之品々書上ヶ申帳 伊南古町組』では、その飯田兵左衛門がどのように、漆の苗木や、からむしなど植えるように、諸産物を推奨していたのかがわかります。麻の大産地である伊南古町にも、巡見をはじめたころ(1670年頃から?)より、からむしを植えるよう巡見の度々に教示していたわけです。
昨年11月2日に昭和村公民館で行われたシンポジウムで取り上げた資料「延宝二年(1674年)青苧造様之覚」が、まさにこの背景のなかで用いられたのではないか?と思うのです。
 また、飯田氏は藩主保科正之とともに先任地は高遠から最上と、諸産業とともに、からむし(青苧)の栽培地でもあることも推奨した根本にあると思われます。
 からむしを原料とした上布から、縮が開発された寛文・延宝年間の時期、産地の越後小千谷等も会津藩預かりとなること等、時代背景にあると思われます。
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2013年10月17日 (木)再掲

谷屋又右衛門とは誰か?延宝二年(1674年)青苧造様之覚
■江戸時代がはじまったころ、延宝二年(1674)寅年の八月七日、泉田(和泉田、旧南郷村・現南会津町)村の久太郎と簗取村(只見町)の助太郎が、青苧(からむし)の栽培の仕方について指南を受けた。
 教示したのは、河原田谷屋又右衛門。
 河原田は村名か?氏かわからない。
 それを筆写した、という文書である。
 南郷村界の故斎藤兵平氏宅にあった古文書である。現在は福島市の福島県歴史資料館蔵。
 本件を最初に取り上げたのは同館の村川友彦氏。一九八一年に刊行された『福島県歴史資料館研究紀要 第三号』に、「会津地方の近世における麻と苧麻生産 伊南・伊北麻を中心に」で、である。一部翻刻に誤りがあるが、重要な資料紹介であった。
 一九八五年に刊行された『南郷村史 第二巻』の六六五ページに畑作九として掲載される。谷屋又右衛門、としている。
 次いで、『田島町史 第六巻』(1987年)171ページ、文書番号32、が取り上げている。
 三番目に『只見町史 第四巻』(1999年)675ページ、文書番号264は、年号を延享二年(1745年)としているが誤りである。歴史資料館の原資料を10月14日に閲覧したが「延宝」であった。
 そして『伊南村史 第三巻』(2003年)610ページ、文書番号316。
 以上四つの資料紹介があり、翻刻されている。が、そのくずし字の解釈には、少しずつ異なりがある。ただ大枠の内容は合致している。
 この文書に、「本畑に(苧麻を)植え申し所は、毎年、麻を作り申よく御座候」(書き下し意訳)と書かれている。

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■1685年(貞享2年)風俗帳書出等より以下


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大内村(現下郷町)での作物禁忌「鎮守のお嫌い」

桜山村・中倉村(現下郷町):麻がよくできるのだが、水が不便(あるいは水質が悪い)なため、畑より引き抜き乾燥しただけの麻束(からを(苧))で売っている。


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貞享2年 耶麻郡 鎮守のたたりにて忌み物の事

会津高田↓
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尾岐組(谷ヶ地等)から柄麻(からを、畑より引き抜き乾燥させただけの麻束)を買い出し、雪の降る前の秋中に、水浸けし熟ませ外皮を採り(おひき)し 「を(苧、この場合はアサ)」にして「原麻」を売る。

 それを買い求め冬に、「を(麻)」を裂き、糸にし布に織る。
 からを(柄麻・柄苧、いずれもアサを分離しない商品)は、外皮の繊維を利用し、中芯の麻殻(アサガラ)が利用できる。いわゆる「おがら」で、焚き付けや、盆など宗教行事でも使用される。「を」とは麻類の総称で、からむしも含まれる場合があります。麻殻は集めて保管しておいて屋根材の化粧にも使われました。また1月のサイノカミ材料で、よく燃えました。糸を績み、糸車で紡ぐときの、撚りかけ糸を回転する針状の金具に10cmほどに切ったアサガラを刺し、これに糸を巻き取ることにも使います。 

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■2014年3月24日(月) 晴れ

史料と史実
 昨秋より発刊がはじまった岩波講座『日本の歴史』、毎回、8ページの『月報』が刊本に封入されてきます。
 先日到着した3月、第5回配本の『月報5』には、東野治之奈良大学教授の「史料と史実」が掲載されています。
 史料から史実を読み取る営みは、歴史を叙述する基礎であり、客観性が要求されます。しかし歴史に発展法則を求めることができなくなり、趣味娯楽化さえしている今日、実証的な史料批判の方法は、さらに磨かれなければならない、としています。
 そして、実例を示した後に次のようにまとめています。
「残らなかったものや、消されたものに思いを馳せつつ、残ったものを考えてゆくという、当たり前のことを地道に重ねていくことが、歴史を現代に生かすために求められているように思う」
■仙台市博物館市史編さん室長 菅野正道「片倉景綱の事跡」(『白石市文化財調査報告書第47集 片倉小十郎景綱関係文書』2013年)で、ある文書について、  

 この文書の文言は天正年間から永禄頃にしばしば見られるようなもので、後世に作成された偽文書と断じることも、若干のためらい、を感じる。この文書の真偽は今後の検討課題としておきたい。


■東北大学大学院の柳原敏昭教授は「中世日本国周縁部の歴史認識と正統観念」(『講座 東北の歴史 第3巻 境界と自他の認識』清文堂、2013年)のなかで、

 「近年の研究には、(史料としての歴史叙述・由緒書・縁起・系図・家譜など)虚構や創作の部分を切り捨てるのではなく、史料全体を言説として捉え、フィクションの意味をも考えることで、作成主体の認識を浮かび上がらせ、そこに時代的あるいは地域的特性を見出そうという指向性が顕著である」としています。


■昨日午後、奥会津・西方の西隆寺で行われた会津学研究会例会では、4月末頃の締め切りとし、第7号の最終号の発刊を今年初秋に、ということに決まりました。
 また、朝日新聞福島県版に金曜連載している「会津物語」の素材たる聞き書きの進め方など、様々な話題のなかで、確定的な史料のない時代を地域史ではどのように扱うべきか、、、、ということも話題になりました。

 地域に残された文書資料、特に近世に書かれた中世の事跡などについての書物の記事の扱い方など、、、、、一考が必要です。

■会津若松市の市史編さんを担当された山口孝平氏は、『昭和村の歴史』(1973)の36ページで、

 会津の中世というと『会津四家(蘆名、山ノ内、河原田、長沼)合全』なる書が会津地方に流布していて、よくこれを史料として採り挙げられることが多い。この書の奥書に、寛永四年に四家の遺臣が著したように書いてあるが、これはまっかな偽りでそんな人物はいない。
 この書は江戸時代の中期頃、民間で系図づくりの流行したとき、地方を廻って歩いた系図書きといわれたものがつくった偽書であって、なんら中世の資料的価値のないひどいものである(36ページ)。
 この『~合全』は、会津藩士 向井新兵衛吉重が編纂した『会津四家合考』とは別な書です。