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SPIRITS OF SUNGLIATH

#20 エディー ジョーンズ 『よいプレーをすればすごく美しいスポーツ』

◆日本に年2〜3回来る

—— 先ずサントリーと貴方が出会ったきっかけを教えてください?

ファーストコンタクトは88年、サントリーがオーストラリア・ツアーにやってきたときです。そのときランドウィックという自分がいたクラブと試合をしたのが最初です。そのあとにモルツを飲んで(笑)、スチダ監督、ムズカシイネ(*と言いつつ日本語はかなり流暢)....

—— ツチダ監督(土田雅人)ですね

そう、土田さんが監督だった96年に、アドバイザーとして3〜4週間、サントリーを教えに来ました。そして97年4月、吉野ヘッドコーチ(俊郎)のときに、サントリーのコーチとして3年やることが決まってやって来ました。でもその年の8月にACT(豪州首都圏)ブランビーズから話が来て、9月にサントリーを去りました。それ以降、サントリーにはテクニカルアドバイザーという形で残りました。

—— それ以降、どれくらいのペースで来日されてるんですか?

1年に4〜6週間、日本に来ています。回数でいうと年に2〜3回、それぞれ1〜2週間ずつぐらいですね。

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—— 現役時代はどんな選手で、コーチになったのはいつからですか?

プレーヤーとしてはフッカーをやっていました。背番号2番です。小さい選手でした。92年に現役を引退して、そのあと高校の教師になり、94年から校長になりました。96年にプロのコーチになることを決心して、日本に来て東海大学のコーチになりました。私がコーチをやったのは日本が初めてです。東海大学には80人ぐらいの選手がいて、コーチは私1人でした。だからすごく大変でした。人数が多くてそのときは大変だったけど、計画することや大人数の指導方法とか、覚えることができたと思います。その年に、日本代表チームのフォワードのコーチもしました。

—— 初めて日本に来たのは

95年の東海大学の夏合宿で青森に行ったのが最初です。そしてその次の合宿が長野県の菅平でした。

◆自分ができることはサントリーのためにしたい

—— それだけ関わってこられた日本のどこが好きですか?

いっぱいあります。先ずコーチとして日本に来て、グラウンドに立ってコーチをすることが好きです。選手たちに指導をするのが好きなんです。そして家族の面から考えると、日本はすごく大切な国です。私の妻は日本人ですし、私のお母さんは日本人とのハーフです。だから私はクォーターですね。母は広島生まれですが、家では日本語をしゃべりません。サントリーとも長いつき合いですので、自分ができることはサントリーのためにしたいと思っています。短い期間でしたが、サントリーのフルタイムコーチもやりました。私は運がよくて、1998年から2001年にかけてブランビーズの監督の仕事がきました。そこで4年やってオーストラリアのチームとして初めてスーパー12(現在はスーパー14)で優勝することができて、それからオーストラリア代表監督の話がきました。それから4年間、代表監督をやって、この先はクィーンズランドレッズの監督をやることになっています。

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—— 現状、日本のラグビーはどうですか

準備の面ではプロ意識を持ち始めているところだと思います。いまはオーストラリアやニュージーランドのチームがやっているプログラムを、日本の企業チームもやっていると思います。でも大学などのチームの準備は変わっていない、これは関東学院大学と早稲田大学以外のことを言っていますが、この両校以外、変わっていないと思います。初めて日本に来たときは、古いスタイルのラグビーをやっていました。ディフェンスがすごく弱かったそのときから比べると、日本のラグビーのレベルはかなり上がっていると思います。ディフェンスのレベルも上がっている。その代わりに、アタックの想像力が低下しているような気がします。そこがちょっと残念ですね。

—— それ(アタックの想像力が低下)は何故だと思いますか?

常に危くないアプローチをとっているように見えます。低いリスク。そういう意識も含めて、サントリーが前に進むラグビーを目指しているのは、いいことです。日本のラグビーを背負っていくような気持ちでいくことは、とても大事なことだと思います。

◆監督といい会話をしている

—— 新しい清宮監督はエディさんから見ていかがでしょう

清宮監督は、そのようなすごいビジョンと意識を持っていると思います。ラグビーはアタックで上達する方がいつも大変なのですが、日本に今回来てから、ずいぶん監督といい会話をしていると思っています。

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—— 最初に清宮監督と会ったのは?

96年、彼が選手のときです。すごくいい選手でした。頭を使うタフな選手。その要素を本人が今のチームに持ってきていると思います。

—— エディさん自体の選手時代は?

私は体が小さくて、現在、173cm、82kgです。ゲームセンスとスキルは並み以上にあったと思います。

—— ラグビーでいちばんの想い出は?

自分のクラブチーム・ランドウィックが、1988年にオールブラックスと対戦したんですが、これがニュージーランド代表とクラブチームが対戦した初めての対戦だったんです。オールブラックスは1987年の第1回ラグビーワールドカップ優勝チームですので、とても強いチームでした。そのチームを相手に、21-9で負けました。オールブラックスが来たそのツアーでは、いちばん得点差の少ない試合でした。とてもファンタスティックで、クラブチームとしてみれば、快挙といってもいいくらいです。サントリーがウエールズに勝ったときと、同じかも知れません。

—— そのときプレーヤーとしてのエディさんは?

グッド。ずいぶんいい仕事をしました。

—— エディさんはオーストラリア代表だったことがあるのですか?

ニューサウスウェールズ代表には、15回選ばれています。ワラビーズ(*オーストラリア代表チーム)では“スタンドバイ”(補欠)でしたが、代表チームでプレーするほどの技術はありませんでした。

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◆この1分間1分間が最高なんだ

—— そうすると監督として代表にデビューしたときは、物凄く嬉しかったのでは?

ファンタスティックでした。最高、いままででいちばん嬉しい気持ちでした。もちろんラグビーはプレーした方がいいけれど、その次にはコーチとしての喜びがあるので、そういう経験ができたことに感謝していますし、ラッキーだったし、とても光栄だったと思っています。

—— オーストラリア代表監督の仕事は大変でしたか?

オーストラリア代表は、1999年のワールドカップで優勝しているので、次の2003年のワールドカップはいちばん大変な状況でした。選手たちも1999年に一度ピークに持っていったので、その期間に自分たちのポテンシャルに達してしまったと思った人もいたと思います。それでその後、2003年のために再び準備しなければいけなかったのですが、チームのレベルを保つことは大変でしたし、メディアからのプレッシャーもすごかったんです。その頃どう思っていたかというと、この1分間1分間が最高なんだ、ということでした。

—— コーチとして大切にしていることは何でしょう

自分の選手をリスペクト(尊敬)することです。そうすれば選手たちも、自分をリスペクトしてくれます。そして選手が常にいい状態でプレーできるような環境を作ることが大事です。

グラウンドから見た面では、オーストラリア代表チームをコーチすることも、サントリーをコーチすることも変わりがないんです。違うレベルでやっているのかもしれないけど内容は同じで、技術面にしてもグラウンドでやっている練習やトレーニングしても、どちらも同じことだと思っています。

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