今日は雪すら降るほど寒い日だったが、女性は足を出来る限り露出させる。
寒さに耐えれるほど、性的魅力をアピールするということに旨味があるということだろう。
弱者も差別に加担しているのだから、そのような差別に苦しむのは仕方がないという論調をよく耳にする。
かつて受講したジェンダー論の授業というのも講師はそのようなことを言っていたような気がしなくない。
気がしなく無いというのは講師が言っていたことが曖昧だからである。
やさしい口調で、そのような価値観に染まっているのだから、あなたは苦しむのであるということを説教しているような気がした。
自分は本当は差別がなくなってほしいのではなくて、勝者になりたい。
そんなの当たり前である。
自分は容姿が良くなって、楽しいキャンパスライフを送りたいだ。
高校時代、肌やらの容姿でキモがられず早稲田大学のやら慶應大学への勉強をもっと前向きにやりたかった。
不細工だって、美男美女を好むのだから差別されて仕方がないよねなんて言われたらたまったもんじゃない。
整形を勧めてはいないだけだけだった。
酷い凹凸や赤みやら毛穴やらに覆われた顔の肌や、出来の悪い顔もどうにかなるかもしれない。
できるかぎりマシな方向にするために、金を貯めるしか無いのだろうか。
神戸大学卒業の父親が遠回しに母校の3年次編入が出来るのではないかと関関同立からの編入生を見たらしく薦めてきた。
英語がボロボロであるが、2年間かけて今年無理でも来年うまくやって実質1浪、そうでもなければ2浪状態なら上手くいくかもしれない。などと淡い期待を抱き始めた。
出来るかわからないし、良くならないかもしれない整形と、うまくいきそうにない神戸大学への編入への希望を抱き始めた年始である。
持病が再発したらまた容姿は崩れるし、英語がボロボロの自分で絶望でいっぱいではある。
自分は頭の悪い大学の学生で、容姿が醜くて、持病であまり改善が見込めないから容姿やら学歴の平等を求めるのだ。
当たり前だ。
ジェンダー論の講師なんかより、自分の容姿をとても良くしてくれる者が本当はいて欲しい。
転部すら失敗するかもしれないから。