「鬱夫の恋」公式サイト(DLできます。「DLして下さい・・・」の下にDLのリンクがあります)






写真をごらんなさい。ここに写っている様子(学校でのイジメの様子)は、特にめずらしい


ものではありませんね。いじめは、どの学校でも起こっています。この写真を見て、


あなたは何を考えますか、あなたは同情しますか、その場にいたら、あなたはどうしますか。


(アーネ・リンドクウィスト、他「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」)







「世間」は、家族だけではなく、会社やあらゆる組織に作用します。しかし、


世間という得体の知れないものがなぜこうも強い力を持つのか。


(柄谷行人「倫理21」)






フリーゲーム「鬱夫の恋」をクリア…。大変な傑作であるるとともに、深い、重い、絶望的な、


暗澹とした気持ちに駆られる…。非常に優れて文芸的な、プレイヤーの心に訴えかける、


暗く重い作品と云うことが出来るでしょう…。非常に、気持ちが、深く沈む…。





物語は、10年前から部屋に引き篭もって部屋から一歩も出ていない、引き篭もりの男の子


が主人公。彼が10年前の決定的なカタストロフ、彼を部屋から出られなくした、破局的な悲劇


を回想してゆく物語…。彼は、いじめられっ子であり、学校では非常に悪質なイジメを受けて


いるのですが、彼に深い真摯な愛情を抱く母親(彼の家庭は母子家庭)に心配をかけない為、


イジメを受けていることは家族には内緒にして、地獄のような学校に毎日通っている。





彼は不細工ということで、女子からも非常に嫌われており、学校では四面楚歌の状態なのですね。





そんな彼は、捨てられていた子猫を可愛がっていたことをきっかけに、転校生の女の子と


仲良くなってゆく。この転校生の娘は、とても外見も可愛い子なのですが、決してそれだけではない、


本当に内面的に凄く良い娘で、人を外見で判断したりせずに、心に凄く強い倫理観を自然に


持っている、優しくて強い子なのですね。彼自身も、決して悪人ではなく(悪人は彼をいじめている


方ですね)、本質的には善人で優しい人なので、彼女と真摯に心と心を通わせあって仲良くなってゆく。





そして、孤独だった彼にも同性の友人も出来、彼女との仲も穏やかに優しく進展してゆく。


彼にとって、いじめっ子どもの問題はあるにしても、彼の世界が、好転し始めたと見えた時。





そこに破局が…。





…絶望的な破局、決して避けえられない暴力的なカタストロフ、深く暗く残酷な運命…。





この世界の色々な欠陥が、暴力的な、悪と醜が、善と美を蹂躙することを、示している。






ほとんどの(善意を持った)人は、いじめられている人を助けてやらなければと強く思います。


しかし現実には、そこにあえて割って入ろうとする人は稀です。私達は恐れるのです。


もしそうしたら、次には自分がいじめられるのはないかと恐れるのです。いじめ手たちの


目標になるのではないかという恐れで、自分の意志に反していじめに加わる人もいます。


………この問い(いじめ問題についての問い)の解答の一部は、グループというものの


重要性についての知識を与えてくれます。………グループの(同調)圧力は、そのメンバー


の態度を、仲間と一緒にいるときと一人でいるときではまったく異なったものにしてしまいます。


………実験(同調圧力に対する心理実験、有名なアッシュの実験)では、わずか4分の1だけが、


多数派に抗して自分の判断を選んだ。他の4分の3はグループの圧力を排することができなかった。


(アーネ・リンドクウィスト、他「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」)







我々が日本で出会うのは、儒教とかキリスト教というような明確な道徳律ではなく、


どこにもその主体も原理もないような「世間」の道徳です。………「世間」と戦うのが


難しいのは、それが気まぐれで、正体がはっきりしないからです。………友情(関係)


が存在するには、「自己」がなければならない。しかし、(世間付き合いに生きる人には)


その「自己」がないのです。中心は世間であって、それを彼らは恐れている。だから、


彼らは孤立を恐れて仲むつまじく付き合いますが、ほんのうわべだけです。根本的に


エゴイスティックであるのに、「自己」はない。私はそこから、近年の若い人達について


指摘されている「同調的ひきこもり」という現象を思い浮かべます。たとえば、彼らは


イッキ飲みで明るく騒ぎますが、それは互いに深い関係を持ちたくないということです。


………ただ、「世間」を恐れ、基準からずれないようにしている。


(柄谷行人「倫理21」)







世間は事実上平均性の中に棲み、その立場から、その都度何が妥当であるかを定め、


全ての平均的なものを是認し好評するが、そうでないものは非として歓迎を拒む。


この平均性は、およそ可能な全ての企ての範囲を指定し、いかなる例外も突出すること


がないように監視している。いかなる高貴な真価を持つものも静かに抑えこまれてしまう。


………あらゆる存在様式の均等化………


(ハイデガー「存在と時間」)






アッシュの実験を解説されておられるサイト(「想伝心変」さん)





構造的な問題、暴力的なもの(無倫理的暴力)の持つ特権的な地位と、グループの同調圧力、


即ち”世間”の支配――、それは、人間の人間性を破壊してゆくし、そういったものを覆してゆかねば


ならないと私は思う、けれども――人の悲劇は、どうしようもなく、その努力を嘲笑うでしょう。





本作で出てくる”目”や”人形”は主人公の彼の中にある。それは、彼の、死への、欲動。


それは、人間の生の中に内在する。その死が、外部へ攻撃として表出すれば、


それはいじめっ子達の残忍な悪意として現れる、が、それが内に現れれば…。





それでも、外なる敵、内なる闇と、人は戦ってゆくしかないのだと、私は思っている。





個としての人間を貶め、卑め、隷属させ、見捨てられさせ、蔑まれさせる存在にする


あらゆる一切の諸関係と戦いそれを覆すこと、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」


の言葉、この言葉の意志を、自ら現して、戦ってゆくことを、私は意志する。






それにしても、(現代)日本の子供の世界のいじめは度外れの域に達しているようである。


昔は(倫理的な)階級性が(子供のあいだにも)保存されていた。だから、集団の頭目に


とって、過度の少数者排除(いじめ)を咎めるのがノーブレス・オブリージュ(地位の高い


者の責任)とされた。………したがって、たとえば非行集団の長であっても、弱い者いじめ


は許さないと身構えることによって、その貫禄を誇示することになっていた。今は、階級性


は上辺では否定されているので、かかるノーブレスな態度は消滅し、「長」たる者が――


たとえば教室の教師までもが、いじめを率先するというようなことが起こる。


(西部邁「学問」)







何が高貴であるか?………幸福は多数者どもにくれてやること。すなわち、魂の平和、


(高貴さのない)徳、安逸、スペンサー流のイギリス的な商人的小市民じみた幸福は


くれてやること。己の負うべき重い責任を本能的に探し求めること。いたるところで


敵をつくることを心得ており、最悪の場合には我が身すら軽視するということ。


多数者どもに、言葉によってではなく、行為によってたえず抗してゆくということ。………


私達の高貴な危険な贅沢としての徳、たとえば誠実さとしての。


私達はこれらの徳に必然的に伴う不利益を拒否してはならない。


(ニーチェ「力への意志」)






高貴さ――勇気と誇りを自らの安逸以上とする覚悟を持って


生きることを欲する努力を、自らに求める。


そのことを、意志することを。





参考図書(amazon)


アーネ・リンドクウィスト、他「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」


柄谷行人「倫理21」


西部邁「学問」


カール・マルクス「マルクス・コレクション?」(ヘーゲル法哲学批判序説)


マルティン・ハイデガー「存在と時間 上巻」


マルティン・ハイデガー「存在と時間 下巻」


フリードリヒ・ニーチェ「力への意志 上巻」


フリードリヒ・ニーチェ「力への意志 下巻」