中部博著『自動車伝来物語』(1992年、集英社)は、我国への自動車の伝来に関して薀蓄を傾けたユニークな本である。この本に、神戸大学工学部に胸像がある廣田精一初代神戸高等工業学校(神戸高工)校長(写真)と黎明期の自動車との関わりが詳しく紹介されている。神戸大学工学部の前身である神戸高工の設立は1921年(大正10年)。その初代校長が廣田精一先生(1871―1931)であった。廣田先生は1871年(明治4年)広島県福山の生まれ。帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)電気工学科を卒業した。卒業後は実兄が支配人をつとめていた高田商会に入社する。その後、ドイツのジーメンス・シュッケルト社に社内留学、帰国後高田商会の電気部長に就任した。
明治33年(1900年)、高田商会の洋行帰りの電気部長であった廣田精一先生は日本の自動車の歴史に颯爽と登場する。弱冠29歳という若さだ。この年の5月10日、時の皇太子(後の大正天皇)のご成婚に際し、サンフランシスコ在留の日本人が電気自動車を献納した。1900年9月8日付東京日日新聞(現毎日新聞)には、この献納車(注)のイラストが掲載されている。
(注)この自動車は、永年の間“日本最初の自動車”とされていたが、その2年前の1898年、フランス人テブネ(Jean Marie Thevenet)が日本へガソリン自動車を持ち込み、銀座を走った(運転したのはテブネ)という記録が明らかとなってからは、定説からは外されている。
さて、献納された電気自動車は日本に到着したが、その充電の方法、運転の仕方についてのノウハウがない。そこで、東京電灯株式会社(現東京電力)にご下命がある。ところが、送電を開始して11年を経た日本最初の電力会社も、交流電力を直流電力に変換して電気自動車に充電することができない。そこで、今度は高田商会にご下命があった。そこで、廣田精一電気部長は高田商会にあったジーメンス・シュッケルト社製の直流の充電装置を使用して電気自動車に充電する。当時、この自動車は青山御所に所蔵されており、ここで廣田精一部長自身が機能の検査、前進・後退・停止等の試験をおこなった。フランス人テブネが来日以来、日本に自動車は持ち込まれた形跡がない。そこで、高田商会の廣田精一部長は、「日本の国土の上で最初に自動車を運転した日本人」ということになる。
翌日になって、次席の者がブレーキの検査をおこなった。この2日目の走行試験は紀伊国坂で行なわれた。ところが、ブレーキとハンドルの操作ミスから。この献納車は濠に転落してしまう。この2日目の運転者は汽車の機関士だったともいわれている。濠から引き揚げた献納車は、幸いにして無傷。後日、皇太子の前で、“静かに運行しておめにかけた”由である。
作成:神戸学術事業会 |