そのつど「対抗軸」を探し求めるのか?
日曜日のエントリ「労働組合は成長を拒否できるのか?」に、連合総研で『DIO』の編集に当たられたhayachanこと早川行雄さん自らコメントをされ、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-1e75.html
さらに、金子良事さんもブログでこの議論を取り上げ、一定の整理をされています。そしてそこにも早川さんがコメントをされています。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-416.html (対抗軸よりも主軸の振り返りが先ではないか?)
元エントリではどちらかというと、成長という言葉をめぐるややすれ違い気味の対立構図に焦点を当てましたが、金子さんの示された「対抗軸よりも主軸」というのがある意味でわたくしの感じた違和感をよく物語っているようにも感じられました。
そもそも、労働組合という社会的存在は、それ自体が自らの「軸」を持っているはずではないのか?その、しっかりと存在している「軸」から、あれやこれやの政党の掲げる、あるいはその時その時の思いつきで繰り出すさまざまな「軸」に対して、これは「是」、これは「非」と、しっかり言うべき立場のではないか、というのがわたくしの基本的な認識なのです。
労働組合は政党ではありません。政党ならば、野党であるから与党の「軸」に対して反対しなければならない、「対抗軸」とやらを打ち出さなければならないということもあるのかも知れません。いや、本当は政党であってもそんなのはおかしいのであって、本来ちゃんとした「軸」があって、そこから是非の判断が出てくるべきと思うのですが、全く逆向きの考え方の政治家たちがただ一つ政権交代という「軸」だけで寄り集まったような政党であれば、そんなことを言っても仕方がないのかも知れません。
でも、繰り返しますが、労働組合はそうではありません。たまたま与党が賃金抑制を言っていればそれに反対する、与党が賃金引き上げをいえばそれに反対する、というような訳のわからない存在ではないはずです。何が何でも「対抗軸」をでっち上げなければならないと思うから、話がおかしな方に向いていくのではないか。与党が何を言おうがぶれない「軸」があるはず。
要するに、労働組合は与党の言うことにいちいち対応してその都度一生懸命に「対抗軸」とやらを考えなければならない義理など、誰に対してもないはずなのです。なぜなら、労働組合の「軸」は移ろうゆくその都度の政府与党の政策に対してその都度移ろいゆく「対抗軸」などではなく、誰を相手にしても変わらない自分たちの「軸」であるはずだから。
もし、その労働組合本来の「軸」がいささか不明瞭になってきたために、野党まがいの「対抗軸」探しに向かいだしているとしたら、実はその方が遥かに問題だと思いますよ。
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