次男のクラスで、冬休みに「昔の道具しらべ」という宿題がでた。
冬休みの宿題には、「おじいちゃんおばあちゃんと会う機会も多いでしょうから、昔の道具についてインタビューしてきてください。できない人は本やインターネットで調べてもいいです」っていうものがあって、何も言わずに本を借りる子供をみていると、わざわざこんな宿題が必要なんだろうかと思う。
— とんはは (@gambarutonhaha) 2016, 1月 6
でも批判したい気持ちがあるというわけではなく、これがスタンダードなものの考え方なんだなと思うだけ。お正月といえば、家族親戚で集まる、おじいちゃんおばあちゃんとふれあう。それが日本のお正月の過ごし方、みたいな。笑顔でなぐられてるような気持ちになる子もいるだろうなー。
— とんはは (@gambarutonhaha) 2016, 1月 6
こういう宿題が出たということは、ひとりひとり発表する場もあったんだろうなと思っていたら、やっぱりそうだった。そのときの様子と先生の感想が、先週末に配られた学級通信につづられていたので、少しだけ引用してみる。
◯日に冬休みの宿題だった「昔の道具しらべ」の発表会を開きました。お家の方の協力もあり、しっかり絵が描かれていたり、写真付きだったり、とても素晴らしい学習をしてきた子供が多かったので、プロジェクターに映し出しながらの発表という形で行いました。
そしてもう1つの話題として、休み明けの漢字テスト結果についても触れられていた。クラスのほとんどが90点以上だったこと、これだけの好成績をおさめたのはご家庭での声かけや、採点のおかげということが書かれていた。
この学級通信を読んで、なんとも思わないっていう人もいると思う。むしろ、そちらの方が多いかもしれない。でもわたしは、正直プレッシャーだなぁと思った。
お家の方の協力もあり
ご家庭での声かけや、採点のおかげ
言葉は丁寧だし、保護者への感謝の意を表している。ただの社交辞令かもしれないし、これにプレッシャーを感じるわたしの方がひねくれているのかもしれない。
プレッシャーを感じる理由
冬休みの宿題については、子供が自ら本を選び、自分の力でまとめて提出したので、実はわたしはノータッチ。どんな調べ物をしたのかさえ、知らない。いつもの感覚で調べて、いつものように普通にまとめただけなんじゃないかなぁと思う。わたしはそれでいいと思ってる。
と同時に、家族が協力して充実した学びにすることもすばらしいと思ってる。その家族にとって、その子供にとって、かけがえのない宝物のような時間になるだろうと思うから。なんか嘘くさくみえるけど、本当にそう思ってるから!
ただ、そのことと、そのことを先生が学級通信で「すばらしい」ということは、全く別の話だと思う。
この記事にはつっこみどころもたくさんある。最初に読んだとき、「親のリソース」っていう言葉自体がどうしても気になってしまって、内容がすんなり入ってこなかったが、今回の学級通信を読んで思い浮かんだのはまさにこの記事のこの部分だった。
親がどれくらい自分の子どもの学習に興味を持つか、時間をかけるか、というのは、親のリソースに大きく左右されることですが、それがもろに学校の活動に出ちゃうわけですね。
ちなみにリソースっていうのは、
resource。資源。情報資源。
「親のリソース」という言葉を、「親が子に対して使える力」とか「親が子に対してしてやれること」というような言葉に置き換えてみると、ずいぶん印象が変わる。
調べ学習の成果や漢字テストの成績が上がったことを、親の関わりも含めて評価されるということは、親の関わりが子供の評価に影響を与えるということでもある。これはわたしにとって、かなりプレッシャーだ。
いや、とんははさん家庭学習に力入れてるやーん。ちゃんとやってるやーん。と言われるかもしれない。確かにわたしは、子供の学力を伸ばすためには家庭学習の習慣が大事だと思っている。そのためにできることはやってきたつもり。出された課題に取り組むときも、子供に頼まれればできる限り協力している。でもそれは、厳密に言うといい評価をもらうためでも、成績をあげるためでもなくて、できること・わかることを増やして「勉強ができるって楽しい」と思ってほしいから。子供がやりたいと思っていることに力を貸したいからだ。
それにね、自主的に取り組んでいることだから無理はしない。体調が悪ければ「今度ゆっくりやろう」というし、忙しくてみてやれないときだっていっぱいある。でも、宿題や課題は違う。提出期限があるし、やらなくちゃいけないことが決まってる。そういう「今やらなくちゃいけないこと」に親が関わらなければならないだけでなく、そこに評価までくっついてくるとなれば、プレッシャーに感じるなというほうが難しい。
子供のミスに気がつかなかったのは親のミス?
長男のクラスでは漢字に力をいれているので、宿題にもたっぷりと漢字練習が出る。1週間同じ漢字練習をしてテスト、というのがいつもの流れだ。長男は漢字がとても好きで、100点をめざして真面目に取り組んでいた。でも、真面目に取り組んでいてもミスをするときはある。
この問題の答えを、長男は1週間「制度」と書き続けた。丸つけをしていた夫もまた、1週間その間違いに気づかず丸をし続けた。当然、テストでも間違えてしまった。たった1問くらいとわたしは思ったけれど、本人は大きなショックを受けていた。連続記録がかかっていたんだって。
もちろん、最初にきちんと確認しながら宿題に取り組めばよかったのだから、長男のミスだ。そして丸つけをしたときに気づかなかった夫のミスでもある。でもこれは宿題だ。宿題をチェックする責任って先生にあるんじゃないの?宿題の内容がテストに直結しているのに、その宿題の丸つけは親に託されている。それってなんか変じゃない?
宿題の丸つけを親がすることによって、子供が今どんなことを勉強しているか知るきっかけになる場合もある。宿題をきっかけにコミュニケーションが生まれる場合もある。それはそうだと思うけど…宿題という形でそれを強要されるのは負担が大きすぎる、というのがわたしの本音だ。
まとめ
子供の学習の成果が親の関わりを含めて評価されることは、積極的に子供の学習に関わろうとしている人たちにとって大きなモチベーションにつながると思う。子供たちも「もっともっと」とヤル気になるだろうし、親もその期待にこたえようとするはず。
じゃあ、その親の関わりがのぞめない子は? してあげたくてもできない親は? かわいい子供のためなら、睡眠時間を削ってでもやるべき?そんなアホな〜。
先生に悪気がないのはわかる。でも根底にある理想が透けて見えすぎると、その理想にそぐわない人にとってはつらいと感じることもあるということは、わかっててほしいなぁと思う。伝えるの難しいから、なかなか言えないけど。
まとまらないまとめ。おしまい。
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